幕は下がりて因果を思う

「ともあれ一件落着だ。これで君らも安心できるだろう……」


 獣の唸り声のような奇妙な声と、女の甲高い絶叫を源吾郎たちが耳にしたのは、まさしく苅藻が安堵の言葉を漏らしたまさにその時だった。

 周囲に漂っていた、桃ジュースの残滓たる甘い香りに、吐瀉物の名状しがたい臭いが混じったのを源吾郎は感じ取った。酸っぱく饐えた……そして何かが腐敗したような、獣妖怪からしても悪臭だと感じ取るような臭いである。

 ともあれ源吾郎と雪羽は驚き、首を巡らせて何が起きたのかを思わず確認した。一人の男が倒れ伏し、その周囲に肉色の吐瀉物が広がっていた。その彼の傍らに、若い女が座り込んで背や肩をゆすっている。戸惑いの涙と汗が、彼女のメイクを滲ませているのが源吾郎には見えた。


「みっちゃん、満、どうしたの! 起きて、誰か、誰か救急車を――!」


 どうやら状況を見るに、倒れているのは芦屋川であり、懸命に彼を起こそうとしているのは奈美と言う娘だった。大騒ぎしているのが功を奏し、彼らの周りにも人間たちが集まっている。発作か、急に倒れるなんて、とりあえず救急車だ……何も知らない人間たちは、ただただ芦屋川が倒れたという横たわる結果を前に動いていた。


「あいつは確か、犬神を持っていた男だったな」


 異変に気付いた苅藻が静かに言う。驚きも憐れみも何もない、ひどく落ち着いた物言いだった。驚き動揺して言葉も出ない源吾郎たちとはあまりにも対照的だ。

 庄三郎だけが、視線を往復させたのち口を開く事が出来た。


「叔父さん。何で芦屋川さんは……倒れたんですか」

「何でも何も、犬神がいなくなったからだよ」


 野狐禅のような言葉だと思っている間に、苅藻の面に笑みがさあっと広がった。玉藻御前の血を思わせるような笑みだと、他ならぬ玉藻御前の曾孫である源吾郎は思っていた。


「あの犬神はね、犬の怨念を核に餌食になった犠牲者や、かつて犬神を使役していた術者の亡霊などが寄り集まった存在だったんだよ。芦屋川だったっけ、彼も犬神を使役している間、知らず知らずのうちに犬神に心を喰われていたんだろうね。もっとも、それだけ犬神に依存して願いを叶えさせていたというだけの話なんだが。

 それで今回、君らの上司たちが寄ってたかって犬神を退治して食べつくしてしまっただろう。それでまぁ、急に心とか精気が激減したからああして倒れたんだよ。犬神がついていた時は、心を喰われていても特段影響はなかったんだけどね」


 良くて数週間の虚脱状態、悪くて廃人だろうな。芦屋川のその後について、苅藻は事もなげに言ってのけた。庄三郎たち三人は、苅藻の言葉を神妙な面持ちで耳を傾けていた。源吾郎の心中では色々な考えが渦巻いていて、それを言葉にするのは難しかった。

 芦屋川の言動は度し難いものであったし、彼がそれこそお咎めなしであったらそれはそれでモヤモヤしていた所だろう。嬉々として犬神を受け入れたがための自業自得、因果応報と言う物だと源吾郎の理性は訴えていた。しかし、それでも心の片隅では、運命の苛烈さに戸惑ってもいたのだ。


「どうしたんだね君たち」


 苅藻の視線は源吾郎と雪羽の二名に向けられていた。呆れたような、しかし何処か優しさの滲む表情で苅藻は問いかける。


「もしかして、この度の元凶になったあの男の末路を憐れんでいるのかな? 源吾郎にしろ雷園寺君にしろ、優しくて素直な子だからさ。だが、知らないと言えども犬神を受け入れ、あまつさえ――」

「俺は憐れんでなんかいません」


 苅藻の言葉を遮って言い放ったのは雪羽だった。伊達眼鏡の奥にある瞳が興奮でギラギラと輝いている。


「あんなモノに頼った相手を憐れんだり擁護するつもりは俺には毛頭ありませんよ。ただ――」


 切り捨てる様な歯切れの良さで雪羽は言い放つ。だが、その次の言葉を口にするときには、その歯切れの良さは既に失われていた。むしろ半ば口ごもりながら、それでも自身で言葉を探ろうとしている。


「俺もああなっていたかもしれない。そんな考えが浮かんだだけです。あ、もちろん俺は蠱毒なんぞに手を染めたりしませんよ。あんなのには金輪際関わりたくありませんから。

 でも僕にも力があって、その力を笠に着て好き放題やっていた事があったから……」


 言い終えると、雪羽は身を縮めるような素振りを見せていた。雪羽はおのれの所業について振り返り、恥じているんだ。源吾郎は即座にそう思った。

 雷園寺……未だ彼が梅園幸夫に扮している事さえ忘れ、声をかけずにはいられなかった。源吾郎は知っている。雪羽が単なる悪ガキではない事も、再教育を受けながらマトモにやり直そうと頑張っている事も。そして、思いがけないほど繊細な心の持ち主であるという事も理解していると思っていた。

 だがそれでも、雪羽がこうして自身の身を顧みる姿を見ていると、源吾郎も何とも言えない気持ちになってしまった。

 戸惑い縮こまる二人の若妖怪を、苅藻は静かに見下ろしていた。大丈夫だ。ややあってから放たれたその言葉は力強かった。


「そうか。力と言うか思い通りになる環境に触れて、それで堕落して破滅するんじゃないかって心配していたんだね。だけどね雷園寺君。君はもう大丈夫だって俺は思っているよ」

「本当ですか……?」


 苅藻に問いかける雪羽は、心持ちおどおどしているようだった。いっそ罰を求めているかのようにさえ見えてしまう。苅藻はそんな雪羽や源吾郎に鷹揚な笑みを見せている。


「まぁ確かに君もヤンチャ放題だった時もあったみたいだけど、でも今は違うでしょ。それが良くなかった事だって君はきちんと知っている。三國君たちだってその事で反省しているし、何より今は萩尾丸さんの許で勉強中の身だ」


 勉強中とは含みのある言葉だ。雪羽の隣に立つ源吾郎はそんな事を思っていた。元より萩尾丸の許での再教育と言うのは、雪羽と三國への懲罰に他ならない。雪羽は自由気ままに振舞う事を制限され、三國は最愛の甥を取り上げられたのだから。

 とはいえ、再教育が文字通り教育と勉強の場である事もまた事実だった。何のかんの言いつつも、萩尾丸が雪羽を大切に扱っているであろう事は源吾郎にも解っていた。仕事に慣れさせるためと言う名目で萩尾丸の傍で働いている雪羽であるが、まだ手許で教える必要性があると萩尾丸が判断を下したからなのだろう。妖力面で言えば雪羽は強い。既に中級妖怪であるし、それどころか実戦の心得さえ具えている。それでも、萩尾丸が部下として抱えている若妖怪たち、珠彦や文明、或いは穂谷先輩などと較べれば格段に幼さが目立つのだから。

 そう言う意味では、敢えて源吾郎の傍に雪羽を配置したのも、互いに影響を及ぼす事を見越しての事だったのかもしれない。源吾郎と雪羽の存在が互いに影響をもたらしている事は言うまでもない事であるし。

 そんな事を思っている間にも、苅藻は言葉を続けていた。


「だから雷園寺君。そんなに心配しなさんな。君はもう道を外れたり間違ったりしないだろうからさ。仮にそうなったとしても、今の君にはそれを正してくれるひとがいるんだから」


 お前だってそうだぞ源吾郎。少しぼんやりしていた源吾郎にも、苅藻は呼びかけていた。


「お前もまぁ……野望があると言えども普段は真面目に仕事をこなしているんだろう? 俺とて根無し草だけど、それでも妖の噂はすぐに入って来るからさ。お前に関する噂は少ないみたいだから、噂にされるような事はやらかしてないはずだ。

 そこの雷園寺君とも、あれから大分仲良くなったみたいだし。三國君も喜んでいるはずさ」

「確かにそうかも」


 苅藻の言葉に、源吾郎は手短に応じた。仕事を真面目にこなしているのは事実だし、浮いた噂が出来ないように気を付けているのも事実だ。

 雪羽と友達になったのもまごう事なき事実だ。色々あったけど、よくもまぁ短期間でここまで仲良くなれたものだと、源吾郎は半ば感嘆しながら思ってもいた。萩尾丸や紅藤は、もしかしたら二人を仲良くさせようと画策していた部分はあるかもしれない。それでも実際に仲良くなるか否かは、源吾郎と雪羽自身の問題でもある。


「とりあえず一件落着だな。三人ともお疲れ様。見た所、今はもう人間にしろ妖怪にしろ悪意のある連中はいないだろうし、俺らがでしゃばらなくても大丈夫だろう」

「本当にありがとうございました、苅藻叔父さん」

「……あの白い狐はどうなるんでしょうか?」


 庄三郎が苅藻に礼を述べた後、雪羽は白狐の安否について口にした。初対面であるはずの白狐の身を案じている所が、何と言うか彼らしい。

 そんな雪羽に対し、苅藻は困ったように微笑むだけだった。


「彼については稲荷たちの方で裁く事になっているよ。俺らの意向ではどうにもならない領域だな。治外法権みたいなやつだ。

 だがもちろん、その前に傷を治して心身が回復するのを待たないといけないけれど。すきま女のお嬢さんが応急処置を行ってくれたと言えども、腹を破かれたんだからな……後はまぁ運次第、これも俺らではどうにもならない所だよ」

「……助かってくれればいいですね。と言うか個人的には助かると思うんです。ハラワタがまろび出たくらいじゃあすぐには死なないって三國の叔父貴も言ってましたし」

「三國君の言葉は自分の実体験も入っているからな。雷園寺君もあんまり真に受けないように。と言うかあの子は妖力が物凄い多いから、他の妖怪よりも傷の治りが速すぎるんだよ」


 途中から真面目なのかとぼけているのかよく解らない雪羽の言葉に、苅藻は呆れもせず真面目な調子で返答している。ハラワタ云々が実体験とは……源吾郎も気になりはしたが、深く追求するのは何となくはばかられた。


「それじゃ、俺はそろそろお暇するよ。絵を買ったりしないといけないからね。ああでもその前に、お昼だから何か奢ろうか。君らもお腹が空いてきた頃だろうしね」


 言われてみれば時刻はもう正午を過ぎていた。白狐の襲撃も犬神の顕現も昼日中に起きた事件だったのだ。妖怪が夜中に暴れるという伝承もあるが、それもあてにならない話だろう。

 源吾郎たちはともかく三人で顔を見合わせた。お昼と聞いても、もうお昼なのかと思っただけである。空腹は忘れていた。と言うよりも、あの光景を見た後に食欲は湧いてこないだろう。そもそも源吾郎も庄三郎も妖狐の血を引いている。妖狐はイヌ科獣らしく多少は食い溜めが出来るから、一食くらい抜いてもそんなに問題はない。

 結局のところ、お腹が空いてきたと言ったのは雪羽だけだった。彼は流血沙汰にも慣れているし、雷獣だからなのだろう。雷獣は機動力の高さとパワフルさが特徴的であるが、その分代謝が高い。と言うよりも機動力の高さを維持するために、より多くの食事を必要とする種族でもあるのだ。

 だから雪羽が空腹を訴えたのも、まぁそんなに不自然な事でもなかったのだ。

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