雷園寺家の怨霊噺

 時雨の兄に歩き始めたマシロこと雪羽は、自分の傍にいた猫又のシロウが姿を消している事に気付いた。シロウさん……雪羽の問いかけは空しく大気に吸い込まれ、時雨が不思議そうに首をかしげるだけだった。


「さっきまで猫と一緒にいたんだ。白い猫で、シロウさんって呼んでるんだけどね。一緒に暮らしている猫だから、一緒に散歩しようと思ってたのに……一体何処に行ったんだろう」


 時雨の妹を探しながらシロウも探すのは大変じゃないか。雪羽は内心ぼやき、ついで心の中で舌打ちしていた。もちろん、お行儀の良い時雨が一緒だから表向き笑みは絶やさぬままだけど。


「とりあえず姐やと合流しよう、な」

「はい、マシロ兄さん」


 ひとまず手を繋いだまま、雪羽と時雨は境内を後にした。玉砂利を踏むかすかな音が鼓膜を震わせる。雪羽は歩きながら物品の電流を読んでいた。もちろんすぐには見つかると思っていなかったし、めぼしい電流を見つけ出す事は出来なかったが。



 時雨君の暮らしをもっと教えて欲しいな。雪羽はごく自然に時雨に問いかけていた。妹の事で頭がいっぱいになっている時雨の緊張をほぐすとともに、雷園寺家の現状について探るためでもあった。

 そんな雪羽の思惑に時雨は気付いていないようだった。時雨は素直な子供であるし、雪羽は存外相手の心を探るのが得意なのだ。


「君は雷園寺家の長男で、両親や妹と暮らしているんだよね。でも他にも姐やとかじいやとかがいるんでしょ? その辺り、お兄ちゃんは気になるな」


 さりげない雪羽の言葉に、時雨は何の疑いもなく自分の家族の事を伝えてくれた。時雨には今回の旅行に同行する妹だけではなく、弟も一人存在する事、それこそ姐やとかじいやなどと言った使用人が親と共に教育係として接してくれる事を雪羽は知った。

 時雨は結局のところ、自分に兄姉がいるという話はしなかった。まさか弟妹達は――よろしくない想像が脳内で駆け巡りそうになったまさにその時、小首をかしげながら時雨が言い添えた。


「そう言えば、使用人とはちょっと違うけれどマシロ兄さんくらいの年恰好のひとたちがいるんです。だって聞かされているんですが……」

「親戚も一緒に暮らしているんだね。雷園寺家は名家みたいだし、使用人たちもいっぱいいるから、そりゃあ親戚が身を寄せていてもおかしくないよね。その親戚たちってどんなひと?」

「お父様の親戚だっていうお兄さんたちは三人いるんです。二人がお兄さんで、一人だけお姉さんです」

 

 実の弟妹達の安否を知った雪羽の心中は複雑だった。ひとまず本家にいて養育されているという事は喜ぶべきであろう。しかしその一方で、彼らの保護者に対する負の感情はいや増すばかりだった。

 雪羽の弟妹達が時雨のである。何とも大人らしい、狡猾な言い回しではないか。無論実の親子なのだから、親戚とか親族という言い方はある意味正しい。それに時雨も弟妹達も互いに面識があるのだろう。時雨の方には彼らが異母兄姉であるという認識は無さそうだけど。

 当主候補として育てている時雨に、がいると知られては都合が悪い。そのような考えが透けて見えるようだった。というよりも、先代当主だった雪羽たちの母親の存在を抹消したいだけなのかもしれない。もっとも、そうして維持する雷園寺家は既に雷園寺家ではないと雪羽は思っていた。自分の母とその血を継ぐ者が正しい系譜だと信じていたからだ。今の雷園寺家を支えているのは、平民上がりの冴えない雷獣の男と、不相応な野望に憑かれた分家の女に過ぎないのだから。

 やっぱり力を蓄えて、雷園寺家に巣食うまがい物たちを一掃しなければならない……思案に沈む雪羽は、繋いだ手の感触で我に返った。

 時雨はこちらを見上げていたが、彼もまた思案顔だった。何か言いたげな表情にも見えた。

 雪羽は慌てて笑みを作る。また自分の黒い感情が見えてしまったのではないかと内心気が気ではなかった。


「本当はお兄さんたちやお姉さんとも仲良くしたいんです。だけど中々上手くいかなくって……」


 大人びた口調ながらも、時雨の顔は明らかに寂寥の色で陰っていた。雪羽はすぐには何も言えなかった。思った事を発作的に口にすれば、おのれの境遇を悟られてしまう事が明らかだったからだ。

「親戚のお兄さんたちやお姉さん」が時雨と仲良くしようとしないのは当然の事であろう。母親が違うとはいえ彼らは兄弟なのだ。だというのに一方だけ当主候補・正妻の仔としてもてはやされ、自分たちは雷園寺家とは縁もゆかりもない居候として一からげにされているのだ。ましてや、正妻面している後妻は当主だった母親を謀殺したかもしれないのだ。弟妹達が時雨を良く思わないのは雪羽にもよく解かる。

――この子はきっと、現時点で既に二尾なのだろう。雪羽はそのように推察していた。尻尾を出しておらずとも、伝わってくる妖気で相手の妖力の大きさを推し量る事は、妖怪であればそう難しい事ではない。

 齢三十で二尾。それだけでも一定以上の才覚と妖力の持ち主であろうと雪羽は思った。もちろん雪羽よりは弱いだろうが、それはまた別の話である。何せ雪羽は物心ついた時には既に二尾であり、十五、六くらいの時に三尾になっていたのだから。

 種族によって尾が増えるペースは異なるが、雷獣の尻尾が増えるペースは奇しくも妖狐のそれに近かった。普通の個体は二尾になるまでに百年近くかかる。五、六十の若妖怪が二尾になるだけでも相当才能があると思われるくらいなのだ。まだ三十年しか生きていない時雨が既に二尾である。その事にきっと雷園寺家の連中はのぼせ上っているのかもしれない。

 だが、そうした事もまた、時雨が「親戚のお兄さんたち」と馴染めない理由に拍車をかけているに違いない。妖怪社会は強い妖怪が発言権を持ちがちだ。しかし強いだけで周囲が素直に従う訳ではない事を、雪羽はよく知っていた。

 その一方で、時雨が純粋に健気に思う気持ちも抱いていた。「親戚のお兄さんたち」を大人たちが半ばないがしろにしているであろう事は想像に難くない。しかし時雨はそうした思惑に迎合することなく、仲良くする道を模索しようとしているのだ。

 全くもって、あんなくそったれな連中からどうすればこんな良い子が生まれるものなのか。雪羽の脳裏にはそんな疑問さえ浮かぶ始末だ。

 そう言えば……雪羽が何も言えないままにいると、時雨が今再び口を開いた。何かを思い出したという風情であるが、その表情は昏いままだ。むしろ先程よりも陰っている。


「雷園寺家には恐ろしいお化けが出るかもしれないって、穂村お兄さんは言うんです……そのお化けは怨霊で、当主たちをいつか呪い殺すかもしれないって」

「怨霊だって! 雷園寺家にそんなのが出るのかい?」


 雪羽は思わず声を上げていた。雷園寺家の怨霊。弟の穂村が時雨に言い聞かせているというその話は、雪羽の心を大いにかき乱した。時雨が不安げに、そして気遣うような素振りを見せながらこちらを眺めている。怨霊の話を怖がっていると、素直に彼は思っているのだろう。


「怨霊の話は怖いし、あんまり穂村お兄さんには話してほしくないんです。穂村兄さんは本当の事みたいに話すけれど、多分僕を怖がらせようと思って作った話なのかもしれないんです。お父様もお母様も使用人たちも、そんな話は子供の作り話だって笑い飛ばすし……

 でも、その話を僕や深雪たちにした事がバレると、穂村兄さんは後で打たれるんです。それでも、穂村兄さんは……」

「雷園寺家には怨霊なんぞ出てこないよ!」


 気が付いた時には、雪羽は語気荒く時雨の言葉を遮っていた。時雨が驚いたように目を丸くしている。雷園寺家の怨霊の話はもう聞きたくなかった。穂村がどのような思いで異母弟にそんな話を吹き込んでいるかは想像がつく。それにしても折檻を受けても止めないとは。

 それに、雪羽や穂村たちがどう思おうと、雷園寺家に怨霊は出てこない。その事を雪羽は知っていた。もし怨霊がのなら、雷園寺家も雪羽も今とは違う暮らしをしているだろうから。


「ごめんなさい、怖くて気持ち悪い話ですよね。僕、マシロさんがお兄さんだと思って、つい……」

「別に構わないよ。俺は怨霊もお化けも怖くなんかないからさ」


 半ば委縮して謝罪する時雨に対し、雪羽は鼻を鳴らして返答した。妖怪たちの中にも幽霊や怨霊の類を恐れる者は存在する。不思議な力を持つ生物である妖怪と、死せる存在である霊とは別物だからだ。

 そして雪羽はと言うと、霊的なものは怖れていない。怖れる事が出来ないのだ。死せる霊魂が何かを成すところを、雪羽は見る事が出来なかったから。


「良いか時雨君。妖怪であれ何であれ、悪さをできるのは生きている時だけだ。死んでしまったらもう何もできないんだよ。悪い事も、良い事もな」


 この言葉は確かに時雨に向けた言葉だった。それとともに、おのれに言い聞かせる言葉でもあった。死せる者は無力だ。生きている者が何を思おうとも、彼らが応える事は特に無い。だから怨霊だの霊魂だのは生きている者の他愛のない幻影なのだ――雪羽は常々そう思っていた。


「それに時雨君。君はゆくゆくは雷園寺家の当主になるんだろう。まだ子供だから怖いものが多いのも仕方ないけれど……いるのかどうかも解らない怨霊の影に怖がっていてもしょうがないじゃないか」


 雷園寺家の当主。雪羽はこの言葉を使って時雨を励まそうと試みていた。雪羽自身が雷園寺家の当主という言葉に縋り、それでおのれを保ってきたからだ。幼い弟もそうだろうと信じて疑わなかったのだ。

 ところが委縮した時雨は、喜ぶどころか一層困惑の色を見せたのだ。


「マシロお兄さんもそんな事を言うの……? 僕、雷園寺家の当主にふさわしいのかどうか解らないのに……でも、お父様もお母様も雷園寺家の当主になるように立派に育ちなさいって言うし……本当に僕で良いのかな?」


――お前がそんなつもりなら、当主の座をこの俺に寄越せ。

 仄暗い情念が雪羽の内部で囁いた。その囁きに耳を傾けた雪羽は、穂村が吹聴し時雨が怯える雷園寺家の怨霊が何であるか悟ったのだ。雷園寺家の怨霊。それはきっとなのだ。

 雪羽の実弟である穂村は、もちろん先代当主たる母が非業の死を遂げたのを知っている。長男であり嫡男だった雪羽は放逐されたが、いずれは雷園寺家に舞い戻る。当主の座を簒奪さんだつし、先代当主の仇を討つために。

 そういう話ならば、時雨の父母や使用人たちが笑ってごまかし、後で吹聴する穂村を折檻するのも話が通る。

 所詮は誰も彼も生ける者を恐れているという事ではないか。


 しかしその一方で、死せる者の儚さが雪羽には哀しかった。いくら噂が立ち上ろうとも、真なる怨霊が登場する事が無いのを知っているからだ。

 やはり誰にも言っていない事であるが、雪羽は今でも実母に逢いたいと思う事がある。それこそ怨霊になっていたとしても、冥府で腐り果てた女神のようになっていたとしても、現れてくれればと思っている。

 それでも母の霊が雪羽の許に訪れた事はない。夢に見る事はあってもだ。そして仇だったはずの雷園寺家は今もぬくぬくと繁栄し続けている。母は妖怪としても強い存在だった。その母が怨霊となったならば、それこそ雷園寺家はとうに亡びていただろう。しかしそんな事が起きないのを、雪羽は知っている。

 怨霊なんぞ出てこない。怨霊などは怖くない――強がりめいた雪羽のその言葉には、言いようのない喪失感と悲哀が込められていたのだ。

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