世間話は事件の香り

 十一月も下旬に差し掛かった土曜日。源吾郎はちょっとした手土産を携えて庄三郎の活動拠点であるアトリエに訪れていた。


「やあ源吾郎。君からこっちに来るなんて珍しいね」

「いや……まぁ兄様はあんまり外に出るのは好きじゃないだろ? だから時には俺の方から遊びに来ても良いかなって思ってさ」

「そっか。わざわざ気遣ってくれるなんて、源吾郎も大きくなったね。さ、上がって。いつも通りゴチャゴチャした所で悪いけど」


 大丈夫、ケーキも持ってきたし。源吾郎は紙袋を提げた右手を軽く上下させて応じた。庄三郎の動きとともに、アトリエの内部に籠っていた匂いが漂ってくる。アクリル絵具と、メディウムとかいう溶剤のツンとくる匂いだ。常人よりも嗅覚の鋭い源吾郎はこれらの匂いをばっちり嗅ぎ取ってはいた。しかしこれでも、庄三郎は源吾郎が来ても良いように配慮してくれていたらしい。換気して少しでも絵具類の匂いを外に追い出そうとしている事もまた、空気の流れや匂いで解ったのだから。

 画家、特に油絵具を使う類の画家もまた、ガソリンのような臭気に慣れ、あまつさえそこで食事を摂る事に疑問を抱かなくなるという。庄三郎はそこまで極端では無かろうが、それに近い所が見え隠れしているように源吾郎には思えた。


「それにしても今日はどうしたの? 僕の所に足を運ぶなんてさ」


 さてそうこうしているうちに、庄三郎と源吾郎はリビングらしき場所に辿り着いた。来客を予期していないであろうローテーブルの上は雑然としていた。食べ終わったカップ麺の残骸が割りばしと共にあり、その隣には絵具が混ざり合って濁った色水を貯える味噌容器が当然のように鎮座している。庄三郎は気だるげに、しかし慣れた手つきでそれを隅に追いやっていた。

 源吾郎は無言で紙袋をテーブルの上に置く。


「どうって……ちょっと兄上に会いたくなったんだ。それだけだよ」

「それなら真っ先に宗一郎兄さんに会った方が良かったかもね。宗一郎兄さんは、ずっと僕らの事を色々と気にかけてるし」

「年末休みには実家に戻るから、その時で良いかなって思ってるんだ。それに宗一郎兄様の方は、週に二、三度は連絡してくるしさぁ」


 源吾郎が急に兄に会いたくなったのは、雪羽の存在や彼に絡む事柄が原因だった。元より雪羽からは「先輩は親兄弟と距離を置き過ぎだ」「先輩の所は家族の仲が好いんだから、会いに行った方が良い」などという事を折に触れて言われていた。彼の主張が世間的にも正論である事も、雪羽の境遇も源吾郎は知っているし理解してはいる。しかし内心ではクドクドと繰り返される彼の主張を煙たく思ってもいたのだ。そもそも自分と雪羽とでは境遇が違うのだから、と。しかしその考えが変わる出来事があった。

 色々あって雪羽の付き添いとして雷園寺家に赴いた。そこで雪羽が弟妹達と再会し、打ち解ける様を目の当たりにしたのだ。あの時の雪羽の幸せそうな姿は、源吾郎の心に鮮明に焼き付いていた。

 やっぱり兄弟って良い物だな。雪羽と彼の弟妹達の姿を見た源吾郎はそう思い直し、急に兄らが恋しくなったのだ。実に単純な話であるが。敢えて庄三郎に会いに行ったのも自分で考えての事だった。長兄の宗一郎とは何だかんだ言いつつも連絡を取り合っているし、姉の双葉には盆休みに顔を合わせたばかりだ。また誠二郎は妖怪の社会から完全に距離を置いている訳だし。何より庄三郎の良い所は、他の兄姉たちに較べて源吾郎への小言が格段に少ない所だ。庄三郎の持つ末っ子気質の強さ故の事だった。兄姉たちからは庄三郎は年長の方の末っ子と呼ばれてもいた。


「年末に戻って来るんだったら、母さんたちも安心するだろうねぇ。源吾郎、仕事の方は順調なのかな? 友達は出来た?」

「うん。色々あって研究センターに研修に来ている子と仲良くなれたよ。雷園寺って言う雷獣の男子だけど……庄三郎兄様は知ってたっけ?」


 友達。その言葉で真っ先に浮かんだのはやはり雪羽だった。就職してから源吾郎が知り合いになった妖怪たちは他にもいる。萩尾丸の部下で、尚且つ同族にあたる珠彦や文明などがそうだ。しかし、そうした若狐たちよりも雪羽の方が親しくて近しい存在なのだ。種族も完全に異なり、しかもファーストコンタクトは変態・ドスケベと言い合ったほどに最悪だったにも関わらず。

 萩尾丸たちは、源吾郎たちの関係性が良好な物に落ち着くのを見越していたのかどうかは解らない。初めからそうなると解っていたと言外に告げているようにも見えたし、予想以上に仲良くなった事に驚いているようにも感じられた。

 ともあれ源吾郎は雪羽の名を挙げ、知っているかどうか尋ねたのだ。数か月前に雪羽は庄三郎に会ったと話していた。しかし庄三郎は他者への関心が極度に薄い所があるので、雪羽の事を忘れている可能性もあると思っての事だ。


「雷園寺君でしょ。雷獣のお坊ちゃんのさ。うん、あの子の事は覚えてるし知ってるよ」


 庄三郎は割合はっきりした口調で応じた。その事に若干面食らっている間にも、彼は言葉を続ける。頬を緩め、何となく嬉しそうな表情で。


「あの子も芸術家気質だろうね。一目見てそう思ったよ。きっと絵筆を持たせたらいい物を作りそうだってね」

「た、確かに雷園寺君は絵が上手だよ。何でも、雷獣だから物の距離感を測るのが上手で、そのお陰で絵も上手なんだろうね」


 蛇の道は蛇。兄の言葉に源吾郎はそんな事をふと思った。オタクにしろ芸術家にしろ、同好の士を見抜く嗅覚は優れているのだ。雪羽が絵心を具え手先が器用な事も、彼自身芸術に多少の興味がある事は事実である。

 しかしそこでひとを判断するとはいかにも兄らしい。無邪気にそんな事を思った源吾郎は、庄三郎が真顔になったのにすぐに気付かなかった。


「それにね源吾郎。あの子はこの前起きた大事件の当事者だって報じられてたじゃないか。大変な事件だったんでしょ? 雷園寺って言うのもどうやら雷獣の名家という事らしいしさ」

「庄三郎兄様、どうしてその事を――?」


 源吾郎は眉を上げ、驚愕に目を見開いた。雷園寺家が絡む大事件と言えば、雷園寺家の次期当主が拉致され、あまつさえ殺されかけたあの事件である。次期当主の異母兄で雷園寺家に執着する雪羽があの事件に巻き込まれたのは言うまでもない。犯行グループは雪羽の雷園寺家次期当主への執着を餌に、異母弟を殺させようとしたのだから。

 幸いにも死者を出さずに事件は解決したが……妖怪社会に衝撃を残す事件として大々的に報じられたのは言うまでもない。上流階級である貴族妖怪の間に生じた大事件であり、尚且つ昼ドラ的醜聞スキャンダルをも孕んでいたのだから。

 しかしそれは妖怪社会の中での話だった。妖怪の存在を知らず、妖怪に関わらない(と思っている)この事件は全くもってされている事柄のはずだった。せいぜい、違法なビデオを撮影しようとしていた人間たちが、その現場で逮捕された、現場である廃工場は火の不始末でが起きてしまった。そのような、何という事の無い(?)事件に置き換えられているはずだった。

 、庄三郎が雷園寺家次期当主拉致事件を知っていると知って驚き戸惑ったのだ。庄三郎は半妖であるものの、暮らしていたからだ。オカルトライターとして妖怪の知り合いもいる長姉とは異なり、源吾郎の兄たちは三人とも人間としての生活を確立している。


「どうしてって、そりゃあ知り合いの妖怪の子に教えてもらったから知ってるんだ。ほら、僕だって一応半妖で、しかもご先祖様は玉藻御前でしょ? それに妖怪たちの中には人間として暮らしているヒトたちだって大勢いるし。僕や兄さんたちみたいにね」

「成程、そういう事だったのか」


 妖怪に教えてもらったのならば知っていても何もおかしな話ではない。源吾郎は素直にそう思っていた。庄三郎はそんな源吾郎に笑みを見せ、言葉を重ねる。


「そう言えば源吾郎、源吾郎もその事件現場に立ち会って、人質の救出とか犯人の捕縛に勤しんだんでしょ? 玉藻御前の末裔も救出部隊のメンバーにいて大活躍したってその子は教えてくれたんだけど……」

「大活躍だなんてとんでもない。それに兄上、あの事件の事はあんまり思い出したくないんだ」


 ケッタクソ悪い事件だったからね。忌々しさが募り、源吾郎の言葉には吐き捨てるような鋭さがあった。

 兄の前だから若干言葉は荒くなってしまった。だがあの事件が忌々しく、後味の悪さとやるせなさをもたらした事は真実だ。何せ幼い子供が事件に巻き込まれ、あまつさえ殺されそうになった事件だったのだ。被害者たちは命に別状はなかったものの、精神的なショックや傷を負った事には変わりない。雪羽に至っては暴行を受けて重傷を負ったのだから。雪羽自身は異母弟妹を救い、その上で手ずから犯人たちに制裁を加えられたから万々歳だなどと言っているが、源吾郎はそう思う事が出来なかった。

 とはいえ悪い事ばかりでもなかった。雪羽は念願かなって弟妹達との再会を果たし、ついで雷園寺家の次期当主になる権利を正式に与えられたのだ。弟妹達との交流と雷園寺家次期当主の座。同時に手に入れるのは難しいだろうと思われたものを雪羽はおのれの手で掴み取る事が出来た。その事は雪羽にとって喜ばしい事なのだろう――そもそもの発端である事件が起きたからこその結果だというのが皮肉な話ではあるが。

 ともあれ雪羽は、彼の内面はあの事件の前後で。活発でヤンチャな気質は今も健在だ。今まで露わにしたり醸し出したりしていた悪ガキめいた雰囲気が抜けきってしまったのだ。斜に構えたような気配もなく、言動の節々に毒気を感じる事も今はない。雪羽の内面は変わったのだ。もしかしたら、事件を前にして気を張っていた事への反動で、一過性のものなのかもしれないが。


「事件と言えば源吾郎。君も社会妖しゃかいじんとして忙しいけれど、きちんと新聞に目を通したりニュースに耳を傾けたりしてるかい? 最近また物騒な事件がであったけど、その事は知ってるかな」


 事件の話はうんざりだと言った所なのに、また事件の話を被せてきたな。源吾郎は内心辟易してしまった。だがそれを口にする事は無かった。庄三郎がやけに切羽詰まったような、いっそ弟に助けを求める様な表情を浮かべているように見えたからだ。

 物騒な事件の事は源吾郎も知っている。人間社会の方で起きた事件だ。色々とセンセーショナルすぎる要素が強いために、連日マスコミは報道していた。件の事件の報道には辟易していた源吾郎だったが、暇さえあれば報道しているのだからどうしても耳に入る。

 しかし――あの事件は近場ではないはずだが。


「雷園寺家の拉致事件がケッタクソ悪いって言った直後に、それを上回るほどケッタクソ悪い事件の話をするのはどうかと思うけど。庄三郎兄様、流石の俺でも怒るよ? というかあの事件はこの辺で起きた事件でもないしさ」

「僕が言いたいのはその事件じゃないよ源吾郎。思い違いをしたみたいだね」


 鼻息荒く言い放つ源吾郎に対し、庄三郎はため息交じりに応じた。それからテーブルの隅の小山をまさぐり、新聞の切れ端を源吾郎に突き付けた。「大学生」「通り魔」「軽傷」……名刺ほどの大きさの記事の見出しには、そうした単語が用いられていた。


「参之宮南部のギャラリーで、美大生の男の子が包丁で切りつけられる事件があったんだ」

「そんな事件が……!」


 源吾郎は思わず声を上げた。その事件については知らなかった。いや、もしかしたら報道されていたり記事になったりしたのを見聞きしたのかもしれないが、見落としていたのだろう。今一度新聞の見出しを見ると「通り魔か? 大学生が刃物で切りつけられ軽傷」とある。見出しを見る限り、犯人は捕まっておらず被害者である美大生の若者も一命を取り留めたのだろう。ニュースでは様々な出来事や事件をひっきりなしに報道している。そうした情報に押し流された事件なのかもしれなかった。


「芸術家が、それも庄三郎兄様の後輩かもしれない人が襲撃されたんだよな。そりゃあ、兄様が不安になっても仕方ないか」

「僕が心残りなのはそれだけじゃないんだ。もちろん、ケガをしたその子の事も気の毒に思っているけどね」


 源吾郎の呟きに、庄三郎は鋭く反応した。彼は一度瞬きして眼鏡の位置を調整すると、源吾郎を真正面から見据えた。


「率直に言おう。この事件は妖怪が絡んでいる。というか妖狐が犯人なんじゃないかと僕は思っているんだ。源吾郎、君が力を貸してくれればと僕は思っている。それが難しければ、話を聞くだけでも構わない。これからの話は、として、妖狐として聞いて欲しいんだ。

 知っての通り、僕は源吾郎ほど妖怪には詳しくない。だからその……何故妖狐が人間の若者を襲ったのか。その辺りの事を一緒に考えて欲しいんだ。ちゃんと知ってる事、僕が思った事は包み隠さず話すから」

 

 妖狐が人間を襲ったのかもしれない。庄三郎の思いがけぬ言葉に、源吾郎は驚いて目を丸くするほかなかった。

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