うわさは天下の回りもの

 桐谷苅藻は今一度、源吾郎と雪羽を交互に眺めた。その表情は真剣そのもので、一人の術者、一人の大人としての圧を源吾郎は感じていた。


「今こうして元気に出社してるって事は、君たちは特に何もなく大丈夫だったって事だよね」

「はい。その代わり、昨日は叔父の家でずぅっとごろごろしていましたが」


 問いかけに答えながら、雪羽は気恥ずかしそうな笑みを浮かべていた。恥ずかしがるのなら別にそこまで詳しく言わなくて良いのに。源吾郎は思わずそんな事を考えていた。

 しかし雪羽に構っている場合でもない。源吾郎も苅藻を見据えて口を開いた。


「僕も大丈夫でしたよ、桐谷所長。とはいえ、土曜日はあのまま兄の家に立ち寄って泊り込んだんですがね。兄も妖狐の襲撃とか犬神の出現に怯えていたみたいだし、何より俺自身が心配だったから……」


 源吾郎はそう言って両手を軽く丸めた。土曜日の夕方、源吾郎は庄三郎のねぐらに押しかけていったのだが、それはもう源吾郎の独断によるものだった。不安だから、怖いから一緒にいてくれとは庄三郎は一言も言わなかった。しかしそのままついて来た源吾郎を追い払う事は無かったから、あの行為は単なるワガママではなかったのだと思っている。

 それに源吾郎自身、庄三郎を心配していたのは事実だった。半妖ながらも兄の精神構造は殆ど人間のそれと同じであるし、何より食生活が貧弱なのだから。


「やっぱり島崎画伯……先輩のお兄さんも怖い思いをなさったでしょうね。あの人は殆ど人間と同じなんですから」

「雷園寺君の言う通り、庄三郎君はむしろ人間に近い存在だからね。庄三郎も庄三郎で、祖母の能力を受け継いでいる事には違いないが、そこはまぁ深く追求しなくてもいいだろう。あの子は源吾郎と違って、能力を積極的に使いたがらないからね」


 と言うよりも、源吾郎の兄姉たちはいずれも人間に近いのだと苅藻は付け加えた。むしろ源吾郎が能力的にも意識的にも妖狐に近いのは、先祖返りの突然変異である、と。最近になって知った事であるが、半妖は源吾郎が思っているよりも個体数は若干多いらしい。但し、必ずしも妖怪の親の能力を受け継ぐわけではないので、人間として育てられ人間として生涯を終える事がほとんどなのだそうだ。人間の血が濃ければ濃いほどその傾向は強いのは言うまでもない。源吾郎の母や叔父たちは殆ど妖怪と変わらないが、それもまた玉藻御前やその娘の血が強すぎたからこその話なのだそうだ。

 だが源吾郎が意識を向けたのは、苅藻が何気なく放った能力と言う単語だった。庄三郎はつとめて人間として生きようとしていた。だが、源吾郎と同じく玉藻御前の能力を受け継いでいる事には変わりない。相手を魅了して意のままに操る。変化術などよりもよほど傾国の妖狐らしい能力である。

 その能力を土曜日に兄は使ったのだ。淡々と源吾郎が告げると、苅藻が僅かに驚いたような表情を浮かべた。源吾郎はそのまま言葉を続けた。苦い表情が広がっていくのを感じながら。


「会場の人たちに『自分は用事があって弟と一緒に帰らなければならないし、日曜日も出席できそうにない』って言う暗示を兄はかけたんですよ。白狐や犬神の騒動に関しては皆さんが誤魔化してくれましたが、自分がギャラリーを休む口実は作らないといけませんからね。そのお陰で、兄も日曜日はゆっくり休めたみたいですけれど」

「庄三郎君があの能力に頼るとは、よほど疲れたんだろうね。源吾郎たちの事も心配していたし。しかしそう言う能力の使い方は何ら問題ないと俺は思うよ」

「叔父上、桐谷所長はそう思っておいでなんですね。僕はちょっと問題と言いますか、思う所はあるんですけどね」


 一体何がだって言うんだい。苅藻の質問を源吾郎は正面から受け止めた。


「いやその……あまりにも勿体ないと思っただけですよ。兄があの能力をひどく怖れているのは僕も知ってるよ。だけど、兄の部屋に立ち寄って、料理を作りながら思ったんですよ。悪用するのは悪い事かもしれないけれど、もうちょっとしてもばちは当たらないし、もう少しだって出来るんじゃないかってね。

 弟として、同じ玉藻御前の能力を受け継いだ者として僕はそう思ったんです」


 組み合わせた指の間に力が籠るのを源吾郎は感じていた。庄三郎が普段は能力を一切使わない事、土曜日に能力を使った時も密かに罪悪感を抱いていた事を源吾郎は知っていた。無論庄三郎は表立ってそんな事は言わないが、弟だから解ってしまうのだ。


「そう言ってもだな源吾郎。庄三郎にも庄三郎の考えがあるんだからそっとしておいてやれ」


 指導者らしい物言いで源吾郎をなだめた苅藻であったが、直後に浮かんだのはいたずらっぽい笑みだった。


「なぁ源吾郎。そう言えばお前は変化術が得意だよな。そしてお前は自分の見た目について、『父親に似ているし女子ウケが悪い』と言うコンプレックスを抱えていたよな。だけど、お得意の変化術を遣えばそんなコンプレックスも払拭できるし、のみならず女の子に不自由しない身分になるんじゃないのかい? 女の子に容易く変化できるお前の事だ、

「それは…………」


 そんな事をするくらいなら尻尾を全部引っこ抜いた方がマシだ。そこまで思った源吾郎であったが、その言葉はぐっと飲みこんだ。叔父の苅藻の質問ではなく、術者で取引先の桐谷所長の質問だったからだ。それに、などと言う過激な言い回しを雪羽が事も知っていたからだ。

 言い澱んで上目遣いになっただけであったが、源吾郎の考えている事は苅藻にも伝わったらしい。舐めるように源吾郎を眺めていた苅藻の顔に、にわかに笑みが浮かんだのだ。


だよ源吾郎。その気持ちがあるなら、庄三郎が何故能力をさほど活用しないか解るはずだ。

 良いかい二人とも。能力に慢心し、力に溺れる事は誰だってできる。だが力に振り回されずに適切に使う事の方が難しいんだ。難しいけれど、妖怪たちはその事を学ばなければならないんだよ。特に――君らみたいに権力を欲しひとの上に立つ事を望んでいるのなら尚更ね」


 二人とも解るだろう。諭されるように苅藻に言われ、源吾郎と雪羽は互いに顔を見合わせた。雪羽の顔に、気まずそうな決まりの悪そうな表情がはっきりと浮かんでいた。雪羽も大分更生したものの、しかしだからこそ痛い所を突かれた気分になったのかもしれなかった。


「それはそうと、二人とも思っていたよりも強くなってて何よりだよ。白狐が襲い掛かってきた時に相手を取り押さえたり狙われていた女の子を庇って被害を最小限に食い止めてくれてたもんね。

 それに何より、犬神が出現した時もそれほど取り乱さなかったじゃないか。一尾の白狐はさておき、犬神なんてものは普通の妖怪でも恐ろしい存在だからね」


 犬神に言及した苅藻を見つめ、源吾郎は重々しく頷いた。あの会場には稲荷の眷属たる妖狐たちをはじめ、妖怪や術者たちがある程度揃っていた。それでも、犬神の存在を前に立ち尽くし、恐慌状態を抑えるのがやっとだったのだ。稲荷の眷属や術者と協力する妖怪たちと言えども若妖怪や一般妖怪が目立ったから、致し方ないと言えば致し方ないだろうが。


「犬神ですか。怖いというよりも厭な存在でした」


 ぽつりと言葉を漏らしたのは雪羽だった。あの場で犬神や蠱毒は怖くないと豪語していた雪羽であるが、そうしたビックマウスを振るうつもりは無いらしい。雪羽にしてみれば保護者たる三國が一目を置き兄として慕う存在であるわけであるから、まぁ当然と言えば当然だろうが。


「ご存じの通り、僕は雷獣なので単なる犬や狼みたいな連中は怖くはありません。成長すればライオンとかユキヒョウみたいになるかもって言われてもいますからね。

 ですが、あいつは蠱毒って事で怨念の塊みたいなやつでしたし、何より相手が気にしている事や思っている事をピンポイントで狙って口撃を仕掛けてきましたもんね……あれは堪えましたよ」


 目を伏せて物憂げに告げる雪羽に対し、そりゃあそうだよ、と苅藻は言っていた。


「蠱毒にしろ犬神にしろ、怨念の集合体みたいなモノになっている場合が多いもんね。あの犬神も色々と混ざり合っていたから、その分他人の願望とやらを嗅ぎつける嗅覚が発達していたからね。犬だけに」

「やっぱりお狐様たちは犬神が怖かったんでしょうね。自分は狐で相手は犬だったんですから」

「……あれだけ禍々しい奴だったら、犬であろうとなかろうと怖いさ。雷園寺君たちは流石にあれに立ち向かいはしなかったけれど、それで良かったんだよ」


 苅藻は静かに微笑み、周囲には微妙な間が出来ていた。雪羽も源吾郎も犬神について思いを巡らせていたのだ。雪羽は蠱毒について思う所が大きいだろう。彼の境遇、妖生の転換点には蠱毒が憑き纏っていたのだから。


「それにしても、桐谷さんは犬神が潜んでいる事にお気づきになられたんですね。他のお狐様や術者たちは気付かなかったみたいなのに」


 ややあってから雪羽が口を開いた。誰も気づかなかった犬神を見つけ出したのがすごい! と無邪気に称賛している感じではない。稲荷の眷属や術者たちが気付かなかった犬神に、何故苅藻が気付いたのだろう。そのように不思議がっているようなニュアンスだった。


「そりゃあやっぱり……俺らも蠱毒に縁が深いからなのかもしれないな。犬神のやつも言ってただろ?」

「お、叔父上!」


 自分たちが蠱毒と縁が深いのかもしれない。何のこだわりもなく言ってのけた苅藻に対し、源吾郎は声を上げずにはいられなかった。呪われた家系の事、母方の祖父の系譜が蠱毒の邪法に手を染めていたであろう事は雪羽にカミングアウトしなければと思ってもいた。しかしこんな風にさらりと叔父が言ってのけるなどとは夢にも思っていなかった。と言うよりもカミングアウト云々の事を若干忘れかけてもいた訳であるし。

 どうした源吾郎。上ずって切羽詰まった声を上げる源吾郎に対し、苅藻は不思議そうに首をかしげる。


「どうしたも何も……叔父上はどうしてそんな事をさらりと言えるんですか? 犬神のやつが本当の事を言ったのかどうかはさておき、ショッキングな話じゃないですか。先祖が、それも自分の祖父とか伯父に当たる人たちが喰い合いとか殺し合いをやって蠱毒の術を行使しようとしていたなんて、そんな事を叔父上は知ってしまったんですから」


 怪訝そうな雪羽の表情に気付き、源吾郎はここで一旦言葉を切った。

 自分たちの身内が喰い合いを繰り返し、自身の身をもって蠱毒の邪法を行っていた過去がある。その事を知ったにも関わらず、叔父上は平然としているのだろう? 源吾郎の脳内にはそのような疑問が渦巻いていた。紅藤からこの話を聞かされた時、源吾郎はひどく動揺した。苅藻は源吾郎よりもうんと長い年月を生きているが、先祖である桐谷家の抗争は知らないと紅藤が言っていた。だから源吾郎のようにショックを受けても何もおかしくはない。或いは、源吾郎たちのために冷静に取り繕っているだけなのだろうか。

 様子を窺うと、苅藻は目をすがめて源吾郎を見据えていた。怪訝そうな、そして若干の不機嫌さを滲ませた表情だった。


「源吾郎。その口ぶりじゃあ桐谷家の所業について知っているみたいだな? 俺の方が驚いた、と言いたいところだけれど、大方紅藤様にでも教えてもらったんだろうな」


 苅藻の鋭い指摘に、源吾郎は頷かざるを得なかった。桐谷家の所業について源吾郎は事細かに言い過ぎたのだ。それで却って源吾郎が知っている事に苅藻は気付いたようだった。


「ですが叔父上。叔父上は母上や他の叔父上と違ってその事は知らないと紅藤様は仰ってましたけれど」

「全く知らないと言えば言い過ぎになるけれど、何と言うか……自分事として知っている訳ではないと言われれば事実になるかな。両親や姉さんや兄貴たちがが糞ジジイや糞伯父連中と闘っていたその現場には、幸か不幸か俺は居合わせなかったんだからさ。でも話だけは聞いた事があったんだよ。姉さんとか兄貴たちからな」

「…………」


 源吾郎はしばらくの間無言だった。知らないと思っていた事を叔父の苅藻が知っていた事に、軽くショックを受けてもいたのだ。


「そう言う訳だから、俺の事は気にしないでくれ。犬神のやつに何か言われて、それでショックを受けたとかそんな事は無いからな。それに、誰かが躍起になって隠したがる後ろ暗い噂ほど、今回みたいに妙な塩梅に露呈してしまう事だってあるんだからな。今回は運が悪かったんだ。それだけだよ」


 苅藻の言葉を聞きながら、源吾郎は俯いてしまった。苅藻は多分鷹揚に笑っているだけなのだろう。そして雪羽がどんな表情でこちらを見ているのか、それが怖かった。もしかすると、拉致事件の主犯である蛇男とか犬神と同列だと思い始めているのかもしれない、と。


「島崎先輩」


 そんな風に思っている源吾郎の耳に、雪羽の声が入り込む。顔を上げて視線を向けると、雪羽は何とも言えない表情を浮かべていた。それでも気を遣っているらしく、源吾郎と目が合うと笑みをその顔に作ったのだ。


「俺の親族も……現当主とか雷園寺家の親族連中は糞ばっかりだって思ってましたけど、先輩の親戚にも糞みたいな輩がいたんですね」


 やっぱりそう思うよな。源吾郎がそう思っていると、雪羽があからさまに笑みを作った。ぎこちないものの、笑っている事を伝えようとしている。そんな笑顔だった。


「ですけど先輩、親とか親戚が糞でも、糞っぷりが子供とか孫に遺伝するなんて、俺はこれっぽっちっも思ってませんから。島崎先輩。俺だって雷園寺家の現当主はどうしようもない糞だって思ってますけれど、その息子の……俺の弟でもある時雨は糞なんかじゃないって思っているんですから……あいつが、あいつらが良い子なのは先輩もご存じですよね。だからその、俺は大丈夫です。その辺は気にしないんで」

「ありがとう、雷園寺君」


 身内の事になるとあからさまに糞とか言い出すよな雷園寺君は……そう思いつつも少しだけ元気を取り戻せたのも事実だった。

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