虚実まじえて兄弟「ごっこ」
雷園寺時雨。その存在は雪羽にとっておのれの
雷園寺雪羽の心境はしかし、意外にも穏やかなものだった。もちろん今でも実父と継母への憎悪や恨み、そして雷園寺家当主の座への執着は胸の中にある。とはいえそれとこれとは別だった。
いかな沸点の低い雪羽とて、おのれの想いを時雨にぶつけるのはお門違いだと解っていた。雷園寺家当主候補云々の話について、時雨はきっと何一つ知らないはずだ。何せ産まれて間もない赤ん坊に過ぎなかったのだから。大人のやり取りを見聞きしていたかどうかも怪しいし、見聞きしていたとしても憶えてはいないだろう。
それに今は、いずれ当主の座を争うであろう異母弟について考えている暇はなかった。はぐれたという時雨の妹――雪羽にとっても妹に当たる存在になる――を早く探し出さねばと気負っていたからだ。さらに言えば、この兄妹の両親に遭遇してしまうのではないか。そんな懸念もあった。
時雨については恨みや憎しみは無い。しかし、彼の父母――雪羽の実父と継母に当たるのだが――が相手ではそうは行かない。
ある種の最悪の事態が脳裏をよぎりもするが、雪羽はそれでも平静を装う事を選んだ。不用意に時雨を怖がらせ、困惑させても何もならないからだ。
そうして歩いているうちに、雪羽は気付けば時雨の手を握っていた。
「あ……」
時雨の手の感触に気付き、雪羽は小さく声を漏らした。勝手な事をしでかした、という気持ちがあったからだ。出会ったばかりの子供の手を何の断りもなしに握るなんて、それこそ不審者の所業ではないか、と。
雪羽は視線を落として時雨の顔を見やった。時雨の灰褐色の瞳には確かに驚きの色が浮かんでいる。
「ごめんね。つい……」
「僕は大丈夫ですよ、マシロさん」
時雨はそう言うと顔を赤らめつつも微笑んだ。雪羽の手を振り払う事は無かった。むしろそれどころか、力を込めて握り返してくれたくらいだ。
「僕も不安だったし、こうしてお兄さんみたいな
姐やや世話係。時雨の口から出てきた単語を耳にしても、雪羽は特段驚かなかった。雷園寺家には元々そうした使用人を大勢抱えている事を知っているからだ。雪羽はもちろん実の父母に養育されていたが、所謂姐ややじいやも何かと面倒を見てくれた事は覚えている。
それに三國の部下たちも、ある意味使用人に似た振る舞いを雪羽に対して見せてくれいていた訳だし。
「……マシロさんみたいなお兄さんがいたら良かったな」
「…………」
時雨の思いがけない言葉は、雪羽を困惑させるのに十二分すぎる物だった。世の中は皮肉に満ち満ちている。そう思えてならなかった。何しろ、マシロもとい雪羽は、他ならぬ時雨の兄なのだから。厳密には異母兄であるが、妖怪の社会ではそう珍しい事でもない。
時雨の言葉に共感したように、マシロは手を握り返すのがやっとだった。おのれの正体を明かすつもりはもちろん無い。繰り返すが雪羽は時雨には恨みはない。雷園寺家云々の話とは別に、もし時雨が生意気な事を言う悪ガキであったならば好感度は下がっていただろう。しかし時雨ははぐれた妹を探し、殊勝な態度を見せている。好ましく思う事はあれど何処を嫌うというのだろうか?
それに時雨との出会いは雪羽にとって本当に予想だにしないものだった。もちろん、雷園寺家当主候補の座をかけて、いずれは異母弟と相争う事になるのは知っていたけれど。
さらに言えば、雷園寺時雨が取り巻かれている状況も気になっていた。厳密には雪羽の実の弟妹達の状況であるが。三國に引き取られたあの日から、雪羽は一度も弟妹達に会えずにいる。しかし彼らが雷園寺家で平穏に暮らしていると信じて疑わなかった。弟妹達の安寧を護るために、雪羽は雷園寺家を出る事を選んだのだから。
だからこそ、長男だと言い張る時雨の言動も気になってもいた。雪羽の弟妹は、時雨の兄姉に当たるのだから。さりとて、この少年が自分をからかって欺いているなどとは思っていないし思いたくもない。
あのさ、時雨君……それとなく状況を聞き出そうと決意し、雪羽は声を絞り出した。情けないほどにおのれの声はかすれていた。
「さっき旅行に来ているって言ってたけど、お父さんとお母さんはいるのかな?」
「う、ううん……」
雪羽の問いに時雨は一瞬丸く目を見開き、それから首を振った。
「お父様もお母様もここにはいません。二人とも当主としての仕事があるので、僕たちの旅行には同行できなかったんです」
「そうだったんだね」
時雨の表情を見ながら、雪羽はしまったと密かに思った。時雨がうろたえたような、顔色をうかがうようなそぶりを見せたからだ。時雨の言葉に応じたおのれの声に、不機嫌なものがこもっていると思われたのかもしれない。もっとも、実際には雪羽の声に含まれていたのは不機嫌なものではない。そうした表現では生温い怨嗟と憤怒だった。やはりお前らには当主候補の仔と向き合う事が出来ないんだ。いや、向き合っていたとしても俺は認めないぞ。お前らの所業は決して忘れない。そんな考えが表情筋の裏で蠢いていたのだ。
「あ、でも松姉が一緒に付いて来てくれてるんで大丈夫ですよ! 姐やだからちょっと距離はあるけれど、それでも僕や妹に良くしてくれるし」
松姉か……時雨の口にした姐やの名を、雪羽は口の中で反芻していた。松姉と聞いても特にピンとこない。雪羽の知らぬ使用人なのかもしれないし、それはそれで妙な話でも何でもない。元々からして雷園寺家に仕える妖怪たちの数は多かった。ましてや、雪羽が雷園寺家を出てからもう三十年も経つのだ。丁稚奉公的に若い妖怪の多くは一時的に留まるだけなのだから、新旧の入れ替わりもいくらでも起きているはずだ。
時雨兄妹に同行している使用人について考察していた雪羽であったが、急にこの時雨は自分の弟なのだ、という考えがこみあげてきてしまった。姉のように慕っている妖怪を、名前にちなんで松姉と呼んでいる。ただそれだけの事に過ぎないのに。
「見た限りその姐やは見当たらないけれど……まさかはぐれたのは時雨君の方じゃないだろうね?」
「ち、違いますよっ!」
気付けば雪羽は意地の悪そうな笑みを浮かべていた。時雨はそれに臆する事なく正面から否定している。彼の威勢のいい姿は初めて見た。生意気だとか小憎らしいだとかそう言った感情は浮かばなかった。むしろ元気そうに見えて、一層時雨の事が好ましく思えたのだ。
「松姉と僕とで手分けして探してるんですよ! 深雪は、妹は気になった所があったらすぐに僕らから離れてふらふらし始めるんですから。
お父様やお母様の前ではちゃんと良い子にやってるのに、僕や松姉の前ではおてんばばっかりするんだから……」
時雨としては愚痴をこぼしているつもりなのかもしれない。しかし雪羽には幼い兄妹の楽しげな情景が浮かんでならなかった。やはり時雨と妹との関係を、かつてのおのれと弟妹達に投影しているのかもしれない。もっとも、弟妹達と一緒に暮らしていた雪羽は今ここにいる時雨よりもうんと幼かったが。
「手分けして探すっていうのを君と姐やのどっちが思いついたのかは俺には解らない。だけど君がこうして一人でウロウロしているのはあんまり良くないと思うけどなぁ……時雨君。君だって子供なんだよ。いかな妖怪と言えども、子供が一人でウロウロしていたら危ないじゃないか。
ましてや君は、見ず知らずの俺について行こうとしているじゃないか。俺が、その、悪い事を考えていたらどうするんだ」
「マシロさんは悪い事を考えてなんかいないでしょ?」
時雨の言葉は相変わらず無邪気なものだが、それ故に鋭く雪羽に突き刺さってきた。先のマシロのような兄が欲しい、という言葉と同じく、こちらの言葉にも皮肉や含みは一切ない。しかしだからこそ、その言葉の鋭利さが際立ったのだ。
「それにマシロさんは見ず知らずの妖じゃない気がするんです。何となく僕はマシロさんにずっと前に会って、昔から知ってる妖みたいに思えるんです。それでもしかしたら、マシロさんがお兄さんだったらって思った気がするんです」
時雨もまた戸惑っているのかもしれない。彼の言葉が堂々巡りめいているのを感じながら雪羽はそう思った。
やはりこの子は何も知らないんだ。雪羽は密かに確信した。
変な話をしてしまったから、困りましたよね? 気づかわしげに告げる時雨に対して、雪羽は首を振った。
「別に構わないよ時雨君。妖怪なんて奴はね、どいつもこいつも身勝手な連中ばかりなんだ。そんな妖怪たちの中にあって、時雨君はよく頑張ってると思うよ。跡取りとしてもお兄ちゃんとしてもね。
そんな風に頑張っている君なんだから、俺の事をお兄ちゃんに見立てて甘える事くらい別に何ともないさ」
この子はきっと甘えるのが下手なのだ。甘える事が弱みに繋がると思っているのだ。雪羽には時雨の当惑や思いが手に取るように解った。それは雪羽自身も跡取りであり、長男だったからに他ならない。源吾郎などは年長者の心の隙間に入り込んで取り入っているように見えた事もあったがそれは違った。源吾郎は末っ子であり、それ故に甘えるポイントを心得ていただけなのだ。
今日だけは俺の事をお兄さんだと思っていいからね。マシロとしてそんな発言をした雪羽は、身にまとっている上着のお陰で自分の本性が隠蔽されている事をありがたく思った。
何も知らない時雨には、自分が通りがかりの親切なお兄さんだと思って終われば良い。心の底から雪羽はそう思っていた。子供には知らなくても良い真実がある事、年長者がそれらを取捨選択すべきである事をぼんやりと思ってもいた。
それから雪羽は、保護者たる三國たちが苛烈な真実に触れて雪羽が傷つかないように心を砕いていた事を悟った。自分にその立場が回ってきた事を感じながら。
しかし雪羽がそうして心配りしている相手というのは、ゆくゆくは当主の座を争うであろう異母弟なのだ。誠に皮肉極まりない話と言っても過言では無かろう。
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