狐の話術も年の功
邪悪な妖怪から無辜の民を護るために闘う退魔師たち。決定的に相容れぬ存在ゆえに対立する妖怪と人間。最近の物語ではそう言う傾向の話は減少しているようであるが……妖怪もの・妖怪退治ものではこうしたストーリーラインを構成している事がままある。
しかし実際には、妖怪が人間を襲う事件は少ない。どちらかと言えば妖怪同士で相争う事の方が多いだろうし、そもそも妖怪同士での争いごとも、庶民妖怪であればそう多くはないはずだ。
そもそも妖怪が邪悪という前提自体が間違っている。無論妖怪の中にも悪事を働く者もいる。しかしそれはその個体の心がけや行為によるものに過ぎない。妖怪は善とも悪ともつかぬ存在なのだ――より厳密に言えば、善も悪も心の中に具わっている存在だ。その辺りは実の所人間と変わりはない。人間たちと、違う種族同士では善悪の尺度は違っていたとしても。
それに妖怪が種族的全体的に人間と敵対しているというのも正しくはない。妖怪というのは人間や普通の禽獣よりもはるかに強力な力を保有した生き物だ。仮に人間に敵意を抱く者ばかりであれば、人間はとうに滅ぼされているか、妖怪たちに隷属しているかのどちらかになるだろう。
全体的に見れば、妖怪たちの人間への態度は中立に近い。人間の暮らしを利用しつつも深入りや介入は行わない。絶妙に無関心でそれでいてつかず離れずの距離を取る。それが妖怪たちの人間への関りだった。
とはいえ、種族ごとでも人間への関わり方は微妙に異なってくる。より人間に無関心な種族、比較的人間に友好的な種族が存在するという事だ。
例えば雪羽や三國のような雷獣は、人間に対する関心が薄い種族になる。元より雷獣は深山幽谷を住まいとし、時に天空を駆けて遊ぶ生き物だ。地べたで這いずるように暮らしている人間様とは住む世界が文字通り異なるのだ。各地で高位の神である事が多い雷神を崇拝している事もあり、彼らはまた気位も高かった。力の弱い人間への関心が薄いのも致し方ない事なのだろう。妖怪たちからは悪ガキの暴れん坊として恐れられていた雪羽も、実は人間への関心はかなり薄い。
一方で、妖狐は化け狸らと並び特に人間に友好的な種族であった。妖狐と人間の関わりの深さについては、伝承や歴史を紐解くまでもない話だ。良くも悪くも人間と関わった話はごまんとあるのだから。稲荷神の使いとして、或いはごく普通の妖怪として、妖狐は割合人間の近くに在り続けた。もちろん中には人間に悪意を持つ個体もいるにはいる。だがそうした妖狐は少数派だと源吾郎は思っていた。
――何故そんな事をしたのか解らない。妖狐が人間を襲ったという事件に対する、源吾郎の率直な感想はそのような物だった。妖狐に限らず妖怪が人間を襲う。その原因となる要因として挙げられるものは複数ある。捕食のため、脅かすための手段の一つ、単なる反撃、そして――私怨や怒りによるものだ。少なくとも今回は捕食や脅かす事が目的では無かろう。人間を捕食する妖怪もそう多くはないし、捕食目的であれば軽傷では済まないだろう。また妖狐は変化術や結界術が得意な個体が多く、包丁を持ち出して脅かすなどという野暮な事はしない。
やはり何かが、人間側に何かがあったのではないか。源吾郎はついそう思い始めていた。
「……ごめんね源吾郎。同族が人間を襲ったっていう話を聞くのはしんどいよね?」
「大丈夫だよ。妖狐だって悪さをした同族を喰い殺す事だってままあるんだからさ。同族だからとかそう言う贔屓はしないよ俺は。その狐が悪い事をしたかどうかが問題なんだから。とはいえ、色々と引っかかる事件ではあると思うな。そりゃあ、妖狐とて悪いやつとか人間に悪さをするやつだっているとは思う。だけど包丁を出して襲い掛かるなんて、妖狐らしくないし」
源吾郎の言葉を聞いた庄三郎の瞳が、一瞬迷いに揺らいだ気がした。だがすぐに取り繕い、真意の解らぬ笑みを弟に見せた。魅了の力に呪われた、ある意味妖狐らしい微笑みである。
「実は僕も狙われる可能性があってね。だから源吾郎、前向きに検討してくれて嬉しいよ。犯人を取り押さえてどうにかするまでは荷が重くとも、君ならきっと僕たちを護ってくれるだろうって思ってるからさ」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ兄上!」
ローテーブルが揺れ、味噌容器内部の濁った色水の表面が波立つ。妖狐が人間を襲った。その妖狐が自分も襲撃するかもしれない。提示された二つの事柄は脈絡が無く、それでいて衝撃的だった。源吾郎はだから戸惑って叫んだ。
「大事な事から話してくれているんだろうけれど、どうして兄上が襲撃されるって解るんだよ? やっぱり玉藻御前の末裔だから?」
「玉藻御前の末裔は関係ない。ただ……今度ちょっと大きなギャラリーに出席しないといけなくてね。そこでは色々な作家も集まって出展するんだけど、あの妖狐が殴り込みに来る可能性が高いんだ」
「そんな……そんな事が解ってるのに何でギャラリーに出ないといけないのさ? 兄上もさ、いつもなら十回に七回くらいは作品を出すだけだ顔を出したりしないのに」
源吾郎は眉根を寄せ、庄三郎に疑問をぶつけていた。芸術家という職業上、庄三郎がギャラリーに作品を出展せねばならない事は源吾郎も知っている。だが普段は他人との交流を疎み、作品だけを出展して対応する事が多かった。出席しなければならないと言っているが、そもそも庄三郎がそのように気負う事自体も珍しい。
しかも今回は、妖狐が襲撃するかもしれないという確証を彼なりに持っているにもかかわらず、である。
「付き合いというものが僕にもあるんだよ。君だって解るはずだ源吾郎。人脈とかコミュニティとの関りが大切だって事くらいはさ。そりゃあ僕も若かったから、そんなのに関わらなくても自分の絵の力だけで暮らせると思ってたよ。だけどまぁ……もう二十代も半ばだし、そんな青臭い考えで生きていける程あの業界は甘くないって悟ったんだ」
庄三郎の言葉に源吾郎はぐうの音も出なかった。人脈やコネの類が重要な事、それで優遇される代わりに果たさねばならない義務がある事は源吾郎もよく知っている。何せ彼自身が玉藻御前の末裔という最大のコネを使って妖怪社会を謳歌しているのだから。むしろ、縁故入社と言えど就職した源吾郎の方が、眼前の兄よりもそうした物には敏感なはずだ。
それにさ。庄三郎はうっそりとした視線を源吾郎に向けた。こちらを見透かすような眼差しと、それでいて口許に浮かんだ笑みが印象的だった。
「源吾郎。君はたった今、一人の妖狐が美大生を襲い、そして今後も他の芸術家を襲うかもしれないって話を知ったんだ。君の言うように僕が出席しなければ僕の安全は確保されるだろうね。だけど……僕以外の誰かが襲撃されるかもしれない。源吾郎。その事を知った上で何もしないという選択肢を君は選べるかな?」
問いかける庄三郎の黒々とした瞳を見据えながら、源吾郎は舌打ちしたい気分になっていた。話を聞くだけで良いと言いながらも、源吾郎を誘導しようとしている意図を感じ取ったからだ。
「いつになく回りくどい言い方をするじゃないですか、兄上。自分たちが妖狐に襲われるのが嫌だから助けて欲しい。そう思っているなら素直にそう言えば良いじゃないか。
庄三郎兄様は知ってると思うけど、別に俺は正義の味方なんてものを目指しちゃあいないし、人間の味方でもないよ。あ、でも初めから妖狐サイドの意見でも構わないって兄上も言ってたか」
源吾郎も暴力とか痛ましい事件に心を痛める様な感性の持ち主ではある。しかし博愛の精神から見ず知らずの他者を助けるような考えは持ち合わせていない。正義の味方になるなどと言えば論外の話だ。何せ源吾郎の野望は世界征服だとか好みの女子を侍らすとかであり、むしろ悪に近い物なのだから。
というかそうした事は庄三郎も知っているはずだ。高校を卒業する前に、一緒に活動しないかと庄三郎に持ちかけた事もあった訳だし。あとでその事が発覚し、長兄である宗一郎にこってり絞られたのは苦い思い出でもある。
「うん。本当の事を言えば源吾郎に協力してもらえればと思ってるよ。だけど、今回の事件は単純に妖狐が悪さをして人を傷つけているっていう話じゃあないからね。源吾郎。君はきっとこれから僕が話す事を聞いて、戸惑ったり腹を立てたりするかもしれない。色々な話を受け止めるにはまだ若いし、感受性も強いだろうからさ……場合によっては協力したくないって言うかもしれないだろうし」
とりあえず事件の内容や庄三郎が思っている事を教えてくれ。源吾郎はやや素っ気ない口調で言った。
「よく考えたら、俺はまだ美大生が襲われてケガをしたって話しか聞いてないんだ。判断材料が薄すぎるよ。話は全部聞く。俺が腹を立てるのかどうか、兄上の申し出を断るのかどうかはその後さ」
源吾郎は言ってから、紙袋からカップケーキを取り出した。クリームやバターを使った濃厚な味わいの品である。話す前に甘い物でも口にしてお互い落ち着こうという腹積もりだった。
ところが、庄三郎はカップケーキを一瞥すると気遣うような眼差しを源吾郎に向けた。
「源吾郎。君は話を聞いてからそのカップケーキを食べた方が良いと思う。正直な所気の悪くなる話だろうからさ」
意味深な言葉に源吾郎は首をひねった。その間に庄三郎は自分の分をちゃっかり確保していたのだが。
※
話を聞くまでカップケーキは口にしない方が良い。庄三郎の忠告は的確な物だったようだ。多少の義憤とそれを上回る気持ち悪さを抱きながら、源吾郎はふとそう思った。どう思う? 静かに問いかける庄三郎を見ながら、しれっと渡されたギャラリーの絵葉書を裏返す。こんなものは長々と眺めたくなかった。
「……こいつはもうあいつが全面的に悪い。俺はそう思う。他の狐たちだってそう思うはずだ。というか悪趣味とかいうレベルを突き抜けてるぞあいつ。いっそ鬼畜外道の所業だ」
庄三郎と裏返した絵葉書を交互に見ながら源吾郎は思った事を吐き出した。感想などという上品な物ではない。もはや悪態や毒舌のような物だった。ちなみにあいつというのはこの度被害に遭った美大生の岡本の事ではない。彼の前にギャラリーに作品を展示していた造形作家だった。彼の作品の中には、狐の毛皮を使ったものがあったのだ。剥製なのかぬいぐるみをモチーフにしたのかは定かではない。架空の合成獣という風情で見映えよく作られてはいたものの、素材が何であるか――源吾郎は絵葉書の粗い写真を一瞥しただけでそれが女狐だと判ってしまった――解る者にしてみれば、それはグロテスクで醜悪な代物に過ぎない。
庄三郎の話によると、岡本青年を襲ったのは若い男であり、しかも「わがつま」という言葉を発していたらしい。下手人は作品の夫である事は確定であろう。
「しかし源吾郎……」
「まさかこんなやつの事を擁護するって言うのかい、庄三郎兄様!」
源吾郎の言葉に、庄三郎は首を振る。
「そんな訳じゃないし、源吾郎の怒りもよく解るよ。それによく落ち着いて聞いてくれ。そもそも動物を使った芸術が残酷だと炎上した事は過去に何度もあるんだよ。小魚ミキサーも野良犬を繋いで餓死させるモニュメントとかが有名なんじゃないかな。最近は、飼い鳥の死骸と羽毛を使った作品が展示されたとかで炎上していた事もあったからね。だから源吾郎。僕らの側でもああいう作品はおかしいって思う人はいるんだよ。芸術家としても、人間としてもね」
だけどね源吾郎。庄三郎の眼差しと口調が僅かに強まった。
「今回被害に遭った岡本君には非が無いんだ。あの子はただ、あの造形作家と同じギャラリーで展示する予定だったに過ぎないし、あそこにあの時居合わせたのは本当に悪い意味で偶然が重なっただけなんだ。あの子は――僕とかあの造形作家と違って――コネとかじゃなくて実力でオファーが掛かった子だし、愛用していた犬の毛の筆だって、抜け毛から地道に作っただけなんだ。真面目にやってて誰にも迷惑をかけていない子が被害に遭ってしまったんだよ、今回は。そしてこのままだったら、他の罪のない誰かが襲われるかもしれない」
庄三郎の声は悲しげだった。被害者である岡本青年に非が無い事も源吾郎は解っていた。彼はただ運悪くあの場に居合わせただけなのだから。
「そりゃあもちろん、被害者である岡本さんが悪くないのは俺だって解る。気の毒だって事も解ってるよ。包丁で切りつけられれば誰だって怖いだろうし、何よりあの人は抵抗している間に絵を一枚犠牲にしたんでしょ?」
「本当に岡本君は気の毒だよ……」
岡本青年の負った傷は幸いにして大きなものではない。しかしむしろ精神的なショックの方が大きいくらいだった。どういう状況なのかは定かではないが、切りつけられた後に彼は犯人めがけて手近にあった絵で殴りつけるという暴挙に出ていたそうだ。それで犯人は大いに怯んで逃走したわけだが、代わりに絵が犠牲になった。芸術家がおのれの創作にどれだけの想いを込めているか。それは語るまでもない話だ。
さらに言えば、「俺を襲ったのは狐のバケモノだった」という証言もほとんど信じて貰えず、警察の調査でも犯人があぶりだせない事もまたストレスとしてのしかかっているらしい。
とはいえ、絵で殴りつけるという暴挙でもって軽傷で済んだというのもまた庄三郎の考察だった。彼が愛用していた絵筆には愛犬の毛を使っていたのだが、そこに込められた犬の念があるじの敵を追い払ったのであろう、と。或いはその愛犬も、何がしかの神性を持つ犬の子孫ではないかとさえ庄三郎は言ってもいた。
「確かに罪もない人間や妖怪を襲うのは俺たちの中でも悪事だと見做されてはいるよ。だけど、今回の場合は正当な行為とまではいかずとも情状酌量される可能性はあるかな」
妖怪社会にも法規や掟はもちろんある。しかし加害者にそうするだけの正当な理由があるならば、その事も加味される事は珍しくはない。仇討ち等もある程度は容認されるという事だ。
それに、妖狐は穏やかであるが怒りや恨みで凶行に走る事もまた事実である。
「まぁその……妖狐ってそういう事をする手合いもいるからね。仔狐を串刺しにされて殺されたのを知った親狐が、犯人である人間の子を同じように串刺しにして殺したって伝承もあるし。俺らの曾祖母だって、子孫の毛皮のコートを作った下手人を、胡喜媚様と一緒に亡き者にした訳だしさ」
「しかし源吾郎。妖狐なら誰しもそうするとは限らないでしょ? 狐忠信を思い出してごらん。彼は両親の革で作られた初音の鼓の持ち主を恨んだり憎んだりしなかったでしょ」
「…………」
言いくるめられたと思い、源吾郎は苦い表情で口をつぐんだ。源吾郎も庄三郎も等しく妖狐の血が流れているし、妖狐の血を引く縁者に育てられている。妖狐の伝承には二人とも詳しかったのだ。
「それでどうするの源吾郎? こんな事情だから、無理に関わらなくても良いよ。君だって君の生活があるだろうし」
「……確かに、こんな事情があるって事なら介入したくないと思ってたよ。要するに剥製なんぞを作ったやつが悪かったんだからさ」
源吾郎は渋面を浮かべながら言葉を紡ぐ。庄三郎の表情は揺らがない。拒絶するであろう事を見越しているかのようだった。
手を貸そうじゃないか。源吾郎がそう言った時、庄三郎が驚いたように眉を動かした。
「都合よく俺を丸め込もうと情報を隠していたら、参加しないつもりだったよ。兄上から教えてもらった事はネットで調べれば拾える情報でもあるもん。というか兄上もネットとかから拾った情報を教えてくれたしさ。
でも――庄三郎兄様は都合の悪い事も俺に教えてくれた。それなら俺も手を貸すのが筋って奴だろうさ」
「ありがとう、源吾郎」
礼を述べる庄三郎の言葉は、演技でも何でもなく心からの言葉だった。
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