縁故ともなうくびきと恩寵

 月曜日の朝はまずミーティングから始まる。週初めのルーティーンは、もう既に源吾郎も雪羽も把握していた。新参の雪羽でさえ、研究センター勤めを始めて三か月近く経っているのだから。


「おはよう、島崎君に雷園寺君」

「おはようございます」

「おはようございます、先輩方……」


 事務所に戻る廊下の先で出くわしたのは三、四人ほどの妖狐たちだった。そのうちの一人は黒い二尾が特徴的な穂谷先輩である。後の妖狐たちは、顔と名前ははっきりとしないが見覚えのある一尾たちだった。いや、よく見れば金色の毛並みを誇る二尾も一人いた。萩尾丸の部下で、源吾郎の戦闘訓練を見学する面々だったはずだ。

 それにしても、何故穂谷先輩たちがここにいるのだろう。思いがけぬ存在を前に、源吾郎は多少面食らってしまった。しれっと源吾郎の斜め後ろに回り込む雪羽も、恐らくは同じような気持ちなのかもしれない。

 紅藤たちの行うミーティングに自分たちも出席するのだ。何のこだわりもなく穂谷は告げ、それから何故か源吾郎たちに申し訳なさそうな表情を見せた。


「土曜日はごめんね。相談を受けたし、島崎君絡みの事だから僕も参加したかったんだ。だけどあの日はどうにも外せない用事があったから……」

「別に、そんなの構いませんよ」


 源吾郎の言葉は若干上ずり、その声には戸惑いの色が濃く滲んでいた。土曜日にあの現場に穂谷が出席できない事は初めから知っていた。それこそ初期の打ち合わせの時にその話が出ていたのだから。

 妖狐襲撃事件の前に外せない用事を入れていたのなら、そちらを優先すべきだと源吾郎も思っている。或いはもしかしたら、穂谷が実際に外せない用事を抱えているか否かは別問題として、あの妖狐襲撃事件に彼は参加すべきではないと上が判断したのかもしれない。彼もまた玉藻御前の末裔を名乗る妖狐なのだから。しかも雷園寺家次期当主拉致事件での救出部隊での働きぶりや、戦闘訓練での立ち回りを見るに、かなり優秀な妖狐であるように思えたし。

 結局のところ、源吾郎たちに声をかけてくれたのは穂谷だけだった。

 萩尾丸が部下として抱える妖狐たちと、源吾郎との間にある距離感は、未だに縮まっていなかった。妖狐たちが萩尾丸の部下である事に対し、源吾郎は萩尾丸の後輩・弟弟子に相当するという立場の違いの為であろう。或いは、年齢的には若妖怪・子供妖怪に分類されるはずなのに、中級妖怪に匹敵する妖力を源吾郎が保有しているからなのかもしれない。何せ百歳未満の若い妖狐は大抵が一尾であり、六十、七十くらいで二尾になった個体でさえ才能ありともてはやされるのだから。二尾程度ではいかな妖狐でも下級妖怪と見做される訳であるし、尾の数が増えれば増える程、保有する妖力量の差は広がっていく。

 妖狐たちと源吾郎との関係性は、源吾郎と雪羽との関係性とは全く異なっていた。いや、雪羽と親しくなってから、妖狐たちと一層距離が出来てしまったのではないか。そんな考えが浮かぶ事すらあった。雪羽が研究センターにやってくる前や、戦闘訓練で雪羽打倒を目指していた頃などは、まだ珠彦や文明と遊ぶ機会に恵まれていたのだが。或いは単に事件に事件が重なってそれどころではなくなっただけかもしれないが。

 不思議な事に、こうした源吾郎の対妖関係について、上司たちは特に何も言わなかった。特に萩尾丸などは妖材育成じんざいいくせいに力を入れているし、妖狐たちと雪羽の両方を育成・監督している立場であるにも関わらず、である。

 そもそも源吾郎も、最近は若妖狐たちと自分との関係について深く考えていた訳でもない。しかしよそ者を見るような眼差しを妖狐たちに向けられた事で、ふとその事を思い出したのだ。

 その事も萩尾丸に相談してみようか。或いはその前に、珠彦たちと掛け合って一緒に遊ぶのも良いかもしれない。雪羽の隣で、源吾郎はぼんやりとそう思っていた。


 ミーティングでは、想定通り土曜日の事も言及していた。人間を襲撃した白狐と犬神に魅入られていた芦屋川がそれぞれ病院送りになるという惨事であったが、曲がりなりにも生命に別状が無いのが救いであろうか。特に白狐に関しては意識が戻り、のみならず事情聴取が出来る程に回復しているらしい。

 白狐の回復が早かったのは、ひとえにサカイ先輩の活躍によるものなのだと萩尾丸は解説してくれた。白狐が犬神に腹を裂かれたあの瞬間に、サカイ先輩は出血や細菌等の感染を防ぐべく妖術を使ったらしい。原理については文系だった源吾郎にはいささか難しいモノであったが、要するにすきま女としての特性を上手く応用した結果と言う事はどうにか把握できた。


「ともかく、土曜日は皆頑張ってくれたと僕は思っているよ。想定外の事があって君らは不安に思ったかもしれないけれど、それでもなすべき事を成してくれたと思ってる。本当にお疲れ様。月曜日の朝に言うべき事じゃあないかもしれないけどね」


 萩尾丸の口から出てきたのは、何とねぎらいの言葉だけだった。いつも自信たっぷりに源吾郎たちを煽ったり皮肉をかましたりする事が常であるというにも拘らず、である。源吾郎は毒気を抜かれたような思いになって、萩尾丸を見つめていた。サカイ先輩は気恥ずかしそうに身を縮めるだけである。雪羽は訝しげな表情を見せていたが、ややあってから笑みを浮かべて口を開いた。


「萩尾丸さんが素直に僕らを褒めてくれるなんて珍しいですね。ここ最近、僕らに優しくて、却ってむずかゆいです」

「飴と鞭を使い分けているだけだよ、雷園寺君」


 無駄口めいた雪羽の言葉に、萩尾丸は軽く笑いながら返した。


「君らも訓練や仕事とは別次元の所で色々と苦労しているからね。あんまり厳しくしすぎてもしんどいだろうからさ。

……それに今回は、事は収まったとはいえ若干後手後手に動いた部分もある訳だからね。まぁ、双睛鳥君とその部下数名は最初からこちらで配置していたんだけど、まさか犬神まで出てくるとは思っていなかったから。僕たちの調査不足でもあるよ」

「そんなに気にしないで、萩尾丸」


 悔しささえ滲ませる萩尾丸を優しくなだめたのは紅藤だった。


「稲荷の眷属が動く案件だから表立って動けないのは初めから解っていたでしょう。それに私たちだって忙しかったですし、島崎庄三郎君を護り被害を最小限に防ぐという当座の目的は果たせたんですから」


 紅藤はここで一度言葉を切ると、眼鏡の奥にある瞳を輝かせながら問いかけた。


「もしかして、稲荷の眷属たちは私たちの介入に不満を持っているのかしら?」

「いえ、そう言う訳ではないはずですが」


 問いかけに応じる萩尾丸の言葉は、若干歯切れの悪い物だった。思案顔のまま、彼はゆっくりと言葉を続ける。


「正直なところ、その辺りは今後の打ち合わせ次第という感じですね。と言うか、向こうも向こうでそれどころでは無かったようですが。何せ外様である我々よりも、身内である容疑者の容体が安定するか、意識が戻るか否かについての方が重要ですからね」


 稲荷の眷属たちとの対談の日時は未定であるが、その準備として、今日の午後に雉鶏精一派の内部にて打ち合わせを行うのだと萩尾丸は言い足した。場所は雉鶏精一派の本社会議室であり、出席者は第五幹部の紫苑と第七幹部の双睛鳥、そして研究センターからは萩尾丸と青松丸であるらしい。


「本当は鳥類ばかりで打ち合わせを進めて欲しかったんだけど、僕が出席したほうが会合がスムーズになるって紫苑様たちから言われてしまったからね。

 そう言う訳だから、僕と青松丸君は午後からこっちには不在なんだ。半日足らずだからどうという事は無いけれど、くれぐれも気を引き締めて業務に励んでくれたまえ。まぁその……僕らはいないけれど管理者が不在という訳ではないからね」


 気を引き締めて、のくだりを口にした時は源吾郎と雪羽を、管理者と告げた時は萩尾丸は紅藤ではなくサカイ先輩を見ていた。後輩が出来たんだから彼らの監督は任せるよ。サカイ先輩に釘を刺しているように源吾郎には思えてならなかった。

 萩尾丸さん。さも何かを思い出したという調子で青松丸が口を開いた。


「僕らの用事はさておきですね、今日は午後から――丁度僕たちが打ち合わせを行っている時ですね――来客予定があったはずですが」

「ああ、の事だね」


 来客予定を指摘する青松丸に対し、萩尾丸はさらりとした口調で告げる。桐谷所長が誰であるか源吾郎にははっきりと判っていた。源吾郎の叔父、桐谷苅藻の事だ。所長と呼ばれているのは、ひとえに彼が事務所の長であるからだ。


「言うて桐谷所長は来客と言うか単に納品に来ただけなんだけどね。ほら、毎年年末に工員向けの簡易護符を発注してるでしょ。あとちょっとした道具とか備品の発注もね。年末と言うにはちと早いけれど、最近何かと物騒だし、そっち方面でも具えておいた方が良いかなと思ってね」


 萩尾丸の言葉に源吾郎は思わず視線を彷徨わせた。何故か穂谷達妖狐の様子を窺ったりもしていたのだが、結局の所雪羽と目配せする形に落ち着いたのだった。

 苅藻と萩尾丸の関係性について、源吾郎は何も知らない訳ではなかった。紅藤は弟子にしようと目論んでいた事は知っている。未熟な若狐・仔狐だった頃に萩尾丸の許で術を覚え、その上でいちかと共に独立して術者になった事も知っている。だが、研究センターに度々苅藻が物品を納品していた事は初耳だった。表情を見るに、雪羽も同じ考えであるようだった。


「萩尾丸さん! やっぱり萩尾丸さんは苅藻さんと、桐谷所長と繋がっていたんですね」


 翠眼を輝かせた雪羽は、頓狂な声を上げながら説明を続けた。苅藻は源吾郎たちを助けるために姿を現し、あまつさえ庄三郎の絵を購入した。そうした気前のいい振る舞いは、護符等の購入と言う萩尾丸の資金援助によってもたらされたものではないか。雪羽の推理はそのような物であった。

 そうかもしれないと源吾郎も素直に思っていた。フリーの術者ゆえに儲けについてはかなりシビアなのは源吾郎もよく知っている。何よりタイミングが合い過ぎている。

 ところが、萩尾丸はその言葉を聞くと笑いながら首を振るのみだった。


「やだなぁ雷園寺君。僕の方から苅藻君に依頼を投げかけたらややこしい事になるって、この前言ったばかりじゃないか。確かに僕も苅藻君とは長い付き合いだけど、それでもあれは身内での話だったんだから。ちょっと大事になったけど。

 そもそもね、甥たちから依頼を受けていようが受けていまいが苅藻君が動くであろう事は僕には解っていたんだよ。君らも知っている通り、苅藻君は甥たちに甘いからね。むしろ苅藻君はただ働きするんだろうなと思ったから、それで必需品の発注を彼に僕が割り振っただけの話だし。

 ともあれ、桐谷所長の対応を島崎君と雷園寺君にやってもらおうか。名刺交換とかも教えたし出来るよね?」


 頷きながらも、源吾郎の顔には緩んだ笑みが浮かんでしまった。仕事の場と言えども、叔父と対面するのである。兄のように慕っていた叔父に対し、名刺交換と言う形式ばった動きをする。それが面白くてならなかった。

 紅藤やサカイ先輩も挨拶に顔を出す。苅藻の来訪に関しては、そんな話の流れで締めくくられたのだ。


「朝から長い打ち合わせに付き合わされてお疲れさん。若いのに大変だったろう」


 打ち合わせ終了から十分後の中休み。だらっと休もうとした源吾郎たちに、二尾の妖狐が声をかけてきた。二尾と言っても穂谷先輩ではない。彼は萩尾丸の許で何か話し込んでいた。あの時源吾郎たちを凝視していた、金毛の二尾である。よく見れば穂谷より若く、そしてチャラそうな気配を漂わせていた。しかしその顔には友好的に見える笑みが浮かんでいる。


「雷園寺君に島崎君……だったっけ。ジュースでも奢るよ。さ、自販機売り場についておいでよ」

「良いんですか?」

「ありがとう……ございます」


 ジュースを奢るからついてこい。二尾の言葉に当惑しつつも、源吾郎と雪羽は従う事にした。仕事の労をねぎらうために、上司や先輩が缶ジュースを奢るという事はままある事だと源吾郎も知っている。それに何となく有無を言わせない圧を感じ取ってもいたのだ。


「……君らも若いのによく頑張っているよね。いや、若いというよりはって呼んでも良い位の歳だけどさ」


 二尾に促されて各々ジュースを購入したのを見るなり、彼はそう言った。ご丁寧に周囲に認識阻害の術をかけた上で、である。口調は丁寧であるし、その顔には笑みも一応浮かんではいる。だが源吾郎や雪羽に対する侮蔑と言うか、静かな怒りの念が見え隠れしているように思えてならなかった。

 全くもってだねぇ。彼のその言葉には、はっきりと皮肉が籠っていた。


「土曜日の事件とやらに、俺たちも知り合いが関与したって事で、穂谷さんと一緒に俺らも打ち合わせに参加したんだよ。だけどまぁ……所詮は身内だけで解決できるような案件だったのに、あそこまで上層部が大真面目になるなんてねぇ。

 ははは、やっぱり幹部候補生は俺たち野良の雑草とは違うって事だよな」

「…………」


 抑えろ雷園寺。源吾郎は無言のまま、雪羽を見やった。源吾郎たちの前では幾分丸くなったように見える雪羽であるが、それでも感情の起伏は烈しいし怒りっぽい若者である事には変わりない。野良妖怪のあからさまな挑発に雪羽が乗ってしまわないか。それが気が気ではなかった。

 まぁ、源吾郎たちの将来を嘱望されているという身分について、庶民妖怪が嫉妬するのも致し方ない所もあるのだろうが。

 もっとも、そんな事を解っていても、相手の言動を不愉快に思うのは源吾郎も同じ事なのだが。


「――白川君。彼らがお子ちゃまだと思うのなら、わざわざ絡んで嫌味を言わなくても良いじゃないか。それこそ君だって、わざわざお子ちゃまに絡んでいるという所でだと思われかねないからさ」

「穂谷さん……!」


 白川と呼ばれた二尾が驚いて瞠目する。視線の先には確かに穂谷がいた。呆れたような眼差しで二尾と源吾郎たちを交互に眺めている。認識阻害の術は既に解除されていた。


「白川君からすれば、確かに島崎君も雷園寺君も上から寵愛されているように見えるかもしれないね。実際問題僕らとは比べ物にならない程の潜在能力の持ち主だし、血筋だって申し分ないからね。

 だけど彼らはただ上から甘やかされている訳ではないんだ。期待されている分、二人も僕ら以上に背負わなければならない物も抱えているんだからね。だから僕たちが嫉妬するのはお門違いってやつなんだよ」


 解るでしょ? 穂谷の言葉に誰も何も言わなかった。表向き白川に向けて放たれた言葉であるが、源吾郎や雪羽に対する問いかけでもある。そのように源吾郎は思えてならなかった。

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