第八幕 雷園寺雪羽の計略

有給休暇と狐の電話

「……くん、雷園寺君」

 

 雷園寺雪羽が目を覚ましたのは、間近で萩尾丸の声を耳にしたからだった。

 瞼を開けると佇立する萩尾丸が自分を見下ろしている。萩尾丸は既にスーツ姿で、これから出社するという風情だった。一方の雪羽は布団の間から顔と指先だけを出し、未だにベッドの上に横たわっている。


「見ての通り、僕はこれから出社するね。雷園寺君は今日はのんびり休みたまえ。有給消化もたまにはやらないといけないからね。ご飯も、朝と昼の分を用意しているから」


 にこやかな口調で萩尾丸は雪羽に話しかけていた。話しかけている体裁を取ってはいるもののその言葉は一方的な報告に過ぎない。食事の件はまぁ良い。しかし雪羽が今日有給を取るという事は初耳だ。初耳であり、他ならぬ雪羽自身の許しを得ていないではないか。


「ちょっと待って下さい、萩尾丸さん」


 雪羽は布団を跳ね飛ばしつつ半身を起こす。今まで寝ぼけていた雪羽の意識は既に覚醒していた。寝起きが良いのも寝付きが良いのも雷獣の切り替えの良さの恩恵によるものだ。


「有給を取るだなんて勝手に決めないでくださいよ。明日は休みたいなんて、昨夜僕が言いましたか?」

「確かに僕は昨夜、雷園寺君から明日は休みたいとかそう言う話は聞いてないねぇ。何せ食事とお風呂が済んだらすぐにベッドに直行して寝ちゃったんだからさ。

 昨日の言動はさておき、今日の雷園寺君はいつもよりも疲れ気味なんだ。君がそうして起きた所を見て、今日は休みだなって確信したよ」

「そんな、決めつけないでください!」


 自分の耳元で何かが爆ぜる音がした。気持ちが昂り思わず放電してしまったのだ。きっと青筋も浮かんでいるかもしれない。

 

「決めつけるも何も、なんだから仕方ないじゃないか」


 息巻く雪羽とは対照的に、あっけらかんとした調子で萩尾丸は言葉を紡いだ。


「いつもの雷園寺君ならば、僕が部屋に入ってきて声をかけるまで寝続けてるなんて事は無いじゃないか。雷園寺君、いつも朝は早いじゃないか。単に早起きするのが得意なのか、僕に寝顔を見られたくないのかは知らないけど。

 そんな君が今の今まで寝続けていたなんて、それだけでも普段と違う事なんだよ?」


 萩尾丸の言葉に雪羽は反論できなかった。ただただ萩尾丸を睨んで唇を咬むのみである。彼の言葉が真実であるのを、他ならぬ雪羽が良く知っていたためだ。

 雪羽の表情が揺らぐのを見ると、萩尾丸はやにわに表情を緩めた。それからベッドの横にあるサイドチェストの上に手をかざした。直後、何も置かれていなかったはずのサイドチェストの上に、ポイントカードや図書カードの類が何枚か出現していた。


「雷園寺君。別に休む事は恥ずかしい事でも何でもないんだよ。誰だってしんどい時とかはあるんだからさ。君にはそれが今日だったという話に過ぎないんだ。もう既に僕の方で有給の手続きは取っておくから気にしないで良いよ。きちんと説明しておくからね。

 島崎君だって、君の事を聞いてもからかったり馬鹿にしたりしないと思ってるよ。まぁ……万が一その事でからかってきたら、僕に相談すると良いよ」


 返事をしようとした雪羽だったが、その喉から漏れたのは吐息のような物だけだった。島崎君。萩尾丸の言葉に誘発されたのか、脳裏に源吾郎の姿がぼんやりと浮かんだ。雪羽が有給でずる休みした事について、源吾郎はからかったり詰ったりする事はないだろう。巧く説明できないが、そんな気がしてならなかった。

 そして何故か、源吾郎の事を思うと微かに胸が痛んだ。

 そんな雪羽の様子などお構いなしに萩尾丸は言葉を続ける。


「そんなわけで、今日は一日好きなように過ごすと良いよ。もちろん、羽目を外し過ぎたらいけないけれど、君も大分お利口さんになったみたいだから大丈夫だよね? 何なら外で遊びに行っても良いよ。図書館もその図書カードがあれば使えるし、買い物がしたければそこにあるポイントカードを持って行ったら良いからね」

「ありがとう、ございます」


 雪羽はのっそりと身を揺らし、サイドチェストに置かれたカード類に目をやる。雑貨屋や本屋、喫茶店の類のポイントカードがほとんどだった。ある意味萩尾丸らしいチョイスともいえる。


「それじゃあそろそろ僕も出るね」


 シロウさん。白くてふわふわしたかたまりが雪羽の足許にやって来たのは、萩尾丸がそう呼びかけた直後の事だった。

 ベッドの端に飛び乗ってきた白いかたまりは一匹の猫又である。フルネーム(?)は九十九シロウらしいのだが、萩尾丸からはもっぱらシロウさんと呼ばれる事が多い。

 三尾の猫又であるシロウは萩尾丸の屋敷に同居する妖怪であるが、実は萩尾丸の使い魔や部下ではないらしい。詳しい理由を雪羽も知らない。とはいえ猫又は妖狐や化け狸と異なりあくせく働く妖怪ではないので、居候として他の妖怪の許に居つく事も珍しくはないのだろうか。


「悪いけど今日は雷園寺君の傍にいてやってくれませんかね。シロウさんも色々と用事があるかもしれないんで申し訳ないですが」


 妙な丁寧な口調で依頼する萩尾丸に対し、シロウは尻尾を揺らして応じる。


「別に大丈夫ですよー。僕もまぁ、ご存じの通り暇やってますからぁ」


 独特の間延びした口調で応じるシロウに安心したような笑みを見せると、萩尾丸は本当に立ち去って行った。

 雪羽はにじり寄るシロウの背中を撫でながら壁掛け時計をちらと見やった。既に八時半を過ぎており、始業時間である九時まで三十分もない。どうやら萩尾丸はギリギリまで雪羽が起きるかどうか待っていてくれたらしい。

 恐らくは、今回は萩尾丸が転移術を使って研究センターに向かったのかもしれない。雪羽はぼんやりとそんな事を思った。



 スマホの着信が鳴り出したのは、遅い朝食を済ませた後の事だった。食欲はあったのだが、いかんせん食べるのに妙に時間がかかってしまったのだ。萩尾丸がそのさまを見ていれば、「やっぱり疲れていたんだよ、君は」と言ったであろう。

 誰からの電話だろうか。液晶の表示を見た雪羽は目を瞠った。島崎源吾郎からの着信だったのだ。

 一体何故島崎先輩が……? 一瞬戸惑った後、雪羽は電話を取った。もしかしたら、仕事の件で電話を寄越したのかもしれないと思ったからだ。雪羽は今は研究センターに所属しているも同然だ。であれば源吾郎とは同僚という関係にもなる訳だし。


「……もしもし、雷園寺だけど」

『もしもし島崎だよ。雷園寺君、今ちょっと大丈夫?』


 受話器越しの源吾郎の声には、明らかにこちらを気遣うような色がありありと浮かんでいる。仕事の事だろうか。そう思いつつ雪羽は頭を動かしていた。


「あー、うん。大丈夫だよ。俺も今さっき遅めの朝ご飯を終えてまったりしてたところだからさ。萩尾丸さんが用意してくれてたんだよ。

 それでどうしたんです? 仕事の件ですか?」

『あ、いや、別に仕事の方は大丈夫だよ。ただ……雷園寺君が大丈夫かなって思って電話をかけたんだ。アレだったら切るけれど』

「いや、別に俺は大丈夫だよ。有給だって消化しないといけないし、何か仕事かったるいわーって思ったから休んだだけさ」

『そっか……確かに社会人になったら有給ってあるもんなぁ。学校だったらしんどい時に休むのが普通だから、つい心配になっちゃって……』


 学校か……雪羽は胸の中でその単語を繰り返していた。人間として暮らしていた源吾郎は、度々雪羽に学校の話をしてくれた。また出社した時に面白い話をせがもうと密かに思っていたのだ。


「心配してくれてありがと。だけど本当に大丈夫だよ俺は。てか島崎先輩と話してたら元気が余計に出てきたぜ。

 それよりも先輩。先輩こそに時間を割いて良かったんですか?」

『時間を割くなんて大げさだなぁ……単に暇だったから電話をかけただけだよ。だから気にしないでくれよ』


 。源吾郎はその言葉を殊更に強調していた。しかし雪羽はそれがである事を見抜いていた。雪羽の鋭い聴覚は、源吾郎の背後で小鳥が羽ばたいたり跳ねたり啼いたりする微かな物音も拾っていたのだ。ホップという源吾郎の飼い鳥が音の主であろう。

 要するに、休憩の合間を縫って自室に戻り、そこからわざわざ電話をかけているという事だ。今は研究センターの居住区で暮らしている源吾郎であったが、休み時間に居住区に戻る事は殆どなかったのだから。あったとしてもわざわざ上司の許可を取っているのだ。


「先輩って本当に良いやつですね」

『ちょっと、急にどうしたんだよしんみりした声で……そんな、俺の事を良いやつだって言わないでくれよ。恥ずかしいからさ』


 雪羽と源吾郎はそれから二、三言葉を交わし、そこで通話を終了した。

 本当に良いやつですよね。その言葉を源吾郎がどう受け取ったのかは定かではない。しかし雪羽の本心である事に違いない。


 実を言えば、元々雪羽は源吾郎の事を毛嫌いしていた。烈しい憎悪を抱いていた訳ではないが、いけ好かないやつと思っていたのはまごう事なき事実である。

 人間の血も多分に混ざった半妖であるという存在の癖に、玉藻御前の末裔であるというだけで大人妖怪にもてはやされているのが気に喰わなかった。

 人間として暮らせるようにと親族――実の父母だけではなく、実の兄姉や叔父たちもいた――達に教育されていたにもかかわらず、「ハーレムと世界最強を目指す」というくだらない理由で妖怪の世界に飛び込んだ事も気に喰わなかった。

 実の父母や兄姉たちからまっとうに愛されて育ったはずなのに、彼らの期待を裏切って勝手気ままに生きようとするその考えが、雪羽にはどうにも我慢できなかったのだ。しかもそんな身勝手な輩であるのに、紅藤を筆頭とした上司から可愛がられていると聞いて心がざわついた。大人が求めるものに応じるという義務を果たしていないのにぬけぬけとを受け入れてやがるのか、と。

 雪羽にとって、愛情というのはただ黙って受け取れるものではなかった。相手――親や保護者である事が多いだろうか――の期待に応じた時に与えられる報酬であるのだと、自身の経験からそう思っていた。雪羽はを得るために色々と頑張ってきた。叔父に対しては言うに及ばず、従えているはずの取り巻きや女の子たちにもそうした態度で接してきた。

 雪羽はだから、源吾郎と直接相まみえる事を密かに望んでいた。親兄姉の期待や思いを踏みにじり、好き放題生きる愚かな半妖が、想像通りの嫌な奴であれば良いと、切望していた時もあった。厭な奴であると嘲弄すれば溜飲が下ると思っていたのだ。

 しかしそうした源吾郎への仄暗い感情が、いわれなき妄想に過ぎなかった。雪羽は皮肉にも、源吾郎に実際に接してみてその事を悟ったのだ。何しろ源吾郎に抱いていた悪感情の大半は、雪羽の一方的な羨望や嫉妬に起因するものだったのだから。

 要するに、雪羽は源吾郎の境遇が素直に羨ましかったのだ。実の父母が健在で、保護者以外に構ってくれる親族という存在がいるという恵まれた境遇が。

 そしてそうした事を冷静に分析できるのも、源吾郎が実際には嫌な奴では無かったからなのだろう。そりゃあもちろん源吾郎にも改善すべきところや欠点はあるだろう。しかし実直で色々と解りやすい彼の気質には、雪羽も素直に好感を抱いていたのだ。


「島崎君、雷園寺君の事を心配してたねぇ」


 シロウが雪羽の膝の上に乗り、ぬるぬると動いている。尻尾の付け根辺りを軽く叩きながら雪羽は頷いた。


「やっぱり島崎君も昨日の事を気にしてるんだろうなぁ……らしいと言えばらしいよ。だけど俺、島崎君と電話して元気がもらえた気がするわ」


 萩尾丸の提案通り、昼からちょっと散歩でもしようか。雪羽は密かにそんな事を思い始めていた。

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