【夏022】それならクジラに聞いてみろ
──バンクーバー島沖2km カナダ 北太平洋
空は夏色。海は凪。空と海の境界が青々と溶けている。
「ソナーに感あり」
周辺海域に船舶の影なし。絶好のホエールウォッチング日和。
マリーアンは操舵室からの声に反応して薄手のパーカーを脱ぎ去った。さあ、クジラが呼んでいる。
カナダ生まれカナダ育ち、起伏の激しい肢体がワンピース水着に包まれている。いかにもアングロサクソンっぽく、白くて眩しい。
「エンジン停止。あとは波任せ」
操舵室の杏樹はマリーアンの水着姿を恨めしそうに睨め付けた。
まったく、カナダ女め。見せつけるように脱ぎおって。潮っけを吸った綿Tシャツの胸元を覗く。大陸の肥沃な大地とはほど遠く、島国の痩せた平野がウェットスーツにすっぽり収まっている。
「アンジュ。ほら、早くー」
約束の時間ぴったり。夏の太陽が真上に眩しく浮かぶ頃、この洋上で歌い合おうと約束していた。合図の歌を送らないと違う船だと思われてしまう。
「飛び込んでていいよ」
言うが早いか、海面が爆ぜる音と水飛沫。マリーアンは海の人となっていた。
まったくせっかちが過ぎる。こっちの準備もまだだと言うのに。杏樹は電気コントラバスのケースを引きずりながら悪態の一つや二つも吐きたくなった。
凪いだ海面。夏空が映ったかのように青々しく澄んでいる。マリーアンは浮き輪の中にくびれた腰をねじ込み、ぷかり、海面に浮かぶ。
アニメ絵が描かれた子供っぽいTシャツを脱ぐ杏樹。ハーフ袖のウェットスーツから伸びる両脚はすらりと細く、胸も薄くて何なら向こう側が透けるほどだ。日本女め。細く締まった身体を見せつけるか。
「アンジュもおいでよ。ぬるくて気持ちいいよ」
「バスが弾けないじゃないのさ。あたしはデッキで日光浴よ」
「ハイハイ。チューニングよろー」
「スピーカーセッティングよろー」
結局は仲がいい二人である。
クジラは語る。ヒトの可聴域にわずかにかかる低音を響かせて、はるか数百キロ遠くの仲間と儚いコミュニケーションを重ねる。
「元気にしてたー?」
マリーアンの声が水中スピーカーで拡散される。デッキ上で杏樹は、彼女の声に対応させた音階を電気コントラバスで弾いた。重々しい音が電気的な意味を持たされて海中に放たれる。
ヒトは歌う。楽器という数多の道具で色とりどりの音色を奏でて、同時に大勢の仲間と密接なコミュニケーションを図る。
はるか海の深み。52ヘルツの歌声が鳴り響いた。
水中マイクに繋いだタブレットPCが歌声を音階へ分解して、言語解析に特化したAIが練り込まれた概念を抽出してクジラ独特の感情をあてがう。
「返信あり。『また会えた』ってとこ?」
通常のクジラはおよそ20ヘルツの低域の声を持つ。しかしただ一頭、52ヘルツの声で歌うクジラが確認されている。
その特異なクジラは他のクジラに聞こえない声で語り、歌えない音域で歌う。マリーアンと杏樹はその地球上ただ一頭の孤独に歌う個体と何とかコミュニケーションを取れないものか、と研究していた。
「海面まで上がっておいでよー」
浮き輪にはまって浮かぶマリーアンが水中スピーカーの球体を足の裏でペチペチ叩く。
透明度の高い夏の海には小魚一匹姿が見えない。話し相手は海中数百メートル底にいるはず。
気安く言ってくれる。杏樹はマリーアンの浮き輪を吹き矢で狙い撃ちしたくなった。
人間の複雑な言葉をクジラ語に変換して、52ヘルツの周波数に落とし込まなければならない。宇宙人との会話並に無茶な翻訳だ。
弦楽器の中でも最も低音を奏でられる電気コントラバス。杏樹はゆっくりと弦を撫で、低く波打つ言葉を奏でる。クジラの歌はアンプを通して増幅され、ゆったりたゆたう水の塊に溶けていく。
「なんてー?」
浮き輪のマリーアンが弾き終えた杏樹に訊ねる。どこか、思ってたよりも音楽が短い。
「『海面』、『ジャンプ』、『見たい』って歌」
「私吹っ飛ばされんじゃん」
「目の前で見たくない?」
「う、見たい」
海は静か。耳を澄ませば、この海でたったひとりの歌い手の声が胸を震わせる音さえ聞こえそう。
「『やらない』ってさ」
魚。逃げる。食べる。できない。
重低音は波のように連なって語る。太陽の光も届かない海底から、太陽に晒されて焦げ立つちっぽけな存在へ。
杏樹はタブレット端末を突っついてクジラ語に翻訳させ、コントラバスでその音階を再現した。水中スピーカーがかすかな漣を呼ぶ。
ちゃんとごはん食べてる? お腹減ってない?
海鳴りのノイズのような腹に響く低音の対話。ヒトとクジラの歌はなお繋がる。
たくさん。仲間。たくさん。ごはん。食べる。食べられる。嫌い。逃げる。
やたら饒舌なクジラだ。
しかし。杏樹は気になる単語を拾い上げて繰り返してみた。しかし、食べられる? 逃げる? クジラが?
心なしか、低音の歌に緊張感が含まれた気がする。海底からのうねりか。浮き輪で浮かぶマリーアンがゆらり揺れた。
逃げる。浅瀬。あいつ。大きな口。食べる。できない。
「マリーアン、浅瀬に逃げるって!」
杏樹がコントラバスの演奏を切り上げた。マリーアンも海に潜る。目に見える範囲、海中に影はない。
「クジラを襲う大きな口って何よ?」
マリーアンと杏樹はほぼ同時に大声を上げた。海の底まで届けとばかりに。
「メガロドン!」とマリーアン。
「モササウルス!」と杏樹。
一瞬の間を置いて、二人は笑い声を重ね合わせた。
「ちょっとでかい軟骨魚類のくせに!」
「恐竜もどきの海トカゲの分際で!」
そこへクジラの声が飛び込んできた。意外と近い。スピーカーを通さず、直接マリーアンと杏樹へ歌う。
あいつ。来る。逃げよう。浅瀬。一緒に。
「マリーアン、上がって!」
「アンジュ、エンジンスタート!」
結局は仲がいい三人である。
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