外道祓うは化鳥の仕業

「そうだなぁ。あすこの半妖とか雷獣の小僧とかが喰いでがありそうだな」


 芦屋川満から少し距離を置いた犬神は、臆面もなくそう言ってのけたのだ。自ら噛み裂いた白狐の方には既に妖怪らが群がっているが、そっちはもはや眼中にないらしい。

――こいつ、やっぱり俺と雷園寺の事を狙っていたのか。

 源吾郎は静かに確信した。威嚇する猫のように尻尾の毛を逆立てるも、そこからどうすればいいのか見当がつかない。未だ怯える雪羽の傍に近付いた方が良いのか、それとも狙われているからくっつかない方が良いのか……思考が上手くまとまらない。やはり時間がゆっくり過ぎているような感覚を、源吾郎は未だに抱えていた。苅藻の警告があったのに、雪羽がその存在を示唆してくれたのに、気構えが出来ていなかったのだ。

 もしかすると、腹を裂かれた妖狐を見て、血が飛ぶのを見て怯んでしまったというのだろうか。相手は初対面で、何となれば兄である庄三郎を襲っていたかもしれないというのに。


「半妖と言うのは俺の事かね、犬神殿」


 未だ四つん這いでおろおろする源吾郎の頭上に言葉が降りかかる。苅藻だった。すっと伸びた足が影法師のようであり、しかし何故か源吾郎を庇いだてするように佇んでいるようにも見えた。

 自分たちでどうにかできるだろう。そう言ったはずの叔父が、自分のすぐ傍に居たのだ。


「はははっ。犬神殿。狙うならこの俺を狙え。雷獣の子供ももう一人の半妖も喰いでなんてある訳が無い。あんなのは妖力ばかり多いだけの雑魚なんだからな」


 苅藻の言葉を聞いているうちに、何かが源吾郎のふくらはぎに当たった。足先で突かれたのかと思ったが、どうやらそうでもないらしい。だが、源吾郎は急に我に返った気持ちになり、手足に力が戻った。苅藻の意図は読めていた。俺に構わず逃げろ。雪羽君と共に安全を確保しろ。言葉に出さず、叔父はそのように伝えたのだ。

 急に立ち上がって動いても怪しまれる。そう思った源吾郎は、ひとまず四つん這いのまま歩を進めた。白い床は鮮血を吸わず、そのせいか生臭く鉄錆の臭いが未だに濃い。血の跡を避けつつも、源吾郎が向かったのは梅園幸夫の、雪羽の許だった。雪羽を元気づけられる。そんなおこがましい事を思った訳でもない。だが二人なら持ちこたえられそうな気がした。

 実際に護るべき庄三郎の許に向かわなかったのは、彼が結界の外側にいる事を把握していたからだ。苅藻や他の妖怪たちは、白狐が襲撃してきた瞬間に結界を作り、妖怪や関与している人間たちだけをその中に閉じ込めたという。人間たちに騒ぎをもたらさず、尚且つ白狐を確実に捕縛するために。

 源吾郎の兄である庄三郎はもちろん半妖であるが、彼もまた人間と見做されて結界から弾かれたのだろう。但し彼にはあの暗示は聞いていないらしく、こちらに不安げな視線を送っていた。のみならず、結界に干渉しようと手を伸ばしている始末だった。

 兄上こそ、どうしてそれこそ逃げないんだ。雪羽が僅かに安堵したのを見ながら、源吾郎はそう思うのがやっとだった。


「……はぁ、三大悪妖怪の孫で蠱毒とも縁のあるお前さんも、中々どうしてつまらん事を言うもんだなぁ」


 瞬間、苅藻の許から矢のような物が飛び出してきた。攻撃術用の護符を使ったのだと源吾郎は思った。苅藻は半妖であるものの、術者であるから攻撃用の護符を使う事にもためらいはないのだ。何せ訓練やお膳立てされた戦闘ばかりではないのだ。殺らなければ殺られる。そうした状況がある事も苅藻は源吾郎以上に知っている。

 だからこそ、苅藻は源吾郎を弟子に取らなかった訳でもあるのだが。源吾郎は、妹のいちかと違って非情に徹する事が出来ない、と。

 苅藻の放った矢は犬神を貫く事は無かった。犬神は悠然と身震いしただけで、件の矢は腐蝕し、ボロボロの灰になって崩れ落ちただけだった。忌々しげな苅藻の舌打ちと、私たちも加勢する、と気炎を上げる若妖怪の叫び声が耳に入り込んできた。

 その一方で、ほとんど力のない一尾たちの数名が、結界をすり抜けて何処かへ逃亡する姿も見えた。犬神と言う存在を目の当たりにして逃げたのだろう。神聖な存在とされる稲荷の眷属と言えども、犬を怖れる狐の本能には抗えなかったのかもしれない。


「――だがまぁ、あの女狐の子孫と言うだけあって息をするように嘘をするもんだなぁ。本当はお前こそが雑魚で、もう一人の半妖どころかあの雷獣よりも弱い癖に」

「嘘だ……」


 犬神の言葉に雪羽が何故か呟いていた。苅藻が源吾郎や雪羽より弱い。その言葉は源吾郎にも信じられなかった。妖力の保有量では、確かに源吾郎の方が既に苅藻よりも上回っているのは事実である。何せ四尾と三尾なのだから。だがそれでも、同じ三尾の雪羽とは保有量的にも互角だと思っていたのだ。三國との関係性も加味した上で、犬神の言葉は雪羽にはショッキングだったのだろう。

 もちろん強い弱いは妖力の保有量の話であって、実際に勝負したとなれば苅藻が確実に勝利するであろう事は言うまでもないが。


「しかもお前、身内の半妖と雷獣小僧を助けるためにそんな嘘をついたんだろう。解るぜぇ~、お前の心の動きはよぉ」


 犬神はそう言うとぐっと身構えた。残念だったな、と言いながら。


「犬神は確かに常に飢えている。獲物を求めて生き汚く蠢いているとでも思っているんだろう。だがな、俺とて何を順番に食べたいかを決める権利はある筈さ。

 はははっ、半妖のオッサンよ、てめぇも喰われたければきちんと喰ってやるさ。てめぇもてめぇで九尾の女狐の孫でありながら、蠱毒とも縁が深い珍しいやつだからな。だが、そっちの半妖と雷獣を喰うのが先だ。その方がてめぇも旨味が増しそうだもんなぁ……はははっ、そこで無能な仲間と共に指を咥えて待っておれ!」


 源吾郎たちの周囲で狐狸妖怪が吹っ飛ぶのが見えた。若妖怪の数名が、源吾郎と雪羽を護るように取り囲んでいる事に今気づいた。視野狭窄が極まって、源吾郎は犬神しか見えていなかったのだ。


「に、逃げるんだ、島崎君に雷園寺君……」

「俺らに構うな! 俺らは仕事でやってるが、君らは……」

「ここで逃げる訳ねぇだろうが、このドサンピン共が!」


 ここであろう事か雪羽が吠えたのだ。ギリギリの所で変化は保っているが、それでも銀色の三尾が露わになっていた。


「おい犬っころ。お前は一体どういう了見なんだ! 叶いもしない願いを叶えるなんてちらつかせた挙句、無関係の人間とか狐を大勢巻き込みやがって……怨念なんぞわざわざこしらえなくても、犬神様なら嗅ぎ付けて見つけ出す事くらい出来るだろうが! 駄犬は駄犬らしく分を弁えろ。ついでに苅藻さんに変な言いがかりと付けやがって。訴えられても知らんからな」

「雷園寺……」


 源吾郎もまた尻尾を伸ばし、雪羽をなだめようとした。放出した妖気はピリピリしており、傍に居るだけでもしびれを感じる物だった。飛ばされた狐狸妖怪たちのダメージは大した事ではないらしく、体勢を立て直してやはり源吾郎たちの脇を固めている。


「雷獣の小僧。お前も中々旨味のありそうなやつだな。他の有象無象とはやはり違う」


 犬神はそう言って口許を長い舌で舐めている。


「叶いもしない願いか……それに縋る愚かさを糾弾できるご身分なのかい雷獣君よ? 絶望の果てに、邪な存在におのれの存在を売り渡してでも真の願いを叶えて欲しい。てめぇが生まれてこの方一度もそう思わなかったとは言わせんぞ。はははっ。俺には解るんだよ。はっきり見えるんだよ」


 雪羽はぐぅ、と唸ったきり何も言わなかった。俯いて目を伏せ、心臓の上を右手で掴みながら。犬神の口撃は雪羽の急所を容赦なく突いたのが源吾郎には解っていた。

 雷園寺雪羽は、雷園寺家の次期当主の座を得る事が野望であると公言している。しかしそれは彼の真の願いではない。彼の真の願いは……雷園寺家の先代当主に、早世した実母にもう一度会う事なのだ。そんな話はもちろん源吾郎は聞かされていない。それでもその結論を類推する事は容易かった。


「それに俺が言った事は、そこの半妖連中が蠱毒の因果とは逃れられないと言った事は言いがかりでも出まかせでもないんだぞ。その辺も俺にははっきり見えるんだからな。皮肉だな小僧。蠱毒で親を殺されたてめぇが、身内同士で喰い合いを繰り返し蠱毒を錬成していたような連中と親しくなるとはなぁ」


 犬神の言葉に、源吾郎も絶句するほかなかった。自身も蠱毒に関与している。母方の祖父の系譜について、他ならぬ犬神に言い当てられてしまったのだから。何もなければ誰にも言わなかった事だというのに。特に――蠱毒によって実母が死に異母弟が殺されかけた雪羽には。


「まぁ良い。久々に顕現したせいかちと疲れてきたしなぁ。そろそろ腹ごなしと洒落込むとするか。てめぇら安心しろ。憎しみも怨みも悲しみも愛情も、俺の中に入ればぜーんぶ一緒くたになるんだからな。怖れる事は無い」

「畜生! この外道が!」

「畜生に外道とは誉め言葉だなぁ。まぁ、俺たちは六道輪廻を外れ、現世を彷徨う定めにあるんだがな。他のものが俺を殺そうとも、生半可な輩では俺の骸に取り込まれるだけだ。歩く地獄とはまさにこの俺、犬神様のための言葉だろうな」


 犬神はそう言ってにたりと笑い、源吾郎の許に一歩、歩を進めた。


「ぐっ……な、何故だ……!」


 ところが犬神はそのまま源吾郎たちの許に向かってくる事は無かった。歩いた瞬間によろめき、その場にべちゃりと崩れるように倒れたからだ。何が起きたのだ、まさか罠なのか。周囲は驚きと共に犬神の挙動を窺っていた。源吾郎と雪羽、周囲の若妖怪は言うに及ばず、苅藻でさえその面に驚きの色が浮かんでいるではないか。


「神の名を冠していても、所詮は祟り神・邪神に過ぎないって事がはっきりしちゃったね。全く、舐めプなんかしているから、足許をすくわれるんだよ」


 すぐ傍で若者の声が響く。ややフランクで、それでいて相手を心底見下したような声音だった。犬神の姿を見た源吾郎と、その声を聞いた雪羽は互いに顔を見合わせた。倒れ込んだ犬神は、崩れ落ちた先から黒っぽいゲル状のものをまき散らしている。怨霊怨念の集合体ゆえに、こうした事が起きてしまうのかもしれない。

 だがそれ以上に、源吾郎が注目していたのは犬神の全体像だった。犬神の身体のあちこちに羽毛が刺さっているのだ。黄色い風切り羽は毒々しい蛍光色であり、その羽軸の鋭さは五寸釘のようでもあった。

 そして、苅藻や源吾郎たちの目の前に、一羽の鳥妖怪が姿を現していた。青年姿ではある物の、半ば変化が解けていた。両腕は黄色い羽毛に覆われた翼になっており、脚は逞しい蹴爪を具えた鳥の脚そのものだった。


双睛鳥そうせいちょうの兄さん……!」


 感極まったように雪羽が呟く。確かにと源吾郎も思った。双睛鳥をこちらに寄越していると萩尾丸も言っていたし、彼の物言いややや洋風の面立ちは流石に源吾郎も覚えていた。但し今回は、魔眼を抑える偏光眼鏡を付けてはいなかったが。

 彼はちらと源吾郎たちの方に首を向けたが、すぐに笑みをたたえたまま犬神に向き直る。


「僕としては都合が良かったんだけどね。毒を打ち込むための時間稼ぎになってくれたんだからさ。ああ、それでも大したものだよ。予定ならもっと早めにダウンしてくれるかと思っていたんだけど。

 毒を使うのは僕も気が進まない話だよ。何せご先祖様は毒性が強すぎたせいで乱獲や討伐の憂き目にあったんだからね。とはいえ上の命令もあるし、僕としても前途ある若者がむざむざと喰い殺されるのは見ていられないからね」


 隣にいる雪羽の顔に、安堵の色が広がるのが見えた。双睛鳥は若者のような容貌の鳥妖怪ではある。しかし彼もまた第七幹部であり、強大な力を持つ妖怪なのだと源吾郎は実感していた。それこそ雪羽が兄として慕う程には。もしかしたら三國にとっても兄のような存在なのかもしれない。


「それで犬神君。君はあちこち獲物を探して……時に獲物が美味しくなるように小細工を弄していたみたいだけど、自分が獲物になるのはどんな気持ちかな?」

「なっ、糞、糞が……この俺が貴様みたいな鶏野郎に喰われる訳が……」


 歌うように言いながら、双睛鳥の姿がゆっくりと変化していく。軋む様な音を立てながら、その姿は半人半鳥から、完全な妖怪の姿に変わっていったのだ。オスの七面鳥よりも二回り大きい、黄色い羽毛の化鳥。蛍光色に輝く雄鶏の姿をベースにしつつ、毒蛇のような尾と翼の先端にコウモリのそれに似た鉤爪を具えているのを源吾郎は見た。双睛鳥のその姿は、まさしく伝承のコカトリスそのものだったのだ。その名の為であろう、彼の姿はむしろ神々しくさえ感じられたのだ。


「あ、心配しないで犬神君。僕は君みたいにがっつかないし、ごちそうを独り占めしようなんて思ってないんだよ。ふふふ、ちょっと早めのランチに、皆もう飛び出したくてうずうずしているさ!」


 言うや否や、双睛鳥は弾かれたように飛び上がり、犬神の背に荒鷲よろしくまたがった。その周囲には、彼の宣言通り鳥妖怪たちの姿が露わになる。青鷺に夜雀に雉妖怪、そしてフクロウやミミズクと思しき巨大な鳥妖怪たちは、双睛鳥と共に犬神をつつき回し、犬神を構成していた怨念や何やらを平らげてしまったのだ。

 最後の核として、痩せ衰えた一匹の犬が残る。だがそれも、見慣れた触手――サカイ先輩の触手だった――が絡め取り、捕食してしまった。

 そこにはもう、禍々しい犬神の残滓すら残っていなかった。

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