【秋005】山の着物
子供の頃、まあまあな田舎で暮らしていた。
家の脇に小さな川があって、その川には橋がかかっていて、その橋を渡ると山に入る砂利道があって、もう山だった。そんな程度には田舎だった。
夏休みが終わってどのくらいか経った休みの日、わたしは家で一人だった。友達の家は、車でないと遊びに行けないほど遠かった。
退屈を持て余して、わたしは橋を渡って川沿いに山に入っていった。川沿いに歩けば、迷うことはないだろうと思っていた。
川の流れる音を左耳に聞きながら、砂利道を登っていった。さっぱりと天気の良い日だったことを覚えている。その空気は、もう夏のものではなかった。
ふと、砂利を踏みしめながら歩いているうちに、川の音が小さくなっていることに気付いた。川沿いに続くと思っていた道だけど、どうやらどこかで向かう方向が川と逸れてしまったらしい。
このまま進んで大丈夫だろうか、と不安になって周囲を見回す。夏の盛りを過ぎた木々は、それでもまだ濃い緑色の葉っぱを茂らせていた。その木立の向こうに、水の流れる音がした。
それできっと、この音が聞こえている間は大丈夫だろうと思った。それに、ここまで一本道だった。来た道を反対に辿れば帰れるだろう。
そう判断して、わたしは進んでいった。
そうやってしばらく進んでゆくと、行く先から何やら人の話し声のようなものが聞こえてきた。誰かの畑だろうか、誰かが農作業をしてるのだろうか、なんて思いながらさらに進めば、ぽっかりと開けた場所に出た。
そこには、着物姿の女の人が十人ばかり集まって、何やら針仕事をしているのだった。
こんな山の中で見かけるには不思議な光景だ。そういえば、何年か前に死んだ祖母は普段着も着物の人だったな、なんて思い出した。それから、なんでこんな山の中で針仕事をしているんだろう、なんて思った。
その女の人たちは、何やら楽しげにおしゃべりをしながら、忙しなく針を動かしていた。
怖いとは思わなかった。ただ不思議だなと思って眺めているうちに、気になってきて、わたしはそっと女の人たちに近付いていった。
中の一人が、ふとわたしの方を見たかと思うと、「おやまあ」と声をあげた。それでおしゃべりがぴたっと止んで、女の人たちが一斉にわたしの方を見た。びくりと、わたしは動きを止めた。
「こんなところに、迷い込んで来た子がいるよ」
誰かの声を皮切りに、あらあら、おやまあ、どうしましょう、と声が重なる。まるで、たくさんの雀が集まってちゅんちゅんとめいめいにさえずっているかのようだった。
「今とっても忙しいんだよ」
「見てわかるだろう」
「あんまり近付いては駄目」
「この布に触ってはいけないよ」
「ほらほら、足元気を付けて」
「布を汚したら大変だ」
そう言って、女たちはわたしを追い返そうとした。わたしは慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい。来たら駄目だなんて知らなくて」
女たちはころころと笑った。
「駄目なんてことはないけどね」
「山は危ないからねえ」
「気を付けてお帰り」
頷いて後ずされば、背中が何かにぶつかった。慌てて背後を見上げれば、背の高い女の人が立っていて、わたしを見下ろしていた。
真っ黒い髪を綺麗に結い上げていて、青と緑のガラス玉のようなものが飾られていた。鮮やかな緑色の着物と、まるでそこに流れる川のような波模様の帯。
針仕事の女たちが、また賑やかに声をあげた。
「おやまあ」
「着物の仕立ては順調ですよ」
「今年はいつにも増して見事なお色ですねえ」
「いつもより早く仕上がりそうです」
「ええ、ええ、見事に仕立ててみせますとも」
わたしはぽかんと見上げるしかできなかった。その女の人はわたしを見下ろして、紅い唇に笑みを浮かべた。
「迷い子か。もうお帰り。帰れなくなる前に」
そう言って、片手を上げて森の向こうを指差した。それは、わたしが来た方向だった。
わたしは女の人から二、三歩離れて、それから頭を下げた。女の人が声を上げて笑う。
「気にするな。稀にあることだ」
針仕事をしていた女たちは、手元の布を持ち上げて背の高い女の人に見せるようにした。背の高い女の人はその布を受け取って、自分の体に当ててみる。
見事な紅葉の柄の着物だった。
「おやまあ、まだいたのかい」
女たちの一人がわたしを見てそんな声を上げると、また口々に声が飛んで来た。
「早くお帰りよ」
「遅くなると帰れなくなるよ」
「さあほらお帰り」
「危ないよ危ないから」
わたしはもう一度頭を下げて、さっき指さされた方に向かって歩き出した。そうやって歩くうちに、そうだ、こっちが帰る方向だった、という気持ちになっていった。
それでもさっきまでの光景が忘れがたくて、足を止めてそっと振り返ったけれど、木立に紛れてもう何も見えなかった。
そこから後は、振り返ることもせずに山を下った。川の音がだんだんと大きくなって、気付けば川沿いの砂利道に戻っていた。そして、橋を渡って家に戻った。
親には山に入ったことがばれてしまって、一人で山に入るなんて危ないと怒られた。
山の木々の緑が少しずつ秋の色に染まっていったのは、その次の日からだった。
そうして、気付けばすっかり秋になって黄色や赤に染まった山を見ると、あの見事な紅葉の柄の着物を思い出した。
きっとあの着物は見事に仕立て上がったのだろう。あの背の高い女の人が着ている様子は、さぞ美しいのだろう。
今でも、秋になって色付いた山を見ると、ふとあのときのことを思い出して、そんなふうに思うのだった。
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