術者は名刺に思いを馳せる
桐谷所長こと桐谷苅藻が研究センターにやって来たのは、一時半を少し回った所であった。昼休憩が終わって間もない時間帯であり、昼食を消化するのにいくらか眠くなる時間帯でもある。
だからこそ、この時間の苅藻の来訪は源吾郎としても有難い所であった。この刺激が眠気を吹き飛ばしてくれると思ったからだ。
「こんにちは、護符と備品の納品にお邪魔しましたー」
研究センター事務所の入り口をノックした苅藻は、そう言って紅藤たちに自分が来た事を知らせていた。やや間延びしてはいるがよそ行きの丁寧な口調である。ビジネスシーンであるから当然のことなのだが、それを聞いていた源吾郎は不思議な気持ちになっていた。
源吾郎にとって苅藻は叔父であり、世間で言う所の兄に似た存在だったのだから。
そんな風に源吾郎は物思いにふけってしまい、その間に紅藤と雪羽が動いたのだった。
「納品書頂きますね」
そう言って動いたのは雪羽だった。研究センターにやって来て三か月ほどしか経っていない雪羽であるが、注文書や納品書の管理をサカイ先輩から徐々に引き継いでいたのだ。
納品書等の管理を源吾郎ではなく雪羽が受け持っているのは、研修生ながらも社会妖経験があった事、そこで元々は書類の管理も行っていた事を萩尾丸たちが考慮しての割り振りなのかもしれない。実際問題、雪羽は大雑把な言動が目立つのだが、書類の管理や整理整頓は得意であったし。
「いつもありがとうございます、桐谷さん」
受領書に雪羽が判を押しているのを眺めつつ紅藤が苅藻に挨拶をする。サカイ先輩も作業中であったが頭を下げていた。
いつもお世話になっています。やはりビジネスライクな口調で告げる苅藻に対し、紅藤は源吾郎たちを見ながら言葉を続けた。
「桐谷さんもご存じかと思いますが、研究センターに新人が二人配属されました。島崎と雷園寺なのですが、改めてご紹介しますね」
紅藤はそこまで言うと、未だに座っている源吾郎や受領書の処理を終えた雪羽にちらと視線を向けた。源吾郎たちと苅藻は前々より面識のある間柄ではある。源吾郎は苅藻の甥であるし、雪羽の事に関しても、三國が絡むので交流があったのだろう。とはいえ、研究センターの職員としての紹介はまだだった。
源吾郎は自分のデスクに引き戻り、引き出しの中を探った。名刺入れは引き出しの中にしまい込んでいたからだ。源吾郎の名刺は、雷園寺家本家を訪れる時に新調してもらったものだった。しかしそれ以降は特に出番も無かったので、かさばるし無くしてはいけないとばかりに引き出しに突っ込んでいた。研究員であり、入社一年目と言う事もあって外部の社員に会う事は殆ど無かったためだ。
「そんな所に押し込んでたら駄目じゃないですか、先輩」
「そうは言ってもしゃあないやん」
名刺入れを掴みだした丁度その時、雪羽がやや呆れた様子でこちらを窺っていた。彼は白衣のポケットを探り、これ見よがしに名刺入れを取り出していた。こういう事があるから名刺入れも持っておかないと。説教じみた雪羽の言葉を、源吾郎は素直に受け止めていた。その手の事は雷園寺の方が慣れているな。源吾郎はただそのように思うだけだった。雪羽は幼いものの、三國に引き取られて以来叔父の職場に出入りしており、尚且つ
桐谷さんには先輩が真っ先に自己紹介しないと。雪羽は源吾郎の背を押していた。苅藻はその様子を、さも楽しそうに眺めていたのだった。
※
名刺交換の後、苅藻と源吾郎たちは事務所の隅にある応接スペースに向かう事となった。苅藻の来訪が、単に納品に来ただけではない事は紅藤もサカイ先輩もある程度察していたからである。苅藻の対岸に座るのは源吾郎と雪羽の二人だった。
「……こうして面と向かって名刺を貰うと、源吾郎も大きくなったんだなってしみじみと思うよ」
「まぁ、俺も……僕ももう就職しましたからね」
苅藻は源吾郎たちの名刺を眺めながら感慨深そうに呟いていた。幼い弟のように思っていた末の甥が既に
しばし源吾郎の名刺を眺めていた苅藻であるが、ややあってから今度は雪羽の名刺に視線を向けた。
「雷園寺君は十年くらい前に名刺は貰った事はあるけれど、前のに較べて随分とシンプルな名刺だねぇ。三國君の所にいた時は、もっとド派手でキラキラしてたと思ったんだけど」
「色々あって、今は島崎君と同じく研究センターの所属になっているんです。島崎君と違って研修生と言う扱いですね」
苅藻の手許に並ぶ二枚の名刺は、それぞれ源吾郎と雪羽の名刺だった。研究センター用の、紅藤たちが使用している物と同じデザインだ。名前と役職、そして住所などと言った必要最小限の情報が白地の紙に印字された極シンプルな物である。デザインがそもそもシンプルなので、源吾郎と雪羽の名刺もほとんど同じものだった。厳密に言えば、雪羽の名刺には研修生と身分が明示されているという違いはあったのだが。
かつて雪羽が持っていた名刺。それは雪羽が叔父の許で働いていた時の名残であろう。三國は身内可愛さから雪羽を要職に就けていた。源吾郎が第二幹部の秘蔵っ子(平社員だが)であるならば、雪羽は第八幹部の重臣だったのだ。
しかしながら、雪羽の名刺が新調されたように、彼の立場も過去のそれとは異なっている。夏にあったグラスタワー事件で再教育の処遇が下された時に、第八幹部の重臣と言う地位を雪羽は剥奪されていた。その上で萩尾丸が彼の身柄を預かり、再教育と称して研究センターに通わせているのだ。
萩尾丸が身柄を確保しているから、雪羽は本来第六幹部の配下に相当する。しかし紅藤から研究職の才能ありと言う判断を下され、研究センターの研修生と言う身分が与えられたのだ。元々雪羽の扱いは萩尾丸にゆだねられていたのだが、紅藤はその萩尾丸の上司に相当する。才能を見出され、研究センターのメンバーに入れたいと言われれば萩尾丸も頷くほかなかったのだろう。雪羽が理系分野に強く、初めから研究職として採用された源吾郎よりも研究員としての才覚を有しているのはまごう事なき事実なのだから。
「雷園寺君も今年は色々大変だっただろう。まぁ、三國君から引き離されたのは君の所業によるところもあるけれど、それでも新しい職場とか新しい仕事仲間ってそれだけでもストレスがかかるもんね。とはいえ真面目にやってるみたいで安心したよ」
「ストレスの方は大丈夫です。週末は叔父の許に戻っていますので」
優しげな苅藻の言葉に、雪羽は少し畏まった様子で応じていた。叔父の許にいる。その言葉で源吾郎は先日の土曜日の事を思い出していた。騒動が十分に収まってから、雪羽の許には三國と春嵐が迎えに来たのだ。日曜日はそのまま叔父の家でごろごろしていたというし。
雷園寺君。優しげな笑みをたたえつつも、苅藻は決然とした様子で雪羽に呼びかけた。
「噂で聞いたけれど、雷園寺家の次期当主候補として本家から認められたそうだね。おめでとう。雷園寺君の事はちっちゃい毛玉みたいな時から知っていたけれど、君ならいずれ次期当主の座を掴めると思っていたよ」
「桐谷さん。僕が次期当主だなんて気が早すぎますよ。あくまでも僕はまだ次期当主候補に過ぎなくて、もしかしたら異母弟の時雨が次期当主になる可能性だってあるんですから」
次期当主と言う言葉を聞いた雪羽は、顔を赤らめつつ苅藻に反論した。雷園寺家にて雪羽の処遇が決まって以来、雪羽はもはや雷園寺家次期当主と吹聴する事はついぞなくなった。次期当主候補と、候補の部分を殊更に強調するようになったのである。かつては異母弟と相争い、押しのけてでも次期当主の座を掴む――そのように思っていたに違いない。だが実際に異母弟の時雨に会い、その気持ちが随分と軟化したのだろうと源吾郎は思っていた。身内への情の深い雪羽の事だ。次期当主の座を狙う敵と言うよりも、庇護すべき弟であると時雨の事を認識しているのだから。そうでなければ「時雨が俺にベタ甘えで却って心配」だの「いずれは相争うから突き放して接したほうが良いのかもしれない。でもやっぱり甘やかしちゃうんだよな」だの「穂村たち弟妹と時雨が仲良くできるか実は不安なんだよ。でも押し付けるのはいけないよな」だの言いはしないだろう。
「まぁまぁ雷園寺君。君は若いんだから、現状が良くなった事を素直に喜んでいればいいんだよ。現当主殿や三國君の年齢を考えれば、どちらが次期当主になるかと言う事を決めるのは早くともあと百二、三十年後の事だろうしね。
それはともかく、僕の方からささやかながらも次期当主候補に決まった事への祝い金を、年明けに君に渡そうかなとも思っているんだ。そっちの方も三國君や萩尾丸さんに許可を頂けたからさ」
ありがとうございます! 雪羽は目を輝かせて苅藻に礼を述べていた。驚くほどの喜びように源吾郎は少し面食らってしまっていた。お金を貰える事が嬉しいのだろうか。下世話な考えが脳裏をよぎり、源吾郎は軽くかぶりを振った。
そもそも雪羽は現在、萩尾丸の監督下にいる。萩尾丸が彼に衣食住を提供しているのだが、裏を返せば金銭面の管理もなされているという事だ。そうでなくても再教育の最中であるから、雪羽のお金の使い方には目を光らせているだろうし。
そもそも雪羽は三國に甘やかされて育っているためか、それほどお金に執着しない性質でもあった。だからこそ、祝い金を貰うという喜びぶりが源吾郎には不思議でならなかったのである。
そんな事を思っていると、苅藻の視線が源吾郎に向けられた。
「源吾郎……いや島崎君。君には祝い金みたいなお祝い事は無さそうだけど、もしかしてお年玉とかそんなのが欲しかったりするかな?」
苅藻の言葉はビジネスマンとしての言葉ではなく、叔父として甥である源吾郎に向けられたものだった。祝い金を喜ぶ雪羽を眺めていただけだったのだが、苅藻の目には羨ましがっているように見えたのだろうか。
だからこそ、自分も甥として返答すべきだ。そんな風に源吾郎は思っていた。
「別にお年玉とかは大丈夫ですよ、叔父上。僕はもう就職していますんで、お年玉とかお小遣いはもう打ち切りだって親兄姉たちとも決めているんです。場合によっては、両親に僕がお年玉を渡した方が良いかもしれないと思ってるくらいなんですから」
「おお、しっかりした考えじゃないか。それはそれで安心したよ」
感心したような叔父の言葉に、源吾郎はうっすらと笑みを見せた。就職したらもうお年玉やお小遣いは貰わない。昨年末に源吾郎は両親や兄姉たちとそのように取り決めていたのだ。お年玉事情に両親のみならず兄姉たちも絡むのは、源吾郎が彼らからもお年玉をもらっていたからに他ならない。それらが貯蓄となっていたかどうかは別問題であるが。
それよりも……源吾郎は上目遣い気味に苅藻を見やり、静かに口を開いた。
「叔父上こそ……桐谷所長こそ大丈夫なんですか? 今回は弊社の方で多めに発注を受けたと言いますが、色々と出費も重なったみたいですし」
「まぁ俺もフリーランスだから気楽なものだよ。でもそう思うんだったらまた遊びに来てさ、護符とか何やらを買って欲しいなぁ」
「ええ! そういう事なら買いに行きますよ! 僕も丁度桐谷さんから祝い金を頂ける訳ですし。でもその……弟妹達にお年玉をあげたいんで、手元にはあんまり残らないかもしれないんですが」
源吾郎の問いかけにより生じた話の流れが面白い方向に進み、三人でしばし笑い合っていた。弟妹たちへのお年玉を渡す資金が出来たから、雷園寺は叔父上からの祝い金にあそこまで喜んでいたのか。笑いながらも源吾郎は密かに納得もしていた。
ひとしきり笑い終わると、苅藻は真面目な表情を浮かべていた。
「何というか前置きが長くなったけど、土曜日は本当にお疲れ様。多分、紅藤様たちからも似たような事は言われているかもしれないけれど」
「いや……大丈夫ですよ桐谷所長。桐谷所長として思う所があれば、僕たちにぶつけて欲しいんです。僕も、僕らも話したい事はありますんで」
わざわざ面談めいた状況にもつれ込んだのは、苅藻も土曜日の件で源吾郎たちに伝えたい事があったからだろう。源吾郎はそのように思っていた。
紅藤たちと似たような話になるかもしれないと苅藻は言っていたが、それは違うはずだ。源吾郎の叔父としての言葉、一術者としての言葉を苅藻は持っているはずだから。それに何より、苅藻もまた現場に居合わせた術者の一人なのだし。
一体どんな話になるのだろう。源吾郎は軽く居住まいを正したが、雪羽もまた真面目な表情に戻っていた。
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