静かな朝の和やかな一幕
水曜日。蠱毒の騒動で昨日は半日静養する事になった源吾郎であったが、一晩経って心身ともに通常のコンディションに戻りつつあったので出社する事に決めた。紅藤からは無理をせず休んでも良いと言われていたのだが、別に源吾郎自身は無理をしているつもりはなかった。
強がりでも何でもなく、源吾郎はほぼ全快と呼べる状態まで快復していた。歯形が付くまでに噛み付いた傷跡も、今では多少のかゆみを伴うだけになっている。これこそが、源吾郎の身に流れる大妖怪の血の恩恵であろう。純血の妖怪に較べれば傷の直りは遅いだろうが、それでも人間の回復能力を遥かに上回っている。
いつも通りの時間に目を覚ました源吾郎は、支度を済ませるとそのまま出社した。仕事場がすぐ傍なのだからもう少しのんびりしても問題無い事は知っている。それでも源吾郎はサクサクと支度を済ませ、自室を後にした。何がどうという訳ではないが、何かが自分をせかしているように思えてならなかった。
ただ単に、放鳥タイム時のホップが塩対応を行っていたからなのかもしれないけれど。
※
いつもより早い時間に研究センターの事務所に入った為か、事務所には雪羽しか見当たらなかった。
雪羽ははじめ、源吾郎がいる事に気付いておらず窓辺で外を眺めていた。源吾郎はそんな彼の横顔が見える角度にいた。
「あ、島崎君じゃないか。おはよう、大丈夫か元気か」
室内に入ってきた源吾郎の事は、雪羽もすぐに気付いた。彼はスキップでもするような気軽な様子で源吾郎に駆け寄り声をかけてきたのである。窓辺に佇んでいた時とは異なり、物憂げで儚げな雰囲気はなりを潜めている。やや上目遣い気味に源吾郎を見つめる彼の表情と声音は屈託がなく、しかもかなり友好的だった。
「あ、うん。大丈夫だし元気だよ」
やや戸惑いながらも源吾郎は応じ、腕の包帯を撫でつつ言葉を続ける。
「俺も包帯とか巻いてるから大げさに見えるけど、実はもう大分傷も治ってるみたいなんだ。傷は痛むって言うか、何かかゆみの方が強いしさ……細胞が抉れた所を埋めてるって感じなんだ」
「良かった。本当に良かった……」
源吾郎の言葉を聞くと、そう言って雪羽は顔をほころばせた。やはりこの仕草も屈託がなく、いつも以上に幼げに見えた。というよりもむしろ、今の彼の言動の方が年相応なのかもしれない。普段はやや斜に構えたような言動を敢えて行ったり、源吾郎を挑発するような言動が多かった。そう言う事を言う奴なんだと源吾郎は流していたが、それもある種の仮面だったのかもしれない。
「雷園寺、お前は――」
「雪羽って呼んでも良いよ」
呼びかけて問いかけようとした源吾郎の言葉を遮る形で雪羽が言う。やはり満面の笑みがその面に浮かんでいたが、源吾郎は苦笑しつつ首を振った。
「いくら何でもそれはちとマズいんじゃないかな。職場だし。間を取ってシロとかなら良いけどさ」
「あはは。それもそうかな」
「それはさておき雷園寺。そっちこそ大丈夫なのかい?」
「うん。俺は大丈夫だよ!」
源吾郎の問いかけに、雪羽は元気よく応じた。大丈夫、という部分を若干強調していた事に源吾郎は気付いていた。彼の言は八割がた真実だろうと源吾郎も思っている。向こうは完全に傷も治っているみたいだし、妖力も目に見えて減少している訳でもない。
普段と……今までと異なるのは源吾郎に対する言動くらいであろうか。本当にそのくらいなのだが源吾郎は実は若干戸惑ってもいた。雪羽とは今後も研究センターで顔を合わせ続ける間柄だ。険悪な空気よりも友好的な方が良い事は頭では解っていた。
それでも雪羽の態度の変貌ぶりは急すぎた。考えてみれば雪羽はこれまでも源吾郎に興味を持つ素振りを見せていたのだが。
きっかけが何であるかは源吾郎も解っている。あの蠱毒の騒動だ。本当に色々な事があった。源吾郎は蠱毒に侵蝕されているとはいえ雪羽を襲撃してしまったし、雪羽も雪羽でおのれが抱えている秘密を打ち明けた。その辺りから、雪羽の心境に何か変化があったのだろう。
対妖関係で距離が縮まるきっかけが唐突に訪れる事は珍しくない。しかし今回のきっかけが蠱毒、それも負の感情を伴ったものであるとは皮肉が効いている。
「あれ、島崎君。何か元気無さそうだけど? もしかして女子にナンパしようとして失敗したとか?」
「んなアホな」
唐突な事を言い出す雪羽に対して、源吾郎は敢えて呆れたような声を出してやった。実際にはそれほど呆れておらず、むしろ雪羽の軽口に密かな喜びを抱いていたくらいだ。
「まぁ確かに悩み事はあるよ。今朝ホップを遊ばせたんだけど、完全に俺の事を避けちゃってるんだ。そりゃあホップは小鳥ちゃんで怖がりなのは解ってるよ。だけど、俺の許に来てから俺にずっとくっついて懐いてたからさ、ちょっと凹む」
「それは気の毒だなぁ」
雪羽の声はのんびりとしていたが、その声の節々には源吾郎を気遣うような色がありありと滲んでいた。
「とはいえ、その小鳥ちゃんに別段悪さした訳じゃなくて、小鳥ちゃん自体も怪我も何もなくて元気なんだろ?」
「何でそんな事が解るんだい?」
ホップが傷ついておらず元気かどうか。雪羽に尋ねられた源吾郎は、驚いて問いを返した。蠱毒の騒動の後、源吾郎がホップの事について語るのは今回が初めてである。雪羽の指摘通りホップは無事であったし、何よりその事に気を回す余裕も無かったのだ。何せ昨晩は、簡単に作ったおじやを平らげた後、そのまま倒れるように寝入ったくらいなのだから。
もしかしたら雷獣の能力で解ったのかもしれない。源吾郎は密かにそう思った。雷獣は電流を操る事で物体の距離や位置を探る事が出来るが、その能力を応用して相手の考えを読んだり相手に考えを伝えたりする事も出来るのだ。脳波という電気信号を雷獣なりに操っているという事である。
さて肝心の雪羽はというと、源吾郎の言葉にこだわりのない笑みを見せた。
「何でって、昨日島崎君は小鳥ちゃんの事は何も言わなかっただろ。俺だって島崎君が小鳥ちゃんをめっちゃ可愛がってるのを知ってるんだぜ。それに俺を少し引っ掻いた事でもあんだけ動揺してたんだ。だからさ、小鳥ちゃんに何かあったら平然としてはいられないだろうなって思っただけ」
「…………」
思った事をつらつらと語る雪羽を、半ば驚嘆しながら源吾郎は見つめていた。雷獣は感覚頼りで浅慮な個体が多いと萩尾丸は言っていたが、目の前にいる雪羽は中々どうして賢いではないか、と。真なる賢さというのは、思慮の深さではなく本質を見抜けるか否かに関わっているのかもしれない。
「まぁ、小鳥ちゃんが元気ならそれで良いじゃないか。生きてて、元気でさえいれば、その、小鳥ちゃんとも仲直りできるだろうし」
そう言って雪羽は静かに微笑んだ。悪辣な笑みとも子供っぽさを前面に押し出した笑顔とも違う、何処か儚げな笑みだった。
ホップの態度で源吾郎が勝手に傷ついたのは、ホップに対してある種の期待を持っていたから。その事を突き付けられたような気がした。蠱毒に巻き込まれた雪羽は、思う所があれど源吾郎を赦し、むしろ前以上に友好的に振舞った。それを見てホップもそうなのかもしれないと源吾郎は勝手に思ってしまったのだ。ホップが、本来は気弱な小鳥である事などすっかり忘れ去ってもいた。
未だ笑みを浮かべる雪羽を見ながら、胸の奥がうねるのを感じた。笑ってはいるものの、笑みの裏側で色々な事を彼なりに思い、考えているのが伝わってきたからだ。それでもなお、彼は明るく振舞おうとしている。
だからどうしても、源吾郎はその言葉を口にしたのだ。
「雷園寺……お前はやっぱり強いよな」
「あ、先輩。ようやく俺の強さを認めてくれたんですね。そりゃそうっすよ。天下の雷園寺家の次期当主なんですからね、俺は。えへへ……」
源吾郎の言葉に雪羽はおどけた様子で即座に返す。何かにつけて雷園寺家の威光を笠に着ようとする雪羽の言動が小憎らしく思えたのも過去の事だ。源吾郎はおどけて自慢する雪羽の姿に安堵していた。
雪羽とこうしてしょうもない話が出来る事。それが幸せなのかもしれないと、源吾郎は本心から思っていた。
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