外道コンビの種明かし ※残酷描写注意

 黒犬が登場したまさにその瞬間、周囲の面々は凍り付いたように動きを止めてしまった。動けば狩られる、喰い散らかされる。その事を本能的に伝えられたかのように。

 そのかわり、黒犬の全体像ははっきりと、明確に源吾郎の視界に飛び込んできた。いつかのように時間が引き延ばされたような感覚を味わっていた。五感が、特に視覚と聴覚と嗅覚が鋭敏になっているのはそのためだろう。

 鋭敏になった感覚の大部分は、黒犬の観察に向けられていた。黒犬だけがその場に輪郭を持ち、鮮やかにはっきりと源吾郎の目に映っていたのだ。ゆえに解った。それが忌々しいモノ、全力で逃れるべきモノである事を。それでも身体は動かず、目を伏せる事すら出来なかった。

 大きさは大したものではない。ホンドギツネサイズの白狐の横っ腹を咥えて切り裂いたほどであるから、大型犬サイズである事には変わりはない。だが裏を返せばその程度の大きさに過ぎなかった。牛馬ほどの大きさであるとか、並外れた大きさの持ち主ではなかったのだ。

 しかし、大きさだけで妖怪の強さが決まる訳事は源吾郎も十分知っていた。この黒犬が蠱毒の類、所謂犬神である事は既に見抜いている。全体的には犬の形をしているし、動きや態度からしても、それは自身が一つの個体として振舞っていた。だが、幾つもの怨念や怨霊の類が寄り集まって融合し、それらが漏れ出そうになっている所は、幸か不幸か源吾郎には解ってしまったのだ。それはかつて源吾郎が蠱毒を目の当たりにしたからなのか、自身もまた蠱毒に縁深い系譜だからなのかは定かではないが。


「あ、あああぁ……」

「しっかりしろ!」


 ふいに周囲の動きを認識する。犬神から視界を横に逸らすと、白狐を取り押さえようと奮起していた稲荷の眷属たちの姿が飛び込んできた。彼らはへたり込み、ぶるぶると震えながら悲鳴にならない悲鳴を上げていた。どちらも半ば変化は解けかけており、狐色の一尾に至っては今にも失神しそうだった。やや年かさの、銀色の二尾が前足で一尾の肩を叩き、どうにか失神しないように目を配っている。

 救護班を配置しろ、負傷者の確保が先だ……! 誰かが野太い声で叫んでいるのが、遠くから聞こえるようだった。負傷者ってまさか、他にも襲われた妖怪がいるのだろうか。あの妖狐が引き裂かれたのを源吾郎は見たきりだったが。


「けっ、安心しろ。てめぇらみてぇなつまらん連中を喰いに来たわけじゃないんだよ。言っただろう。お稲荷様の眷属は面白みも旨味も無い、つまらん連中だとな」


 黒い犬神の鼻面は、腹を裂かれた白狐に向けられていた。のみならず、血を流しながらべったりと伸びる彼の許に歩み寄る始末だ。

 こいつもそうだ。犬神の前足が、血で染まる白狐の脇腹を押さえつけた。人間どもをこの狐を唆したのはこの俺だ。犬神は臆面もなくそう言ったのだ。


「こいつの連れ合いは人間の操る車によって生命を落とし、更に人間の手によって毛皮だけにされた。であれば人間の血を集め、それに連れ合いの骸を浸せば蘇る――こいつは俺のをそっくりそのまま信じ切ったんだよ! はははっ。ほんっとうに馬鹿の所業だよな。賢いはずのお狐様が、そんな子供騙しに引っかかるとはな」

「そんな……それは……」


 押さえつけられた白狐が僅かにもがき、言葉を紡ぐ。琥珀色のその瞳に、絶望の色が濃く浮かぶのを源吾郎は見た。犬神に襲撃された時ですら見せなかった色だ。


「てめぇらが畏れる犬神様だから、そんな事が出来るとでも思っていたのかよ? バッカじゃねぇの? インスタントラーメンじゃあるまいし、そんなんで元に戻るかよ? つーかさ、この際だから話すけど、俺は元々お前を喰い殺すつもりだったんだぜ? 連れ合いを亡くしたって事でうまい塩梅に正気を失っていたお前に、人間を襲わせる事で、より旨味を増してやろうと思っていた所さ。家畜は肥らせてから喰うのが鉄則って昔から言われているからな? 人間みたいな劣等種であっても、そもそもてめぇ自身が雑魚妖怪だから、ある程度は力の足しになるんじゃないかと思ってたんだけどな……ほとんど襲えてないじゃないか。残念なこった」


 そう言うと犬神は一度白狐の腹を踏みつけてから白狐から離れた。旨味もなさそうだから喰いはしない。勝手にくたばれと言い捨ててから。白狐はもう何も言わなかった。重傷を負っているという事もあるが、既に彼は心に致命傷を負ったも同然なのだろう。

 それにしても、犬神の邪悪な魂胆には源吾郎もいい加減吐き気を催してきていた所でもあった。ネット上には「他人の不幸でご飯が美味しい」などと言った厭な文言がある。だが今の犬神の所業に較べれば、それらの文言が可愛く大人しく見える程だったのだ。


「それにまぁ、今の俺にはあるじがいる訳だしな。あるじに仕えるのは忠犬の役目だって昔から言うだろう」


 それにだな。犬神は茫洋とする芦屋川を見ながら言い添えた。


「今回のあるじと俺はかなり相性が良いんだよ。やっぱり創作内容が創作内容だからだろうな。そうだろ相棒? 金のねぇド貧民の癖に才能とやらで大きな顔をするアホどもを陥れ、あんたの前で不愉快な動きを見せるハエ共を破滅させたのは他ならぬこの俺さ」

「そんな……あのアクセサリーにあんたは宿っていたのか……それで……それで……」


 犬神は芦屋川と向き合っていた。普通の犬畜生らしく尻尾を振りながら。禍々しい妖気と外道めいた言動に目をつぶれば、飼い主に懐ききった忠犬にも見えなくもない。

 しかしそれにしても、芦屋川自身は何も知らなかったらしい。アクセサリー云々を口にしているという事は、血によって継承されたのではなく自ら造り出した訳でもなく、他の誰かから譲り受けたという事なのか。

 芦屋川は血みどろの白狐を見、それから目の前にいる犬神に視線を戻す。その顔にはありありと驚きの念が浮かんでいた。そりゃあそうだろう。自分が単なる人間、単なる芸術家として活動していたと思っていたのに、このようなとんでもないモノに憑かれていたのだから。


「俺が良い感じに有名になって、ついでに目障りなライバル連中が良い感じに散らばったのも、全部全部だったんですね!」


 いやっほう! やったぜ……芦屋川の歓喜の声は空々しく、いっその事ある種の呪詛のように聞こえてならなかった。芦屋川は何と、犬神を受け入れてしまったのだ。あまつさえ犬神の所業に狂喜乱舞しているではないか。

 こいつはいけ好かない輩なんかじゃない。れっきとしたではないか。源吾郎は密かに、芦屋川満の認識を改めていた。


「それにしてもお犬様。あの狐畜生が俺の作品を狙っていたんですか」

「そーだよ相棒。てかまさか、妖怪共に囲まれて、それで何も聞いてなかったとか?」

「そうじゃないけどさ。ねぇお犬様。お犬様ならきちんと害獣駆除に勤しまないと。生きてたらまだ俺と俺の作品を狙うかもしれないよ? それに害獣と言っても毛並みが良さそうだから……」

「人間風情がふざけた事を抜かすなっ!」


 芦屋川を一喝したのは、三尾の妖狐だった。彼は怒気と妖気をまき散らしながら、言い足した。


「そこの男は罪を犯したと言えども、我ら稲荷の管轄にある。この者の罰は我らで判断し、よって生殺与奪も我らに委ねられたも同然の事。それを、どこの馬の骨とも知らぬ人間が介入すべきではない!」


 どうやら稲荷たちは白狐を見殺しにするつもりは無いらしい。今気づいたのだが、犬神が去ってからというもの、件の白狐を数名ばかりの妖怪や術者が取り囲んでいる。人間の術者はさておき、妖怪の方はやや力を持った存在のようだ。救急対応を行っているのだろう。間に合うのか否かは源吾郎には解らないが。


「どこの馬の骨とは、狐みたいな畜生から聞けるとは思わなかったぜ」

「……死にゆく者を無理に延命させるなんてお笑い種だぜ。罰を与えるって事はさ、場合によっては殺すかもしれないって事だろ? だったら二度手間だと思うんだがなぁ……」

「……貴様らとは話し合っても無駄なようだな」


 妖狐はそう言って顔をそむけた。源吾郎はすきま女のサカイ先輩の気配をすぐ傍で感じていた。姿は見せていないが、彼女もこの場のすぐ傍に控えているという事なのだろうか。


「あーあ。こっちとしても稲荷の連中と話すと肩が凝るぜ。本当に、面白みも旨味もねぇ煮ても焼いても喰えねぇ奴らだな」


 それよりも。犬神は身体を伸ばして一度欠伸をすると、稲荷の眷属や他に集まっている妖怪・術者たちから視線を外した。値踏みするように探る視線の先には雪羽がいた。梅園幸夫としての体裁を保ってはいるが、何も言わずその場でじっとしているだけだった。雪羽とて犬神を心底怖れているのだ。源吾郎はそう思うのがやっとだったし、ましてや怖がってやがると糾弾するつもりなどなかった。自分だって怖かったし、この状況が打開されるのをただただ身を伏せて待つばかりなのだから。

 その犬神の視線が、今度は源吾郎にも向けられる。


「でも別に良いか。そこの糞狐はうっちゃるにしても、もっと喰えそうなやつがいるんだからさ」


 犬神の両眼が輝き、そして口許が笑みのように広がっている。まさかこいつ、俺や雷園寺の事を獲物として認識したのか。源吾郎は心臓の上を押さえ、動悸が速まるのを感じていた。

 蠱毒はそれ単体でも強い存在であるが、他の蠱毒を取り込む事によりさらに力を増す。術者の中には蠱毒同士を喰い合わせて錬成させるものもいるのだから。

 何処かで見聞きした文言が、源吾郎の脳裏をよぎる。自分が狙われているのも、苅藻が犬神に察知したのも、母方の祖父の因業によるものではないか。そのように源吾郎は思い始めていたのだ。

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