【春025】ハルジオンの花冠
雨上がりの空を虹が駆けている。
冷えた匂いの立ち込める街を、君と並んで歩いた。
割れた路面に残る水たまりが、落ち着かない足取りに花を添える。ぴちゃ、ぴちゃ。広がる波紋に春色の陽光が反射する。
「静かだね。波の音まで聴こえる」
「トラックも見当たらないな。いつもはあんなにいるのに」
日曜だからかな、と君がつぶやく。日曜だっけ、と私は返す。曜日感覚はおろか、最近は日付さえもときどき頭から飛んでしまう。
「ミズキ、今日はいつまでいられるの」
「まだ大丈夫」
「じゃあ、もっとずっと向こうの方へ行きたいな。あの傾いた鉄塔あたりまで」
「変わんないな、アオイのお散歩好きは」
君は苦笑した。喉元まで出かけた言葉を飲み込んで、うん、と私も微笑んだ。今はまだ、ただの散歩好きということにしておきたくて。
裾を引こうと指を伸ばしたのに、君は器用に私の手を逃れてしまう。むくれながら私も彼の背中を追いかける。道端の枯れ木に止まっていた小鳥が私のそぶりを見て、可笑しげにチチチと鳴いて飛び去った。
空は一面の青。
雨雲の残滓が彼方に浮かぶばかり。
むかしよりもずいぶん空の広くなったこの街が、まだ私は好きだ。ここには家族がいて、友達がいて、それから君がいる。
「ねね、見て。クローバー」
空き地の隅に三つ葉を見つけて、君を呼び止めた。一面の土気色のなかに緑一点、けなげに葉を広げるシロツメクサを、ふたりでしげしげと眺めた。
「こないだはなかったよね」
「こないだまでは廃材置き場だったしな」
「そうだったっけ。覚えてないや」
「きっと最初のひとつめなんだ。これからたくさん生えてくるよ」
「春は命の芽吹く季節だもんね」
そうだね。三つ葉を見つめながら君が笑う。そのまなざしがあんまり優しかったものだから、なんだかちょっぴり寂しくなって、私は組んだ腕に顔を埋めた。
心根のきれいな君は、いつもみんなの人気者。
幼馴染の私が気後れを覚えるくらいに。
だけど今は学校もないから、こうしてずっと君の隣にいられる。
「ね、このまま役場の方まで歩こうよ」
誘いかけたら、澄んだ君の瞳に
「あそこって炊き出し会場でしょ。あんまり人のいる場所には行きたくないや」
人混みの苦手な君の事情を私はすっかり忘れていた。しょげて頭を下げたら、「気に病まないでよ」と君は頬を崩してくれた。
いつから君が人混みに寄りつかなくなったのかは覚えていない。待ち合わせのときも人目を避けるように現れて、どこへともなく帰ってしまう。けれどもそのぶん、私は君の隣を独占できるから、私にとっては必ずしも悪い話じゃない。
ひとけのない場所を求めて街を歩き回った。出会い頭の野良猫を追いかけて、水たまりを踏んづけてびしょ濡れになって、錆び付いたバス停の待合室に逃げ込んだ。脱いだ靴下を乾かしながら、他愛のない話をした。空を横切る灰色の輸送機を見上げて、どこに行くんだろうねって想像を膨らませた。昼下がりのぬくもりが鼻先に染みて、冷えた身体を少しずつ弛緩させてゆく。さりげない仕草で肩にもたれたら、きっと君は嫌がるかな。
ああ。
こんな時間がいつまでも続いてくれたなら。
けれども無慈悲な君の言葉で、ひとときの幸福は終わりを告げてしまう。
「そろそろ、行こっか」
「……もう帰っちゃうの」
「みんなが心配するからさ」
君は立ち上がった。
しぶしぶ、私も身を起こした。もどかしい余韻を唇の端に引きながら。
傾いた午後の光が世界を金色に染めている。もと来た道を君と二人、黙って歩き続ける。アスファルトに落ちた長い影が、さも億劫げに私たちを追い越してゆくのを、とぼとぼと足を引きずりながら見つめた。
君と会える時間は短い。
寂しいよ、もっと一緒にいたいよって、素直になれるなら叫びたい。道端に仲良く並ぶ枯れ木さえ、いまは羨ましくて胸が苦しい。
気づけば君も足を止めて、木々の彼方に広がる空を見上げていた。
「西の空が明るいな」
「うん」
「明日も晴れるね」
言葉にならない切なさに私は震えた。
「……また会える?」
我慢できずに尋ねたら、君は振り向いた。拒まれたことは一度もないのに、恐怖が先走って身構えてしまう。うつむく私に君は「会えるよ」と笑いかけてくれた。
「約束の証をあげる」
しゃがみ込んだ君のそばには、色とりどりの草花が小さな茂みを作っている。君は花のついた茎だけを摘み取って、丁寧に編み込んでゆく。ひとかしらのきれいな花冠が出来上がるのを私は見つめていた。
薄桃色、黄色、それから白。
細い花びらを無数にまとった、太陽みたいな花。
「ハルジオン?」
「そう。たくさん咲いてるから」
手渡された花冠を頭に乗せてみる。照れくさくて縮こまる私を「可愛いよ」と君は褒めそやした。こそばゆい草いきれの匂いと感触に、私は泣きたくなった。
この花冠が萎びてしまう前に、また会いに来る。
君の立ててくれた誓いは、痛ましいほど真摯だった。
「そんな悲しい顔をしないでよ。心配なんて要らない」
うつむく私の頭を撫でて、君は微笑んだ。
「またね、アオイ」
吹き抜けた一陣の風とともに、私は君を見失った。
また、別れの言葉を言えなかった。
灰色が世界を覆い尽くした。見渡す限り廃墟、廃墟、それから枯れ木。空の色は日暮れが迫るごとにくすんで、目の覚めるような彩を失ってゆく。
瓦礫の隙間でハルジオンがけなげに咲いている。へたり込むように腰を下ろして、その花を手に取る。むかし、この花が好きだと言ったことを、君は覚えていてくれた。踏まれても起き上がる強い花なのだと、気弱な私に教えてくれた。
この街が焼け落ちてからずいぶん経った。
君の行方はまだ分かっていない。
それでも──。乾き切らない花冠を胸に抱いて、ぎゅっと指を立てる。こうして一緒に街を歩いて、確かな約束をくれた君の無事を、まだ私は祈らずにはいられない。家に帰れば枯れた花冠がいくつもある。約束の証が彩を失うたび、君は私の前に現れて、新たな約束をしてくれた。明日も晴れるよ、あの青空の下で会おうねって。
「……私」
暮れゆく日を見つめて、そっと涙をぬぐう。
「待ってるから」
空は一面の黄昏色。
吹き抜ける風の波間に、君の優しい息吹が聴こえた。
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