若妖怪 平穏あじわい社交の準備
「世の中平和が一番やなぁ」
昼過ぎの研究センターの一室で、源吾郎がそんな事を呟いていた。昼休憩が終わって小一時間ほど経っている。次の中休みまでまだ時間はあるし、昼食が程よく消化されて眠気を誘う時間帯でもある。ついでに言えば雪羽たちを監督する大人妖怪たちもたまたま席を外している所だった。
だからこそ、源吾郎も若干油断してそんな事を言ったのかもしれない。のんびりした気質を持ち合わせる源吾郎であるが、基本的には真面目で空気を読むのもそこそこ上手い。新入社員という身分であるから、上司や先輩たちの前では無駄口を叩かないように気を配っている素振りさえあった。しかし今は雪羽と源吾郎しかこの場にいない。だからこそ仕事とは無関係な事を口にしても大丈夫だと判断したのだろう。
もっとも雪羽もそんなに理屈っぽい事を考えていた訳ではない。おっさんみたいな口調で放たれた源吾郎の言葉に、雪羽はただ無邪気に笑っていた。
「雷園寺君。何で笑うのさ」
案の定というべきか、源吾郎がこちらを向いて問いかけた。若干怒ったような、むしろ困ったような表情を浮かべている。その表情を見た雪羽は不意に嬉しさがこみあげてきた。いつもの源吾郎だ。そんな事を思っていた。
「いやさ、平和が一番だなんて事を先輩が言うのが面白くってさ……島崎先輩は、本当は最強になって妖怪たちのトップに君臨したいんでしょ? これから色んな妖怪と闘って一番強いって証明しないといけないのかもしれないのに」
「平和は争いの後に作り上げる物だって、昔兄上から教えてもらった事があるんだよ、雷園寺君」
からかい半分の雪羽の言葉に、源吾郎は即座に言い返す。真面目さを装いつつも若干ドヤ顔気味なのがやはり彼らしい。
雪羽もうっすらながら知っている。源吾郎が玉藻御前に憧れて野望に取り憑かれている事を。人間として育つように教育されたにもかかわらず妖怪としてここにいる事も。野望とは裏腹に実際にはひどく穏和で平和主義な気質である事すらも。
最強の妖怪として頂点に立つ事と、争いごとを好まず平和を好む事は源吾郎の中では矛盾なく成立しているのだろう。兄弟喧嘩も知らず、人間として暮らしていた時も特に問題事を起こさず暮らしていたというのだから。
それに雪羽自身、源吾郎の案外平和を愛する気質は好ましく思ってもいた。彼なりに雪羽に対して親愛の情を示すのは、そうした性質によるものだろうから。
そう思っている間にも源吾郎は言葉を続けた。
「それにだな、雷園寺君だって色々な事が落ち着いて良かったって内心では思ってるだろうに。弟さんたちはもう普段通りの暮らしに戻ってるだろうけどさ、俺も雷園寺君もちょっと前まで大変だったじゃないか。体力も妖力もあるからすぐに退院できたみたいだけど、その後は野次馬とかゴシップ好きの連中に囲まれたりしてさ……その事を思えば、平和な方が良いじゃないか」
じっとりとした源吾郎の視線に雪羽は僅かに頷く。弟妹達の事を言われると雪羽は弱かった。彼は弟妹達――同父母弟妹であれ異母弟妹であれ――の平穏な暮らしを何より望んでいたのだから。それに、源吾郎がそのような事を言うのも無理からぬ話だと知っている。
雷園寺時雨が拉致された事件からはや三週間。未だに慌ただしいながらも日々の暮らしは雪羽たちの許に戻り始めてもいた。結局のところ、雪羽は入院三日で退院できた。割合重傷だったものの、妖力が多いために回復が早かったためだ。退院後しばらくは三國の許に返され、そこから研究センターに通う日々が一週間ほど続いた。今は再び教育係である萩尾丸の許に戻っている。表面上は今まで通りの日々になっていた。
死者を出さずに事件は解決したし、犯人は種族を問わず然るべき処罰を受ける事と相成った。とはいえ、事件の影響はあちこちで尾を引いていた。雷園寺家も雉鶏精一派も。
雪羽も、事件の影響を色濃く受けた事は言うまでもない。退院する前から妖怪警察の面々から事情聴取を受け、彼らが退いたかと思うと妖怪社会のマスコミや記者に面白おかしく問いかけられる始末である。
ダメ押しとばかりに工場に勤める工員たちも事件解決の話を聞き出そうと雪羽や源吾郎に群がって来てもいた。雷園寺時雨の拉致事件は、実は解決するまでは情報は秘匿されていた。下手に情報がリークして時雨たちの生命を脅かしてはならないからだろう。しかし時雨たちが保護されて安全が確保されると状況は一転した。雷園寺家の次期当主が拉致され、それを異母兄である雪羽の勇敢な動きで救出したという出来事は白日の下に明るみになってしまったのだ。既に事後と言えども、この事件が多くの一般妖怪や術者の人間が関心を寄せたのも致し方ない話だった。雷園寺家は関西の雷獣一族の中では名門として知られていたためだ。また、異母兄弟という雪羽たちの関係性やその背後で蠢く後継者争いなどもまた、暇な庶民連中の関心を集める助けになってもいた。
当主の座を得られるという甘言を退け、ライバルになる筈の異母弟を助けた英雄。世間的に雪羽はそう思われているらしかったが、雪羽としては割合どうでも良い事だった。時雨たちを……弟妹達を死なせたくない。そうした個人的な思いで雪羽は動いただけに過ぎないのだから。雷園寺家次期当主の野望を抱えているとはいえ、それと時雨の救出を結び付ける群衆の動きに雪羽は内心辟易していた。
それに何も知らない外野たちがああだこうだ言っているのに耳を傾ける余裕は、正直な所雪羽は持ち合わせていなかった。雷園寺家との正式な話し合いに向けて、雪羽たちも準備しなければならないからだ。
雷園寺雪羽の身柄を確保している事を担保とし、雷園寺家とのパイプを構築する。そのような考えを打ち出したのは、幹部である灰高と萩尾丸だった。彼らにとっても、雪羽が雷園寺家の次期当主になる方が都合が良いのだ。雪羽は既に雉鶏精一派の傘下にある。その彼が雷園寺家の当主になれば、雷園寺家もまた自動的に雉鶏精一派の息がかかった勢力になるためだ。
そして今回の事件もまた、雪羽を次期当主に推し進めるのに有利な材料になると萩尾丸たちは判断していた。発端から事件解決に至るまでの全てを精査すれば、雷園寺家の次期当主にふさわしいのは時雨では無くて雪羽であるとゴリ押しが出来る。萩尾丸たちはそのように考えているらしかった。
そもそも時雨が拉致されたのは、安全な本家から無断で(しかも事態が発覚しないように幻術を用いて多くの妖怪たちを混乱させた)家出し、外を出歩いていたからである。次期当主として婚約者さえ既に決まっている時雨の暮らしは確かに窮屈な物であろう。さりとて、その現実から目を逸らし従者と共謀して逃避行を行うというのは次期当主の器とは言えない行動であるらしい。
一方の雪羽は、私利私欲を忘れある意味因縁の相手である時雨を助けようと尽力した。妖力は護符のお陰で戻ったものの、それでも妖力の過半数を消費して時雨の生命を救った事には変わりない。その行為は勇敢で誇らしい物である言っても過言ではない。特に勇猛さを誇る雷獣であれば喜ぶ内容に違いない――萩尾丸などは、具体的にそのような事を思っているらしかった。
雷園寺家と交渉するにあたり、萩尾丸たちがそう言った内容で相手に揺さぶりをかける。正直な所雪羽にしてみれば気持ちのいい話では無かった。やっている事や吹聴しようとする話の内容はそれこそマスゴミ連中と変わらないのだから。
しかしそれでも萩尾丸たちの動きに逆らえない事も雪羽は知っていた。雪羽自身がどう思っていたとしても、所詮は経験の浅い若妖怪に過ぎない。保護者たる三國さえ大人しく従う他ない大妖怪相手に、雪羽が逆らえる訳がなかった。それに雷園寺家の次期当主になるというのは雪羽の願いでもある。いびつな形とはいえ乗っかるのは悪い話でもないと言い聞かせていた。
それに雪羽には自分の事以外にやりたい事、やらなければならない事を抱えてもいた。狸娘の松子の処遇についてである。彼女は拉致事件に巻き込まれた被害者に違いないが、時雨たちを引率していたという事で咎められる立場にもあったのだ。所謂監督不行き届きの咎があると。犯行グループの集団に騙されなければ拉致されなかったはず。そもそも時雨の脱走計画に乗らなければ恐ろしい事件に巻き込まれなかったのだ、と。
松子にばかり責任を押し付けようとする当局の態度はどうにかならないのか。雪羽は密かにそう思っていた。彼女にも問題はあったのかもしれない。しかしあの日までうまく立ち回ってくれたからこそ、弟妹達の生命は繋がったのだ。松子を罰しようとする妖怪たちは何も知らないし何も見ていないのだ。必死の思いをこらえて色狂いのメスになり切った彼女の想いも、時雨たちを抱えて身を隠し、どうにか護り切った姿も。雪羽はだから、彼女の罪を軽くするために嘆願書をしたためてもいた。雪羽はあの時現場にいた妖怪の一人である。だから松子が何を感じ、なぜあのように振舞ったのかが解る。時雨たちを生かすために動いていた事も知っているのだから。
萩尾丸の側近である化け狸、今宮紅葉が松子や雪羽の嘆願書の件に好意的なのがまだ救いだった。彼女によると、松子は徳島の蚊帳釣り狸の血を引いており、そこそこ才覚のある化け狸であるという事らしい。雪羽や源吾郎と比較はできないが、それでもある程度妖力を持っていたからこそ窮地を乗り切れたと、紅葉は冷静に考察していた。
雪羽はあれこれ考えていたのを中断し、今一度源吾郎に向き直る。この度の事件に巻き込まれ、色々と苦労したのは源吾郎も同じ事だった。
そして源吾郎は、雪羽が雷園寺家の次期当主にふさわしい存在である事を示すために利用されようとしている。その事を思うと急に申し訳なくなってきた。
「ん、どうしたの雷園寺君。急にごめんなんて言ってさ」
源吾郎が不思議そうに目を丸くする。雪羽は思っていた事を口にしてしまったらしい。
「いやさ……今度先輩も俺と一緒に雷園寺家に行くでしょ? よく考えなくても、先輩も色々と利用されている感じがして申し訳ないなって思ってさ。まぁ確かに九尾の狐みたいな大妖怪がバックに付いているっていうのはインパクトがあると思うよ。でも、俺はそういう事で先輩と親しくしているんじゃあないし」
この度の救出作戦には源吾郎も雪羽側の存在として参加していた。奇しくも同僚という立場になっていた訳であるが、やはり大妖怪の子孫である源吾郎が、雪羽の仲間にいるという事を印象付けたいという戦略があるにはあった。
その事について源吾郎は何も言わないが、内心面白く思ってはいないだろうと雪羽は考えていた。穏和な言動の目立つ源吾郎であるが、その実プライドが高く気位の高い若者である事は雪羽も知っている。玉藻御前の子孫である。その看板を背負っている事への誇りと矜持を抱いている事もだ。元より雪羽は源吾郎が自分に平伏する事は有り得ないと知っていた。戦闘訓練を盛んに行っていたあの時、負け戦を重ねつつもなお、源吾郎の闘志は潰えなかったのだから。
源吾郎はしかし、微笑んだまま静かに首を振った。
「良いよ雷園寺君。俺、その事は気にしてないからさ。俺の血統を利用しようとしているのは上の判断だって俺も判ってるし、大妖怪の子孫だったらそういう事も往々にしてあるだろうって思ってるからさ。
それに三國さんと叔父たちもそもそも交流があったみたいだし、そう思えば俺たちも何だかんだで交流があるのは不自然じゃないと思うよ」
一度言葉を切ると、源吾郎はいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「最初は仕事上の付き合いだからしゃあないなって思ってたんだ。だけど、雷園寺君と気が合うって思うのは嘘じゃないよ」
俺も。雪羽は半ば反射的に応じていた。短い言葉ながらも色々な思いを込めている。それが伝われば良いと思っていた。
※
業者に作ってもらった名刺が源吾郎と雪羽の許に届いたのは夕刻になってからの事だった。雷園寺家への出張に間に合わせて作ったのは言うまでもない。もちろん、今後出張や外回りに使う事も考慮しての事だった。
「名刺交換のやり方もこれから教えるけれど、その前に記載内容に間違いが無いか確認するようにね」
名刺交換のやり方について教授するのは萩尾丸の役割だった。やはり幹部であり営業マン的な業務をこなす彼であるから、名刺の扱いには慣れているのだろう。こなれた社会妖なら青松丸も該当するとは思うのだが。
ちなみに、源吾郎と雪羽では新たに名刺が作られた理由は大きく異なっている。源吾郎は新入社員だったからまだ自分の名刺が無かったのだ。一方雪羽は三國の許で人事部長相当の役職を持っていた。従ってその時の名刺もあるのだが……萩尾丸の許で再教育されるに当たり、三國での職場の地位は剥奪されていたのだ。それ故にかつての名刺も使い物にならず、新たに作り直しと相成ったのだ。
「すごい、名刺があるだけで
源吾郎はケースに入った名刺を一枚取り出してあからさまにはしゃいでいる。年かさの兄姉がいるから名刺の事は知っているはずだ。それでも妖生初の自分の名刺を前に、ちょっと興奮したのかもしれない。
雪羽も自分のケースに視線を落とす。三國の許で使っていたカラフルでギラギラしたデザインとは程遠い、殺風景と言えるほどにシンプルな名刺だ。職場名・名前・電話番号・メールアドレスが明朝体で記載された、白地の縦長の名刺である。
源吾郎に倣って雪羽も一枚取り出す。「雷園寺 雪羽」という記載の上に何かが書かれてある。役職の無い源吾郎には記載されていない物だった。
しかし雪羽の名刺に記されていたのは役職ではない。「研修生」という文字がフルネームのすぐ上に記されていたのだ。しかも所属は萩尾丸の組織ではなく紅藤の研究センターの方だ。
確か俺の身柄って萩尾丸さんが預かってるんじゃあなかったっけ。そう思いながら雪羽は質問した。
「萩尾丸さん。僕の、研修生って言うのは何でしょうか?」
「雷園寺君は今、再教育の一環で研究センターで働いているでしょ? 年齢的にまだ若いし、新入社員とはちょっと違うから研修生って事にしているんだ」
萩尾丸の返答に源吾郎が首を傾げ、臆せず質問を投げかける。
「確かあの時雷園寺君は萩尾丸先輩の秘書って言う扱いだって聞いたんですが」
「紅藤様がね、雷園寺君の身柄は研究センターに入れて欲しいって仰ったんだ。ははは、あのお方は僕の上司に当たる訳だから、あのお方のワガママは聞き入れる他ないんだよ」
紅藤の発言をワガママと言いつつも、萩尾丸は何故か面白そうに笑っている。
「島崎君に雷園寺君。この際だから言っておくよ。紅藤様は実は雷園寺君に研究職の適性があるとお考えなんだ。雷園寺君は幾何とか電気工学とかそっちの方面に強くて……所謂理系肌みたいだしね。もちろん、島崎君を自分の配下として、研究員として迎え入れたのは事実さ。だけど他に適性のある妖を部下にしたいと思うのは人情なんじゃないかな」
「理系かぁ……確かに言われてみれば……」
小声で呟く源吾郎の顔には、驚きと若干の悔しさが見え隠れしているようだった。
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