鵜の目 鷹の目 不穏な視線

 お手洗いから戻ってきたという庄三郎は、妙に晴れやかな表情をしていた。半ばくっついていた源吾郎と雪羽は、互いに顔を見合わせてからちょっとだけ距離を取る。仲良くくっついていたのが恥ずかしいわけではない。自分たちが調べていたものを庄三郎に伝えるのはやめておいた方が良い。そのような思いがあったからだ。

 源吾郎は周囲に目を配らせ、認識阻害の術を続行させておいた。当たり障りのない会話になると思うのだが、妖怪と半妖二人が集まっているので、妖怪絡みの話に転んでもおかしくないからだ。


「二人とも待たせちゃったかな。いやはや、このところ冷えるしちょっとお腹がね」

「ははは、男だったら急に下る事もあるもんね」


 若干下ネタに近い事を敢えて言って、源吾郎は笑って見せた。平素ならばそうした話を振る事はまずない。しかし相手が兄であるし、まぁ許容範囲だろうと源吾郎も思ったのだ。実際問題、お腹の弱い男子が多い事はまごう事なき事実なのだから。

 待たせた、と言っている所からも庄三郎はちと緊張冷めやらぬ所なのだろうと源吾郎は踏んでもいた。源吾郎たちは何となく護衛に回っている訳であり、三人で連れだって何処かへ行くという訳でもないのだから。


「別に大丈夫ですよ、庄三郎さん」


 はきはきとした口調で応じたのは梅園幸夫もとい雪羽だった。先程までの興奮はなりを潜め、秀麗な見た目も相まって爽やかな好青年と言った風情である。


「こんな事を言っちゃあなんですけど……庄三郎さんを待っている間に、僕らも色々と敵情を探る事が出来たんです」

「そうだったんだね」


 話の雲行きが急に怪しくなったではないか。そう思っている間にも、雪羽は言葉を続けてしまった。


「事の発端になった造形作家のバックには、どうやら犬神が憑いているみたいでしてね」

「犬神、ねぇ……」


 庄三郎が訝しげに片眉を上げる。やっぱり美形はそんな表情でも様になるんだな。源吾郎がそんな事を思っている間にも、調子づいた雪羽は喋り始めていた。


「そうですよ犬神ですよ庄三郎さん。あ、もちろん狼とかと同一視されて神聖視されているようなモノホンの神様みたいなやつでもなければ、哮天犬様みたいな正義の猟犬でもありませんよ。苅藻さんだって、禍々しい気配を感じるって仰ってましたもん。

 アレですよアレ。呪いによって生まれた……蠱毒の一種ですからね。今回のやつは」

「雷園寺!」


 源吾郎はたまらず吠えた。余計な事をのたまい過ぎだ。そのような思いを込めてきっと睨んでも、雪羽はどこ吹く風と言った雰囲気だ。源吾郎と異なり、雪羽は相手の敵意や悪意を受け流すのが得意な節がある。或いは、源吾郎だから大丈夫とでも思っているのだろうか。


「報連相は大事って職場で散々言われているけれど、何も兄上に犬神の話をしなくて良いだろうが。ただでさえ、兄上は妖狐に襲撃されるかもしれないってビクビクしているのに」

「差し迫った脅威の正体が解るのなら、リスク回避のために伝えるのが優しさだって俺は思っているんだけどね」


 ややきつい口調で言い募ったものの、当の雪羽は困ったように肩をすくめただけだった。だが雪羽なりに庄三郎を思いやり、優しさを見せている事は源吾郎には伝わった。その優しさと思いやりの表出が、源吾郎のそれとは真逆なだけなのだ。


「ははは、気遣ってくれてありがとう。源吾郎君も雷園寺君も。大丈夫だよ、僕は怖い話とかその手の話には慣れているからさ」


 庄三郎は鷹揚に笑っている。彼も彼なりに源吾郎たちを気遣っているのだ。もちろん、怖い話をさほど怖がらずむしろ愛好する気質であるのも事実なのだが。


「動物の毛皮や剥製を使った造形作家に犬神が憑いているなんて……何というからしいと思いませんかね? しかも、彼らのライバルはことごとく不幸に見舞われている訳ですし」

「小説の題材としては中々に興味深い話だね。僕もあの人の事は知っていたけれど、まさかそんな秘密があったとは夢にも思っていなかったよ」


 犬神が、蠱毒が憑いているとして、芦屋川何某は何処でそれを手に入れたのだろうか。源吾郎は目を細めながら思った。

 蠱毒や呪詛としての犬神を持つルートは大きく分けて二通りある。自らの手で造り出すか、先祖から継承されるかのどちらかだ。ごくまれに、憑き物を持つ術者から押し付けられたり譲り受けたりする事もあるらしい。

 いずれにせよ、芦屋川の犬神は継承されたものでは無いだろうと踏んでいた。雪羽の調査によると、芦屋川の身辺で奇妙な事が起きているのは今年に入ってからだという。親から受け継いだのであれば、初めから彼の傍らに犬神がいる事になる。それこそ、幼少のみぎりより呪詛や怨嗟を背負った子供と見做されているはずだ。それが犬神のもたらすものだったとしても。

 それならば芦屋川が自ら犬神を造り出したという可能性はどうか? かつて雪羽は犬神を「首を刎ねればお手軽に出来る」などと言っていたが、もちろん犬神はお手軽に出来る物ではない。俗っぽい話になるが動物愛護法に違反する案件であるし、そもそもにそれをこなせる人間がいるのか、と言う話である。

 だが……芦屋川は元々動物の剥製を加工した作品を手掛けているし、それ故にこの度の妖狐襲撃事件が発生しているのだ。そうなれば或いは……源吾郎は自身の想像に怖気を感じ、ぶるっと震えてしまった。


「庄三郎さん。とにかく安心してください」


 雪羽だけは元気よく、庄三郎と源吾郎を交互に眺めながら言い放った。


「お狐様だろうと犬神だろうと俺の目が黒いうちは庄三郎さんたちを襲撃するなんて事はこの俺が許しません。やつらが牙を剥いてきたら――この俺が相手になりますんで。俺は、俺は大丈夫ですよ庄三郎さん。お二人はお狐様の血を引いているから犬が怖いかもしれませんが……俺はあくまでも雷獣ですからね。怨念と欲望に冒されたケダモノなんぞ、この俺の敵じゃあない」


 そう言う雪羽の両目には、やはりぎらついた光が宿っていた。敵の存在が明らかではないのに、雪羽は闘志の焔をふつふつと沸き立たせているではないか。俺は怨霊なんぞ怖くなんかないんですよ。夢見心地で、或いは譫言めいた調子で雪羽はそんな事さえ口にしていた。

 蠱毒の一種であり、雷獣とも縁のある犬神など怖くない。その言葉が雪羽の事は源吾郎も察していた。雪羽も犬神や蠱毒を本当は怖れているのだ。その恐怖を悟らせないために、恐怖を押し流すためにそう言っているにすぎない事を、源吾郎は理解していた。何せ雪羽の母は蠱毒によって斃れ、異母弟すらも蠱毒の餌食になりかけたのだから。頼もしい子だね、と言わんばかり微笑む庄三郎が何も知らないのが救いだと、源吾郎はぼんやりと思っていた。


「雷園寺……」

「先輩。いざという時は庄三郎さんと一緒に逃げてくださいね」


 これはマズい方向に転がっているぞ……大真面目に告げて、それからひっそりと微笑む雪羽を見ながら源吾郎は思った。庄三郎を護るために源吾郎と雪羽はこの会場に赴いているのは事実だ。だが雪羽の中で、その目的が「犬神と闘う事」にすり替わってはいないだろうか? そうでなくても犬神や蠱毒などは、生半可な強さの妖怪が闘った所で取り込まれるか侵蝕されるかがオチだというのに……

 

「あ……」

「あれ、着信……?」


 興奮した雪羽をどのように説得しようか。そのように源吾郎が悩んでいたまさにその時、ポケットに収めていたスマホが震えて着信を知らせた。見れば雪羽のスマホにも。

 画面には無料通話アプリへの通知が記されていた。画面を確認すると、萩尾丸からメッセージが入っているではないか。


『独断専行は命取り・目的を忘れるなかれ 色々と新事実が発覚して動揺しているみたいだけど、慌てればその分目的の遂行から遠ざかるだけだ。くれぐれも落ち着いて行動するように。君らだけで動いている訳じゃあないからあまり気負わない事』

「な、何これ……」


 メッセージ自身は簡潔な短文だったが、今の源吾郎たちの状況をピンポイントで捉えたアドバイスそのものだった。先輩であり教育係でもある萩尾丸の粋な計らいなのだろう。だが源吾郎の心中に浮かんだのは感謝の念よりもむしろある種の恐怖心だった。何せアドバイスの内容がピンポイント過ぎたのだから。


「先輩のメッセージも俺と同じだね」

「何かさ、何処かから俺らの様子を監視しているみたいなメッセージやな」


 源吾郎がぼやくと、雪羽は諦めたように息を吐いた。


「実際監視してるんだろうね。萩尾丸さんは言うて大天狗でしょ? 遠くを見通す千里眼とかも会得なさっているはずだよ」


 千里眼かぁ……雪羽の言葉に源吾郎は大いに納得していたのだった。


 萩尾丸からの通知は決定打をもたらした訳ではなかった。だが源吾郎と雪羽の心を落ち着かせるのに一役買ってくれたのた。いささかショック療法的な傾向を帯びてはいたが、それも込みで萩尾丸らしいともいえる。

 冷静さを取り戻した源吾郎たちは、改めて妖怪たちも警戒網や包囲網を構築している事を認識した。稲荷の眷属らしい妖狐たちはさる事ながら、人間の術者と使い魔たる妖怪たちのコンビやグループも、一般客に混じって確認できた。また、存在は確認できなかったが、第七幹部の双睛鳥も会場のどこかにいるらしい。

 結局のところ、源吾郎と雪羽は交互に庄三郎の傍に着く事にしておいた。一方がツレとして庄三郎の傍に居る間、もう一方は会場内をぶらつきつつ、周囲の偵察を行うという運びである。偵察の最中に包囲網を構成する妖怪たちともごく自然に意見交換は出来たので、庄三郎に二人してくっついておくよりも良かったと源吾郎は思っていた。

 現時点では、まだ下手人の動きは特に無い。標的を品定めしている最中なのだろうか。残念ながら、源吾郎の探知能力や雪羽の電流感知力をもってしても、下手人と思しき妖狐をあぶりだす事は出来なかった。あまりにも人や妖怪が一か所に集まっているからだ。更に言えば対象はそれほど強い妖力を持っていないから尚更であろう。


 気付けば時間も過ぎていき、昼時を迎えていた。何度目かの巡回を終えた雪羽がこちらに戻って来る。交代の時間だ。その前に昼食だろうか。そう思いつつも源吾郎は口を開いた。


「梅園君。何かめぼしい物はあった?」

「特に普段通りかな。そっちは?」

「兄上も普段通りなんだけど……」


 庄三郎は相変わらず目立たないように奥まったところで控えていた。今回のギャラリーのパンフレットに視線を落としている。午後になったら他の作家の絵を見に行こう。源吾郎にはそのように言っていた。

 と、その庄三郎に向かって一人の人物が歩み寄ってきた。庄三郎と同年代か、二つ三つ年上の男である。自身が注目され、偉大な存在だと信じて疑わぬようなオーラが漂っていた。もっとも、妖怪である源吾郎と雪羽は、彼から立ち上る獣臭さにもばっちり気付いていたのだが。こいつが芦屋川だ。源吾郎と雪羽は確信した。


「島崎君、だよね」

「はい、芦屋川さん……」


 気軽と言うか気安い芦屋川の呼びかけに、庄三郎は顔を上げて応じた。読んでいたパンフレットはきちんとたたんで脇に置いている。


「君がやって来るなんて珍しいなぁ……ま、そんな所でぼんやりしててもアレだからさ、ちょっと俺の所においでよ。新作も出したし、君の作風とかそんなのも気になるからさ」

「あ、ありがとう……ございます」

「照れなくて大丈夫だって」


 兄上は照れているんじゃなくて戸惑っているだけなのでは……源吾郎はそう思ったがそれは口にはしなかった。しかし、無言を通したかと言えばそれは別の話だ。芦屋川さん! 彼は半歩進み出て彼に呼びかけていたのだ。


「僕と友達も一緒に行っていいですか? あ、僕は島崎源吾郎と言います。こう見えても島崎庄三郎の弟なんです。こっちの子はツレの梅園って言いまして……実は梅園君の方が美術や芸術に興味があるみたいでして」


 アドリブながらも言葉を紡ぎ、ついでに雪羽にも庄三郎について行くという旨をアイコンタクトで伝えた。

 芦屋川は値踏みするような眼差しを源吾郎たちに向けていたが、ややあってから朗らかな笑みを見せた。


「島崎君の弟さんにお友達なんだね、君たちは。面白い子だね、ついて行きたいだけならわざわざ断りを入れなくても良いのに」


 芦屋川の言葉を受け流しながらも、源吾郎と雪羽は周囲に意識を向けていた。射抜くような視線を、殺気とも敵意ともつかぬ気配を感じ取っていたのだ。

 いよいよ正念場が目前に迫っている、と言う事なのだろうか。

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