幕間:白狐の悔悟と見つかりし希望

 市内某所。妖怪向けの総合病院のイヌ科妖怪専門病棟の一室に、その白狐は収容されていた。全身の毛が白い事を除けば、大きさもフォルムも通常のホンドギツネとほとんど変わらない。

 その白狐は、人間の成人男性が悠々と眠れるベッドの上に横たわっていた。腹部の毛は広範囲に刈り込まれ、薄ピンクの地肌が露わになっている。外科手術・縫合手術の名残であった。彼の首周りには、当然のように円錐形のエリザベスカラーも巻かれていた。動物扱いされている気がしてならない。エリザベスカラーを嫌がる獣妖怪や鳥妖怪は多いものの、医者によっては積極的に取り入れる者もいる事は事実なので致し方ない。元々彼は、動物だった者が後天的に妖怪化したという事が広く知られていたから尚更である。

 余談であるが、小柄な獣妖怪であっても人間用のベッドに寝かされるのは、回復した後に人型を取る事をも考慮しての事である。彼も一尾で獣上がりではあるものの……人型を取る事は出来ていた。妖力を消耗した現在はどうなのか解らないが。


 だが、それらの事柄について白狐はもはやどうでも良かったのだ。上司や半妖の術者から差し入れられた新聞の記事を眺め、そしてため息をつくだけだった。自分は本当に――取り返しのつかない事をしたのだと。

 事の発端は妻の死だった。人間の運転する車に撥ねられてこの世を去ったのだ。元より彼とて人間への復讐や死んだ妻の復活などと言った大それたことは考えていなかった。ただ遺骸が人間の手に渡ったと聞き、それを取り返したいと思っただけだった。妖怪によって死生観や弔い方は違うという。しかし彼も妻も動物としての狐だった。できれば土に還したいと思っていた。

 そのためにまずあの造形作家に近付いたのだが、彼の傍らには――

 あれは悪い夢だったのだ。白狐はかぶりを振った。

 それにしても妻の死の真相は衝撃的だった。妖怪であっても、車に撥ねられれば場合によっては死ぬ。だがそもそも妖怪は普通の動物に較べて格段に交通事故に遭う可能性は低い。何となれば人間よりも低いとも言われているのだから。

 それなのに、妖狐で稲荷の眷属だった妻は交通事故に遭った。しかしその事にもきちんと理由があった。彼女は人間の子供を庇い、身代わりになって車の餌食になったのだ。

 こんな話は無かろうと、白狐は思うのがやっとだった。妻は人間を助けるために生命をなげうったというのに、自分はその人間を傷つけていただけなのだから。しかも犬神に籠絡され、騙されてしまうとは。動物から不思議な力を得て妖怪になり、その上で神に仕えていたというのにこの体たらくとは。しかもあの場で死ぬ事もままならず、こうして生き恥を晒している。

――こうなっては死んだ方がマシではないか。ギリ、と白狐は牙をかみ合わせた。妻に会うにはその方が手っ取り早いだろう。だが死を望んだものはまず地獄に堕ちるとも言われている。元より自分は罪を犯した訳であるから……

 そんな風に考える白狐の思考を打ち切ったのは、控えめなドアのノック音だった。担当の看護師が、来客の旨を伝えたのだ。入室しても構わないと白狐はそっけなく言った。やって来るのは上司とか警邏の妖狐たちである。元より拒否権は無かったからだ。


 案の定、入出してきたのは上司だった。白狐が勤務していた、四星稲荷の狐宮司である。一尾や二尾ばかりが勤務する四星稲荷の狐たちの中で、彼は唯一の三尾だった。三尾と二尾の力量差は極めて大きいために、まとめ役・教育係として頼もしい存在でもあった。

 狐宮司は白狐に挨拶し、病室の様子をぐるりと一瞥していた。ほんのりと笑みを浮かべているが、全体的に物憂げな表情である。彼もまた、白狐が罪を犯した事に心を痛めているのだ。いや――面倒見の良い彼の事だ。末端とはいえ部下の苦悩に寄り添えなかった事を悔やんでいるのかもしれない。


「気分の方はどうだね?」

「……まあまあです。昨日と同じですよ」


 極刑の報せを持ってきてくれるのであれば晴れやかな気分になる所なのに。割と真剣にそう思っていた白狐であるが、その事は口にしなかった。君の罪科はそこまで重くないと、狐宮司に言い含められていたからだ。

 もちろん彼もお咎めなしと言う訳ではない。稲荷の眷属の座を剥奪されるのは当然の事として、妖力も多少は剥奪されるかもしれなかった。尻尾を抜くという処罰も妖狐の社会の中にはあるのだが、一尾である白狐にこの刑が科せられるのかどうかは解らない。


「宮司様。そちらの方は……?」


 今回の来訪は普段とは違っていた。狐宮司が一人の男を伴っていたのだ。おぼろげであるが見覚えのある顔だった。確かあの場に居合わせたような気がする。狐宮司と同じく三尾で、それでいて妙に人間臭い男だった。人間に接し過ぎて人間の匂いがまとわりついているのではない。内部から人間の匂いを放っているような、そんな漢だった。


「彼は術者の桐谷苅藻君だ。まぁその……玉藻御前の末裔でもあらせられるお方なのだけど、君の事でいくらか提案があるそうでね」


 狐宮司は渋い表情でツレの男を説明し始めた。玉藻御前の末裔である桐谷苅藻。白狐も彼の名前は聞いた事があった。半妖であり、父親が人間であるらしい事や、兄たちが関東や岡山と言った場所――殺生石が飛散した地だ――にある寺院や神社で働いているという事などを連鎖的に白狐は思い出したのだった。


「――彼が気を取り直してくれたのは良かったよ」

「いやはや、宮司殿にそう仰っていただいて何よりです」


 病棟の廊下を、三尾の妖狐と三尾の半妖が連れ立って歩いていた。先程白狐の見舞いを済ませ、その帰りの道中である。妖狐の方は四星稲荷の宮司であり、半妖の方はフリーの術者として働く桐谷苅藻だった。

 稲荷の眷属として罰を受けた後は、寺に入って亡くなった奥さんの菩提を弔えば良いのではないか。苅藻の提案はおよそそのような物だったのだ。ありていに言えば出家の提案である。苅藻の兄の一人は僧侶として活動しているし、そのつてを頼る事だって可能だと踏んでいたのだ。


「通常、仏門に出家した者は神職に戻る事は出来ないとも言われているが……我々稲荷の場合はその辺りの融通が利くからそう言う意味でも良かったと思っている」

「まぁ何と言いますか、狐の幸せはそれぞれの狐の中にありますからね。稲荷の眷属になろうと仏門に入ろうと、或いは野狐として暮らそうとも当狐とうにんが満足していたらそれで良いんではないですかね」

「いやはや、玉藻御前の末裔らしい言葉ですな……恐らく私の幸せは、稲荷神社の中にあるという事なのかもしれません。私はもとより、親兄弟も稲荷の眷属としての職務を果たしていますから」


 それはそうと、狐宮司は声のトーンを落として言い添えた。


「彼も現実を受け止めて前向きに進むきっかけが出来たのは良かったと思うよ。本当に今回はありがとう」

「いえいえ」


 そうした短いやり取りの後に、二人は黙り込んでしまった。

 罰を受けた後、白狐はその妻の菩提を弔う。それは彼の妻ではなく彼自身の安寧に繋がるのだと二人には解っていた。

 妖怪の世界でも死後の世界は明らかになっていない部分の方が多いのだから。転生する事が解っていたとしても、それを自身でコントロールする事、前世の意識を保有したまま転生する事などは凡百の妖怪には。天界におわす神々ですら、自ら転生する時は記憶を失うという程だ。

 だからこそ、死せる者を見送るという行為は、やはり遺された者のためにあるという側面が妖怪たちの間でも強くなるのだ。

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