妖狐の決意と保護者の心

 源吾郎は萩尾丸をぼんやりと眺めながら、戦略と呼ばれる物を練ろうとしていた。雷獣は身体能力が高く、また電流で物を視る能力も優れている。感覚器官に特化している分思考力は単純であるものの、高い直観力は侮れない。

 それから源吾郎は、自分が使える術が何かを一つずつ思い出した。幻術は戦闘向きの術ではないが最も得意な術である。結界術も最近習得した。尻尾を用いた術も、狐火と同じく攻撃術だ。

 どれが雪羽に対して有効打になるかは解らない。要素が複数ある時は一つずつ試しなさいと、紅藤が言っていたのを源吾郎は思い出した。きっと戦闘訓練でも同じ事なのかもしれない。


「どうしたの島崎君。僕の話を聞いて落ち込んじゃった?」


 萩尾丸の優しげな声が頭上に降りかかる。考え込んで難しい表情になっていた源吾郎を見て、落ち込んだと思ったのかもしれない。

 仕方ないよ。源吾郎の肩には、いつの間にか萩尾丸の大きな手が添えられていた。


「よく考えれば、君は雷獣とタイマン勝負をするのは初めてだもんねぇ。ずっと、うちの小雀のメンバーと訓練とかタイマン勝負をしていたから仕方ないよね」


 萩尾丸は大妖怪であるから、もちろん強い妖怪も配下にしているという。しかし戦闘訓練に連れてくる妖怪たちは小雀という最下位のグループに属する若手妖怪たちばかりだった。彼らの大半は妖狐や化け狸である。猫又や犬妖怪などという別の獣妖怪もいたが、それこそ雷獣はいなかったと思う。


「相手が妖狐や狸だったら君が勝利を収めていただろうね。だけど今回の相手は雷獣、それも君より妖力は少ないとはいえ中級クラスの域にいるんだから……苦戦したのも無理からぬ話だね」

「先輩方は、やっぱり……」


 俺が負ける事を予測していたのですか? その問いかけを、源吾郎は寸前で呑み込んだ。何故そのような態度を取ったのかは自分でもはっきりしない。おのれの裡にあるプライドがそうさせたのかもしれなかった。


「予測していたとしても、実際にそうなるかどうかはこの目で見ないと断言できない。私は常にそう思っているわ」


 尻切れトンボになった源吾郎の問いに応じたのは紅藤だった。彼女はいつの間にか、萩尾丸や源吾郎の傍に影のように立っている。源吾郎を見下ろす眼には慈愛の色が見えていたが、どことなく物憂げでもあった。


「箱の中に入れた猫の生死が五分五分であると定まっていれば、箱の蓋を開けるまでは、猫の生死は判らないのですから」

「……?」


 何か意味深な事を言っているようだったが、源吾郎はインコのように首をかしげるだけだった。それを見て萩尾丸が笑った。紅藤と、源吾郎に対して。


「紅藤様。そこでシュレーディンガーの猫の例えを出されるとは、中々洒落た事をなさるじゃないですか。しかし島崎君には通じなかったみたいですね。まぁ、そっち方面も勉強が必要って事ですね」


 シュレーディンガーの猫。仰々しく物々しいその猫の名は、どこかで聞いた覚えがある。しかし何であるかははっきりと浮かんでこなかった。萩尾丸の言う通り、勉強して確認しなければならないだろう。

 落ち込まなくて良いんだよ。萩尾丸がもう一度言う。


「最初に言ったけど、今回はただの訓練だよ。そりゃあ勝敗が付いたら思う所はあるとは思う。だけど負けた事そのものはもう過去の事になるんだ。大切なのは、今からどうするか。そこなんだよ」


 源吾郎は伏せがちだった目を見開き、萩尾丸を見上げていた。自分が何か思い違いをしていた事をここで悟ったような気分だった。

 萩尾丸先輩。源吾郎は屈託のない声音で呼びかけていた。


「もしかして、雷園寺君との戦闘訓練って今回きりじゃあないですよね」

「それを決めるのは君次第だよ」

 

 萩尾丸は一呼吸おいてから源吾郎に問いかけた。


「次回も雷園寺君と勝負がしたい。そう言う事だね?」

「その通りです!」


 半ば食い気味に源吾郎が返答すると、萩尾丸は一層笑みを深めた。


「良いよ。構わないよ。次回の戦闘訓練も雷園寺君との勝負をすると、この僕が許可してあげる。ふふふ、勝負に負けた島崎君ならば、必ずやそう言うだろうと思ってたけどね。悔しがるだろうけれど、負けたからってめそめそして泣き寝入りで終わるような手合いじゃあないってね」

「はい……」


 妙な所で返事してしまったが、萩尾丸は気にせず続けた。


「実を言うとね、雷園寺君からリクエストがあったんだ。島崎君とは最低十回は真剣勝負がしたいってね」


 そうだったんですか……源吾郎の喉から小さな声が漏れる。雪羽が何を思ってそのようなリクエストをしているのか、源吾郎には定かではなかった。


「島崎君の意見を聞かないとこちらでは決定できないとは言っておいたんだけど、どうかな? 大丈夫?」

「全くもって大丈夫ですし、十回くらいならイケますよ」


 源吾郎は顔を火照らせながら問いに応じる。


「それにしてもあと九回は勝負したいって雷園寺の奴も思ってるんですね。こっちとしても願ったりかなったりですよ――あと九回あるんだったら、一、二回は雷園寺の奴を俺がボコボコに打ちのめす事も出来るかもしれませんし」


 そののっぺりとした面には、ある種の獣性を滲ませた残忍な笑みが広がっていた。半妖だから妖怪としての衝動を抑えられないのだろうと余人は思うかもしれないが、あくまでもその笑みもまた源吾郎の性質である。

 半妖が妖気を抑えきれずに暴走する、というのも間違ったステロタイプに過ぎない。少なくとも、源吾郎はおのれの意思で妖力を操り制御できているのだから。

 とはいえ、願望丸出しの笑みを見ても、源吾郎の兄弟子や師範は無闇に怯えたりはしなかった。萩尾丸はさもおかしそうに微笑み、紅藤はやや心配そうにこちらを見つめている。


「落ち込んでいるかと思ったら、ちゃんとやる気も元気もあるみたいだから良かったよ。やっぱり若い子は……大妖怪を目指す子はそれくらいの気概が無いとね」

「……萩尾丸。二人に真剣勝負をさせるのはいいけれど、真剣勝負ばかり連続させるのは危ないと思うわ」


 危ないと言った紅藤の表情は真剣そのものだった。何だろう、と源吾郎も萩尾丸も彼女に視線を向ける。


「萩尾丸の言う通り、凹まずに闘志を出して頑張ってくれるのは良い事なのよ。だけど、島崎君も雷園寺君も結構我が強いし勝負ごとにこだわりそうでしょ? あんまり真剣勝負にばかり意識を向けさせてしまうと、いつかが起きるかもしれないわ。私はそう思うの。

 そうね。真剣勝負を行うのは良いけれど、そればかりじゃなくて術較べも間に挟みつつやったほうが良いんじゃないかしら。双方負け戦ばかりだと、ストレスで変な事になってもいけませんし」


 萩尾丸はしばらく源吾郎と紅藤とを交互に見つめていたが、得心がいったという感じで頷き、源吾郎に視線を向ける。


「まぁ雷園寺君には事情を説明するとして、紅藤様が言った感じで訓練は進めるけど構わないよね? タイマン勝負は次の次に行うとして、次はちょっとした術較べにしておこうか。そっちの方が君も勝ちやすいんじゃないかな?」

「……お気遣いありがとうございます」


 源吾郎は色々と思う所はあったが、ひとまずは大人しく礼を述べる事にした。ワガママな仔狐だと気遣われた感もあるにはあるが、そのように感じた事を面に出せばそれこそワガママだと見做されるであろう。それに術較べも実の所割と好きだったりする。雪羽は雷撃以外の術を使えるという話は聞かないから、その面では確かに源吾郎の方が有利でもあろう。

 そんな事を思っていると、萩尾丸が今再び口を開いた。


「ははは、今度はそろそろ普通の範疇に収まる妖怪の一人に、今回の闘いについて感想を聞いてみようか――春嵐さんとしてはどうでしたか」

「…………!」


 思いがけぬ名前が呼ぶ萩尾丸を前に、源吾郎は驚き瞠目した。三國の部下であり雪羽の味方に当たる春嵐が萩尾丸たちの傍にいた事に今の今まで気付かなかったのだ。だが今は源吾郎の視界に彼はいて、眼鏡のずれを正しながら口を開こうとしている所だった。


「私を普通の妖怪と呼んで良いのかどうかはちょっと心配な所ですが……率直に言って、島崎殿も十分強いと思いましたがね。試合そのものは一方的な展開ではありましたが、何分雷園寺の坊ちゃまも強いですから致し方ないでしょう。

 というよりもそもそも、試合の体裁をある程度保つ事が出来た事に驚きです。島崎殿は半妖で、しかもつい最近まで人間として暮らしていたと聞いておりましたから」

「あ、ああ、はは、春嵐、様」


 春嵐の言葉は冷静さを保ち、また客観性の高い評価にも思えた。源吾郎はうろたえた様子で春嵐に声をかける。彼に高く評価されたからではない。先の萩尾丸とのやり取りで、「真剣勝負で雪羽をボコボコに打ちのめす」と言い放ったのを彼にも聞かれていたと悟ったからだ。


「こ、今回は僕の事を高く評価していただいてありがとうございます。あの、それとですね、さっきの雷園寺君をボコボコにとかは、別に、そんな事を本心から思ってるわけじゃないんですよ。出来心と言いますか、言葉の綾でして……」

「別にその辺りは気にしなくて大丈夫ですよ、島崎さん。君も色々と大変な思いをしているだろうって事は私も解っているから」


 春嵐はそう言って儚い笑みを見せた。雪羽の知り合いだけど良い人じゃないか――ふいに沸き立ったその考えが源吾郎を戸惑わせた。


「むしろ君には感謝しているくらいなんだ。雷園寺の坊ちゃまとしてくれているみたいだし」

「…………」


 春嵐は源吾郎が雪羽の友達になったとでも思っているのだろうか。しかし神経質そうな風貌の若者の表情からは、皮肉の色は特に見当たらない。


「雷園寺の坊ちゃまの事に関しては、方々に迷惑をかけてしまったと私たちも思っているんだ。というか私が三國さんや月華様にもう少し注意しておけば良かったのかもしれない。だけど実の所、萩尾丸様に坊ちゃまが引き取られたのは事だとも思っているんだ。三國さんには言えないけれど。坊ちゃまも三國さんも思う所はあるだろけれど、少なくとも坊ちゃまに関しては悪い仲間と縁が切れた訳だし」


 春嵐の言葉にどう応じれば良いか解らず、源吾郎はひとまず相槌を打つだけに留めておいた。三國が雪羽の事を甥として愛している事は知っていたが、春嵐もまた、雪羽を幼い弟か甥のように思っているらしい事は明白だ。試合前の言動からして事務的な間柄ではないと思っていたけれど。


「……と、若い子にあれこれ愚痴みたいなことを言ってもマズかったなぁ。島崎さん。しばらく雷園寺の坊ちゃまがこっちの研究センターのお世話になると思うけど、どうかこれからも仲良くしてくれれば、と」

「は、はい……」


 春嵐の懇願めいた言葉に対して、源吾郎は頷くほかなかった。

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