野狐に稲荷に路傍の狐
やっぱりあのカップケーキはくどい味だったなぁ。脂っこいものがみぞおちに溜まっている感覚を抱きながらふと源吾郎は思った。
芸術家を害する妖狐を捕縛する。ある種の妖怪退治めいた庄三郎の依頼を、源吾郎は正式に受ける事と相成っていた。正直言って気分の良い依頼では無かった。同族である妖狐を退治する事に躊躇っているのではない。庄三郎の言う通り、若く罪もない人間が被害に遭っているのは気の毒だとは思う。だが――容疑者の抱える事情を、彼が抱いているであろう怒りや憎悪を思うとやるせなかった。
とはいえ、嫌な事件だから手のひらを返して関わらないなどと言うつもりは無かった。ただ、自分一人で解決するには手に余る事件のように思えたのだ。包丁を使って相手を襲撃したという話から察するに、下手人はそれほど強い妖狐ではないのだろう。なのでもしかしたら、頑張れば源吾郎単体でも相手を打ち負かし捕縛する事くらいなら出来るかもしれない。しかし、周辺の人間たちを巻き込まずに事を収められるかと言えばそれはまた別問題でもある。
つまるところ、源吾郎は今回の妖狐の事件について誰かに協力を仰ごうとすぐに思ったのだ。自立心の強い源吾郎であるが、しかし彼は他者に力を借りる事への抵抗感も薄い。それはやはり、兄姉や叔父叔母と言った年長者に構われて育ったが故の性質なのかもしれなかった。
それに一人で無理をしてはいけないと、紅藤たちからも言われている所である。雷園寺家の拉致事件後、研究センターでは安全教育が強化されるようになっていた。救出作戦に参加した雪羽が、大暴れの果てに重傷を負ったためである。
状況が状況だったとはいえ、雪羽はあの時無理をしてしまったのだ。不幸な事に、源吾郎と雪羽は若いながらも一定水準以上の強さを持つ妖怪である。だからこそ他の弱い妖怪に較べて無茶をしてしまう危険性がある。紅藤や萩尾丸はそのように判断を下していたのだ。
そんな事もあり、最近は源吾郎たちの戦闘訓練もお預け状態だった。来週からは少しずつ訓練を再開するらしいのだけど。
※
「島崎君。そう言う案件なら素直に桐谷さんたち、君の叔父上殿や叔母上殿を頼ったら良いと私は思うけれど。あの方たちはその道のプロだし、何より島崎君の親族だからね」
夕暮れ時。源吾郎の話を聞いた化け狸の住吉の返答はこのような物だった。その顔にはうっすらと苦笑いさえ浮かんでいる。
源吾郎は吉崎町にある妖怪向け交流センターに足を運んでいたのだ。芸術家襲撃事件を兄から聞かされた事、下手人が妖狐である事を語ったのも言うまでもない。源吾郎はその上で、自分と共に協力して動いてくれる妖怪の斡旋を彼に依頼したのだ。言うなればパートタイムで使い魔の雇い入れを依頼したという事である。術者や妖怪の許で働く使い魔職の妖怪の中には、日雇いやパートタイムで働く者もいる。米田さんはそうして日々の暮らしを立てているとも言っていたし。
住吉氏の言葉が親切心からの物であるのは源吾郎も解っていた。使い魔を雇うにも賃金を支払わねばならないからだ。しかも業務内容が悪事を働いた妖怪の捕縛であるから、賃金は高いのは言うまでもない。
苅藻やいちかは源吾郎の身内だから、金銭面でもちょっとは手心を加えてくれるのではないか。住吉はそうした事を考慮して、叔父たちの事を口にしてくれたのだ。もちろん源吾郎だって、苅藻に頼るのが一番である事は解ってはいる。可能であれば彼だって真っ先にそうしていたのだから。
「僕も叔父に依頼するのが一番だとは思ってます。兄も初めは叔父に依頼を持ちかけたみたいなのですね。叔父が術者として生計を立てているのは兄も知っていますから。ですが兄は、結局叔父への依頼を取り下げてしまったのですよ。まぁその……依頼料がネックだったみたいなのですがね」
「まさか島崎君、桐谷さんへの件はお兄さんの事で気兼ねしているのかい?」
「気兼ねですかね。ある意味そうなるかもしれませんね。僕としても、兄が断っていると知った上で叔父に同じ依頼を持ちかけるのも気が重いですし」
「そう言う気兼ねは正しい気兼ねには私には思えないよ」
ため息とともに吐き出された住吉氏の言葉には、源吾郎への呆れの念がありありと込められていた。厳密には源吾郎と庄三郎の二人に対しての呆れだろうか。
「君も歳の離れた兄弟の末っ子だから、お兄さん方に強く出るのは難しいのかもしれない。だけど時には間違っている事をそれとなく指摘する事も必要だと思うんだけどなぁ……」
「まぁ兄も兄で気兼ねしている所はあるでしょうね」
弁明じみた言葉だろうか。呟いてから源吾郎は思った。庄三郎は苅藻の提示した依頼料にしり込みをし、苅藻への依頼を取り下げた。これはやはり、自分一人で依頼料を工面しようと思ったからの事に他ならない。例えば兄姉らに依頼料を借りるという妥協案があれば、また違った選択をしたのかもしれない。詮無い話だが源吾郎はそんな事を密かに思ってもいた。
「とはいえこっちもこっちで依頼料がかさむからね。紹介するのは簡単だが、
住吉氏はしばらく視線をさまよわせて思案顔を浮かべていたが、何かを思いついたらしい。文字通りのたぬき顔に人好きのする笑みをたたえ、心持ち源吾郎の方にずいと顔を近づけた。
「そうだ島崎君。
「萩尾丸先輩の、
目を丸くしながら呟きつつも、その手があったかと源吾郎は思い始めていた。
雉鶏精一派の第六幹部である萩尾丸は、多くの妖怪を配下として従えている。だが住吉氏の言う通り、
生きた妖怪を商品扱いしている。そう言うと
話を聞くだに萩尾丸は配下の貸し出し(これも公序良俗に反しない事という前提がもちろんある)も行っているし、外部との連携も抜かりなく行っている。して思えば萩尾丸に相談するのも一つの手のように思えた。プライベートでの案件を先輩社員に打ち明けられるかという問題があるにはあるけれど。
いずれにせよ、萩尾丸に相談を持ち掛けるのは悪い事では無さそうだ。源吾郎はそう思い始めていた。態度や言動に若干難のある
そんな事を思っていた源吾郎は、交流センターにまた誰かがやって来たのを目ざとく感知した。自動ドアの開く音と空気の流れを感知したためだ。それと、野良妖怪と呼ぶにはお行儀よく気品ある妖気も。
「こんばんは住吉さん。ちょっと疲れたんで小休止に来ました」
爽やかな声音で住吉氏に語り掛けるのは妖狐の若者だった。源吾郎の銀白色とは違う、純白の二尾である。生物学的には同族であるその若者を見た源吾郎は、しかし同類ではないとすぐに悟った。
源吾郎は妖狐の中でも野狐に相当する存在である。だが眼前の若者は違う。稲荷に仕える妖狐なのだ。狐としての本能でもって、源吾郎はその事を感知したのだ。
「……おや、君は確か島崎君だよね」
「お、あ……お初にお目にかかります、稲荷神の眷属殿」
小首をかしげる白狐を前に、源吾郎は丁重に挨拶をした。丁寧すぎて芝居がかっていると思われたかもしれない。いずれにせよ、相手の不興を買うのはまずいだろう。そんな考えが源吾郎にはあった。
源吾郎は日頃、妖狐の若者たちには気さくに接するのが常だった。しかしそれは、相手が自分と同じ野狐だった場合のみの話である。相手が稲荷神に仕えているのなら話は別だ。丁重に接しなくてはならない、不興を買ってはならないと源吾郎はどうしても思ってしまうのだ。
源吾郎が稲荷に仕える狐たちに対して下出に出るのは、やはり先祖の関係性が大きく影響している。先祖である玉藻御前は陰陽師の安部何某に正体を見破られ、それが殺生石と化す原因に繋がった。そして陰陽師の安部何某は、六代ほど遡れば葛の葉稲荷に辿り着く。要するに、野狐の筆頭格だった玉藻御前は、稲荷の子孫である陰陽師に敗れたのだ。そうした歴史的背景があるからこそ、源吾郎も稲荷に仕える狐たちに畏怖の念を抱いていたのだ。関西圏は稲荷の勢力が強いから尚更である。
そんな訳で、源吾郎は緊張し慇懃な口調になっていたのだ。だが一方で、近場の小峠神社に勤務しているというその白狐も、若干緊張し戸惑っているようだった。
「そんな、島崎君。君にそこまで丁重な態度を取られるとくすぐったいよ。稲荷の眷属なんて、入社試験をパスすれば誰だってなれちゃうんだからさ。それよりも、君は玉藻御前の末裔って言う看板がある訳だし」
「ご謙遜が過ぎますよ。僕自身は単なる野狐なんですから」
表向きにこやかな笑みで応じた源吾郎であったが、その心中は複雑だった。稲荷神の眷属に連なる妖狐たちが文字通りエリートである事を知っているからだ。彼の言う入社試験もそこそこ厳しい上に、稲荷の眷属になってからも狐たちは様々な規約に縛られた生活を送る事になる。規約違反者への処罰も厳しく、破門や妖力の剥奪も珍しくない。だからこそ稲荷に仕えるという職は妖狐たちの憧れの的でもあるのだ。
「それにしても島崎君。今日はこの交流センターに来ているなんてどうしたの?」
不意に白狐に問いかけられ、源吾郎はへどもどしてしまった。別にやましい事をしている訳ではない。だが稲荷神の眷属、それも大人の妖狐に出会ってびっくりしてしまったのだ。
私に相談事があったんだ。白狐の問いに応じたのは、化け狸の住吉氏だった。源吾郎がぽかんとしている間にも、彼は代わりに事情を話し始めていた。
「島崎君のお兄さんは画家として活動なさっているのだけど、この度画家を襲撃する妖狐が現れたらしくってね……その妖狐を捕縛して他の画家たちを護って欲しいという依頼を島崎君は受けたんだ」
「芸術家を襲う狐ですか?」
住吉氏の話を聞いた白狐が片眉を吊り上げる。先程まで源吾郎たちに見せていた柔和な表情は消え失せ、冷たい怒りをたたえた表情を見せてさえいた。
「あの……何かご存じなのですか」
白狐の変貌ぶりに戸惑いつつも源吾郎は問いかける。白狐は重々しく頷いた。
「――芸術家を襲っているというその狐。恐らくは僕と同じ稲荷に仕える狐かもしれないんだ」
稲荷に仕える狐。源吾郎はハッとして白狐を仰ぎ見た。事件の話を聞いて急に憤慨した理由もここでしっかりと解ったのだ。稲荷神に仕える妖狐たちは、普通の野狐たちよりも戒律違反や規約違反に厳しい。処罰の中には私刑や極刑ももちろん存在する。領主の飼い鳥を喰い殺した下手人を生きたまま喰い殺したという話さえ伝わっているくらいなのだから。
「四星稲荷に勤務していた妖狐の一人が、結婚したばかりの奥さんを亡くしたとかで情緒不安定になっているという話が上がっていたんだ。痛ましい話ではあるよ。車に轢かれたという事で……まぁその、悲惨な事になっていたというし、何より亡骸は親族が引き取る前に何者かに持ち去られてしまったみたいだからね」
「それって、もしかして……」
わがつまと言っていた妖狐。狐の毛皮を使った造形物。交通事故……これらの断片的な言葉が一つの線で繋がっていく。そのような感覚を源吾郎は抱いていた。
さながら名探偵のような行いなのかもしれない。但し当の源吾郎は、疑問を解いたところで晴れやかな気持ちになりはしなかったけれど。
「僕は小峠神社の管轄だから詳しい事は知らないけれど……でも多分神戸方面の稲荷の眷属たちが調査を開始しているんじゃあないかな。妖怪であると言えども、稲荷神の眷属として就職した所で、僕らは神の使いとしての仕事を果たさねばならない。私情と言えども無闇に生き物を傷つけるのはやはり罪に問われるからね」
冷徹な口調で言い放つ稲荷の白狐を、源吾郎は静かに見つめていた。兄に依頼されて引き受けた事件ではあるが、何やらとんでもない物が背後に控えてそうだ。そんな事を思ってしまったのだ。
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