その出会いは青天の霹靂なり
普段着の上に月華から貰った上着を羽織った姿で雪羽は出かける事にした。もちろん、彼の隣には猫又のシロウも付き従っている。三尾だと目立つので余分な尻尾は隠しているけれど。
変化が苦手な雪羽にと用意された認識阻害術の上着は、今まで修道服のような裾と袖が長く、次いで顔を覆うフードを具えたものだった。こんな上着だと目立たないかな……そう思っていると衣装が柔らかく薄手のパーカーに変化したのだ。しかもよく見れば淡い水色のヒョウ柄模様が浮き上がっており小粋な感じがする。
この上着そのものがこうして変化する力を有しているとは……作り主である月華や春嵐の想いが伝わった気がして嬉しかった。その嬉しさは、微かな心の痛みを伴うものでもあったけれど。
三國の部下たちはみんな、雪羽に良くしてくれている。しかしその中でも月華と春嵐は雪羽にとって特別な存在だった。
月華は三國の妻であり、雪羽にしてみれば叔母にあたる存在だ。立場上雪羽は三國の養子だから義理の母親と言っても過言ではない。
雪羽はしかし、月華を母親と思う事が出来ずにいた。どうしても本当の母親の事は忘れられなかった。それにそもそも月華が三國と結婚したのは、雪羽に母親代わりが必要だと三國に言われたからだった。もちろん、それまでも夫婦とほぼ同じ間柄だった事は知っているけれど。愛する男の養子のために結婚する。しかもその子供は自分を母親と思おうとしない。姉のように慕う事しかできない雪羽の事を、それでも月華は受け止めてくれた。
春嵐は三國の血縁者ではないが、ずっと三國と雪羽の傍にいてくれる妖怪だった。叔父夫婦の許で暮らすという新しい生活に早く馴染めたのも彼の存在が大きかった。
実を言えば、雪羽は自分を引き取った三國の事を密かに恐れていた。もちろん三國が父の末弟であり、数多くいる親族の一人である事は知っていた。しかし他の叔父たちと異なり顔を合わせる事が少なく、どんな妖なのかほとんど知らなかった。というよりも雷園寺家を出たあの日、雪羽はようやく三國があれこれ話すのを見聞きし、彼の性格を知ったという位だ。雪羽を護るためと言えど、穏やかな調子で話す父や叔父たちにすさまじい剣幕で食って掛かる三國の姿は恐怖しかなかった。
もちろん雪羽はそれを見て泣き叫ぶようなみっともない真似はしなかったけれど。あの時は自分が雷園寺家を出ねばならない事をきちんと心得ていた。それが弟妹達を護る唯一の方法である、と。
「雪羽。あいつらが何と言おうと俺は雪羽の味方だ」
半ば乱暴に三國から抱きすくめられても、雪羽はその言葉を信用できなかった。というよりも、自分が雷園寺家であるという事以外何も信じられない状況だった。
優しく穏やかで、それでいて強かったはずの母親は、あっさりと自分たちを置いて逝ってしまった。
父親は胡散臭い継母の言葉に従い、雪羽を手放す事を決めてしまった。
自分たちにあれやこれやとお菓子やおもちゃをくれて優しくしてくれたはずの親戚の大人たちは、冷めきった眼差しを与えるだけだった――そんな中で何を信じればいいのだろうか?
そうした心境だった雪羽を元気づけたのは、他ならぬ春嵐だった。彼が特段色々な事を働きかけた訳ではない。ただそこにいただけだ。時に雪羽の話を聞き、雪羽の行動を見守ってくれた。そんな春嵐に雪羽は心を開く事が出来た。落ち着いた物腰の彼は、雷園寺家にいた優しい使用人たちに雰囲気が似ていたのだ。
元気づけられた雪羽は、やがて三國を正式な保護者として認める事が出来た。三國も懐き始めた甥の事を喜び、そして雪羽に色々な事を教えてくれたのだ。
その中で雪羽が習得できたのは、奇しくも闘いの術だった。他の事――勉強やマネジメント術や諸々の難しい事だ――は殆ど身に着かなかったが、三國はともかく喜んだ。闘いを制する力こそが強さであり、妖怪として必要なものだと三國は教えてくれたのだ。
雪羽が雷園寺家の当主候補として、強さと闘う術を追い求めたのはそれからだった。三國は雪羽が強くなっていくのを見て喜んでくれた。血の気の多い野良妖怪たちを打ちのめして取り巻きとして従えるのを見てはよくやったと褒めてくれた。雪羽は知らず知らずのうちに若かった頃の三國の言動を再現していたのだ。だからこそ三國も喜んでいたに過ぎない。
その頃には雪羽は三國に全幅の信頼を置いていた。三國の言動が正しいと思い、周囲の妖怪たちが自分をどう思っているか気にしなかった。いや……実際には薄々解っていた。三國の周囲にいる妖怪たちの、雪羽に向ける眼差しや笑みに当惑の色が滲み始めている事に。強くなり三國の重臣のように振舞う雪羽を物憂げに見ていたのは春嵐だったはずだ。自分は愚かにも彼に励まされ彼を慕っていた事を忘れ、小うるさい世話係だと思って距離を置いていたのだ。それに聡いはずの春嵐が三國には強く意見できない事も見抜いていた。叔父貴が正しいというんだから俺のやっている事も正しいんだ。雪羽はそう思い続けていた。
しかしそれは正しくなかった。正しいと思い込んでいた道を進みながら、自分は正しくない方に進んでいたのだ。叔父から引き離された事で雪羽はようやくその事を思い知った。
強さだけ追い求めていてもどうにもならない事を思い知った。
単に才能があるだけの阿呆だと思っていた半妖の若者は、大変な努力でおのれの才能に磨きをかけていた。
その半妖は嫌味ったらしい輩だと思っていたけれど……実際は泣きたくなるほど良いやつだった。
――あ、駄目だ。また変な考え事に没頭しちゃったな。折角島崎先輩から電話を貰ったのに
シロウが足許に絡んでくるのを感じ取り、雪羽は水に濡れた犬のようにぶるっと頭を振るった。最近どうにも考え事が多くてしようがない。しかも明るい考え事ではなく、過去の事を悔んだり、先の事を悩んだりしてしまうのだ。前までは、叔父たちと一緒に暮らしていた時はそんな事は無かった。もちろん、本家にいる弟妹達の事を忘れた事は無かったけれど。
――間違えたとしても問題はないんだよ。間違えた所からやり直せば良いだけなんだからさ
雪羽が思い出したのは萩尾丸の言葉だった。悪たれ小僧に育った雪羽の教育係を担う萩尾丸の事は、雪羽も畏れていた。何もかもが自分どころか叔父の三國と較べても段違いだったのだから。妖怪としての強さも、格も、経験すらも。萩尾丸に逆らって暴れてやろうという気概など、彼の一瞥で砕け散った程である。
マトモな
※
雪羽は今暮らしている学生街を抜け、隣接する大理町まで足を運んでいた。天神様こと菅原道真を祀っている天満宮にお参りに行くためだ。
妖怪は邪悪なエネルギーで構成された存在であるから、神社や寺社に入る事は出来ない。人間たちの中にはこのように信じる者もいるが、これは全くの嘘、大嘘である。そもそも妖怪そのものと同じく、妖怪の保有する妖力に善悪は無い。心掛けや用途によって善悪のどちらかに転ぶに過ぎない。
また、神社や寺社に祀られている者たちと妖怪が対立しているという事もほとんどない。一般妖怪は普通に神社や寺社に足を運んでいる。むしろ神社などで働く事が名誉な事であると思われているくらいなのだ。だからこそ、妖狐たちは稲荷に仕える者を善狐と呼んで区別する事があるのだから。
雷獣もまた、妖怪の中では信心深い種族に当たる。特に雷神を崇拝する傾向が強く、雪羽もそんな雷獣の一匹だった。ちなみに菅原道真を信仰するのは叔父の影響であり、雷園寺家では別の雷神を崇拝していた。
黄金色に輝く五円玉を賽銭として投げ入れ、静かに祈祷する。目をつぶっている間、色々な考えが浮かんでは消えていき、きちんとした言葉にはならなかった。それでも何となく気分がすっきりとしたのだ。隣のシロウも尻尾を上げたまま機嫌が良さそうだ。
「それじゃ、帰りますか」
誰に言うでもなく呟くと、シロウが猫らしくニャア、と返事をしてくれた。昼過ぎの柔らかな日差しを浴びながら、雪羽とシロウの足取りは軽い物だった。
少し元気になったし、まだ昼間だし帰りはちょっと寄り道でもしていこうかな。雪羽もすっかり機嫌が良くなり、頭の中は楽しい計画でいっぱいになっていた。
そんな状態だったから、すぐ傍に誰かが近づいている事に気付かなかったのだ。
「あの、すみません……」
すぐ傍にいる存在に気付いたのは、その存在に声をかけられたからだった。雪羽はまず首を傾げ、それから軽く驚いた。相手は一見すると男の子に見えた。雪羽よりも明らかに年下の子供である。人間で言えばせいぜい小学校高学年か、ぎりぎり中学生くらいだろうか。
雪羽が驚いたのは、声をかけた少年が同族であると気付いたからだ。叔父に引き取られてから、雪羽は他の雷獣と顔を合わせた事がほとんど無かった。三國が主に雷獣以外の妖怪たちと交流があったからなのか、もっと他の理由があるからなのか定かではないが。
それにこの雷獣の子供を前に、初対面だけど見覚えがあるという相反する感覚を抱いていた。誰かに似ているというだけなのかもしれないが。
「俺に呼びかけたのかな。どうしたんだいボク」
雪羽は軽く身をかがめ、おのれの目線を少年のそれに合わせた。何となくであるが、本家にいる弟たちの事を思い出させる子だった。
「妹とはぐれてしまったんです。見ての通り、僕はここの住民ではありませんからね。それでお兄さんに一緒に探して欲しくて……」
「そうか。そう言う事ならお兄さんも協力しよう」
妹とはぐれた。この言葉に雪羽は即座に反応した。この幼い雷獣の戸惑いやどうにかせねばならないという気持ちは雪羽にも手に取るように解った。それはやはり――自分にも妹がいたからだ。
ありがとうございます。礼を述べる少年は既にべそをかきはじめていた。雪羽は何も言わなかったが、少年は眉を下げ、目許を拭う。
「ごめんなさい。お兄さんの前でみっともない姿を見せちゃって……僕はもっとしっかりしないといけないのに……ゆくゆくは雷園寺家の跡取りになるんだからって、お父様もお母様も言ってるのに」
雷園寺家の跡取り。予想だにせぬ言葉を前に雪羽は絶句した。それから、この少年を見た時に抱いた不思議な感覚が何だったのか答えが見えてしまった。
「……俺の、お兄さんの事はマシロとでも呼んでくれるかな。君の名前は?」
「僕は雷園寺時雨と言います。大阪にある雷園寺家の長男です」
――やはりそうだったのか。少年の名を聞いた雪羽は驚きながらも腑に落ちていた。心の中に生じる衝撃を前もって予想していたので、今回はそんなに驚かなかった。
雷園寺時雨。それは雷園寺雪羽の異母弟であり、継母が雪羽を追い出す決定打として利用した存在でもあった。
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