【Ex-春030】桜の咲くころ

 今年もまた、ちらほらと桜が咲き始めた。

 

 妻の番号が呼ばれた。付き添いの相模さがみはもう用なしだ。今日は胎児の心音検査のため一時間ほどかかるらしい。まだ空いているとはいえ、待合室の席を占領するのも気が引けて、相模は廊下に出た。一階のコーヒーショップで時間をつぶす作戦だ。エレベーターをおりたところで何気なく窓の外を見ると、花壇には温かい日差しを浴びていろんな色の花が咲き乱れている。


 ――へえ、気付かなかった。ちょっと覗いてみようかな、時間はたっぷりあるんだし。


 相模は外へ回った。大きな総合病院の正面玄関真横に、その中庭はあった。ゆっくりと足を踏み入れた相模の耳に、小さな笑い声が聞こえた。続けて猫の鳴き声。


「うふふ、ショチョーくすぐったいよ」

 

 みゃあぁぁ。


 ――あ、子ども。


 植込みの向こう側に、車椅子に乗った男の子が猫と遊んでいるのが見えた。相模に気付いた男の子がニコッと笑った。


「こんにちは、おじさん」

 

 『おじさん』と呼ばれたことに驚いて、相模は思わず辺りを見回した。近くに誰もいないのを確認して、ようやく「こ、こんにちは」とどもるように返すと、男の子はまた「ふふっ」と笑った。


「一人?」

「ううん、僕のお母さんね、いっつもおしゃべり長いの」

 

 相模が尋ねると、男の子は正面玄関のほうを指さした。中庭の隅っこでは看護師と、男の子とそっくりなやさしそうな女性が話に花を咲かせている。


「僕、いつもショチョーと遊んで待ってるんだよ」

「ショチョー?」

「うん、この猫。ここの研究所の人たち、みんなそう呼んでる」


 可愛いのだけれど若干くたびれた中年おっさんの雰囲気を纏った、グレーの猫。男の子が頭をなでると、それまで大人しくしていた猫はぴょんと男の子の膝の上から飛び降りた。

 

「ショチョー? どこ行く……あっ」

 

 猫を追いかけようと、男の子が車椅子の方向をかえた。地上に飛び出た木の根っこに運悪く車輪が引っかかる。車椅子がぐらりと傾いた、ように見えて相模は慌てて車椅子に手を伸ばした。


「おいっ、あっぶねえ」


 とっさに車椅子を押さえた相模はほっと胸をなでおろした。当の男の子はきょとんとしている。


「ゆっくりな」

「うん……あれ?」

「根っこに引っかかってる。俺が押してやるよ」

 

 相模はレバーを握った。ところが車椅子は動かない。


「……進まないな」


 力ずくで押そうとする相模の頭上から声がした。

 

「ブレーキかかってますよ」


 その声に相模が顔を上げると、制服姿のDK男子高校生が立っていた。


「ほら、ここ」


 そのDKは手際よくブレーキレバーを戻す。さっき相模が慌てて車椅子を支えようとしたときに、膝がぶつかってブレーキがかかってしまったらしい。


「ありがと、助かった。よく知ってるんだな」

「俺の友達も中学のとき車椅子に乗ってたから」


 「もう大丈夫だよ」そう言ってDKは男の子に向かってにっこり笑った。相模よりもずっとガタイがいいのに、ちっとも威圧感のない物腰柔らかそうなDK。相模はその手首にがっちりテーピングが巻かれているのに気が付いた。

 

「怪我したの?」

「はい、部活で手首痛めちゃって。たいしたことなかったけど、念のために診てもらってるんです。新学期は試合が続くから」

「すっげえ筋肉ついてんね、何部?」

「柔道部です」

「なるほど、それで」


 うみゃぁ。


「わ、びっくりした」


 突然足元で鳴いた猫にDKが驚く。男の子が嬉しそうな声を上げた。

 

「ショチョー帰ってきた」

「ショチョーって言うんだ。あはは、可愛い」


 猫好きなのだろうか。DKが笑いながら猫を抱え上げた。立派な成猫なのにDKの腕の中ではまるで子猫のように見える。

 

「ねえ、お兄ちゃんのお友達、元気になったの?」

「ん? うん、元気だよ。今はもう一緒に高校にも行ってるよ」

「そうなんだ、よかったね」


 男の子の表情がぱっと明るくなった。


「あのね、あのね……」


 男の子は突然マシンガンのように相模とDKに話しかけ始めた。


「僕もね、四月からは学校に行けるんだ。六年生になるんだよ。すっごい楽しみ」

「へえ、六年生なんだね。学校、行けるんだ?」

「うん、ずっと入院してたの。でもね、五年生のときはショーイチが僕の代わりに学校に行ってくれてたから、友達たくさんいるんだよ」

「ふうん、そっかあ?」

「ショーイチはね、僕のロボットなんだ」

「ロボット?」

「うん」


 全く話がつかめない。相模とDKは交互に『?』だらけの相槌を打った。男の子はお構いなしにニコニコと話し続ける。そして男の子が嬉しそうに「えへへ」と笑ったとき、どこかから「ショチョー」と呼ぶ声が聞こえてきた。猫が「みゃっ」と潰れたような声を上げる。遠くから白衣をきた人が駆けてくるのが見えると、猫はしなやかに地面に飛び降り、風のように走り去っていった。


「あはは、また追いかけられてる。ショチョーまたね」


 男の子は猫に手を振ると、母親のほうを振り返った。


「ショチョー行っちゃったし、僕も帰ろ。お母さんったらおしゃべり大好きなんだから」


 ――いやいや、お前もおしゃべり大好きだろ。


 心の中でそんな突っ込みを入れながら、相模とDKは顔を見合わせて苦笑い。


「じゃあね、おじさん、お兄ちゃん」

「車椅子、一人で大丈夫か?」

「うん、一緒に遊んでくれてありがと」

「気をつけて」


 男の子は器用に車椅子を操作して、母親の元へ帰っていく。腕時計を見た相模が、「お」と声を出した。


「もうこんな時間か、そろそろ検査終わるかな」

「結果待ちですか?」

「いや、俺は妊婦検診の付き添い。子ども生まれるんだ」

「おめでとうございます」

「ありがと。君も手首、早く治せよ。試合、頑張って」

「はい、ありがとうございます」

 

 ぴしっとお辞儀をしたDKとも別れ、相模は産婦人科へ向かった。コーヒーを飲む時間はなくなってしまったけれど。人懐こい男の子と、通りすがりの親切なDK、そして可愛い猫。一人でコーヒーを飲むよりもずっと良い時間を過ごした気がする。


 ――素直ないい子たちだったな。


 さっきのひとときを思い出し、相模は自然と優しい顔になっていた。

 

 ――俺も頑張んないと。


 愛しい妻と生まれてくる我が子を思い浮かべて、相模は「よし」と気合を入れた。

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