第九幕:血染めの白狐 災禍の犬神

ギャラリーの怪異 ※残酷描写あり

 十一月の落日は早い。もう既に中旬を通り過ぎ下旬に向かっているのだから尚更だろう。

 灰白色の壁に囲まれたギャラリーの中にも夜の訪れはもちろん来ていた。窓辺は作品の鑑賞に邪魔にならぬよう、人工物のツタが生きた植物のように絡んでいるかに見せかけてはいる。しかしその向こう側に広がるのは、青紫の夜空である。


「ふぁ……」


 人気のないギャラリーでその画家は誰はばかる事無く欠伸をした。通常このギャラリーは夜の八時まで営業している。しかし今日は展示物の入れ替えという事もあり、夕方の早い段階で店じまいを行っていた。

 今日まで動物を使った展示を行っていた造形作家は早々に片づけを終え、アシスタントや作品たちと共に既にギャラリーを去っていた。従って今欠伸をした画家は、明日から作品たちを展示する画家になる。

 欠伸などしてはいたものの、実際にはギャラリーに声がかかった事について誇らしさと喜びとを半々の分量で抱いていた。何せ若くしてギャラリーデビューを果たす事が出来たのだから。

 彼は今月二十一になったばかり。現役の美大生だったのだ。門外漢たちは詳しく知らぬだろうが、芸術家の道は険しい。芸術を志す者は概ね美大や芸大に通う。しかし美大や芸大を出たからと言って芸術家に慣れるわけではない。デザイナーやイラストレーターなどと言った所で手を打つ者の方が多いのだから。ひな鳥どころか卵レベルである美大生がギャラリーから直々に声がかかる事などは一層珍しい事だ。

 だからこそ彼はこのギャラリーの懐の深さというのを感じてもいた。芸術の形は無数にある。その事は彼もギャラリーのあるじも承知している。しかし今日まで展示していた造形作家と自分のジャンルの違いを思うと頭がくらくらするような思いだった。

 造形作家が気合を入れて、過去作から最新作まで陳列していたから余計にそう思ったのだろう。初めは彫像だったのに、フェルト細工や針金細工、果ては動物を表現しようとしていたのだから。芸術の深みにはまった者、それも多芸多様な表現法を持つ者らしい展示群だと彼は若いながらも思っていた。

 彼自身が抱く作品たちは、キャンバスにアクリルガッシュで描いた抽象画に過ぎないのだから。強いて言うならば、愛犬の抜け毛を使った筆を一部使用しているという事だろうか。あの頃は道具も自作でこしらえたいという妙なこだわりを発動していた時でもあった。とはいえ、犬筆である事は特にアピールポイントではないのだけど。

 靴音が聞こえたかと思うと、誰かが展示室に入ってきた。買い出しに行ったギャラリーのあるじが戻ってきたのだろう。まず彼はそう思った。だからこそ、何となく視線を向けた時に首をひねったのだ。

 さも当然のように押しかけて来たその若い男は、見覚えのない人物だったからだ。客として入り込んだのだろうか? しかしギャラリーの入り口には「準備中のため本日は閉店しました」とある筈だ。わざわざそれを無視して突入する輩がいるのだろうか。それに……男の佇まいや気配にただならぬものを画家は感じていた。


を知らぬか、そこの人間よ」

「な、何を言って……」


 その言葉が男へ向けた問いかけなのか、単なる独り言だったのか。若き画家には解らなかった。男が臆せず刃物を懐から取り出したのだから。もはやそれどころでは無かった。

 文化包丁の濁った輝きに画家はたじろぎ、後ずさる。壁にかけようとした作品が音を立てて倒れていく。

 それから――大理石の床に鮮血が飛び散った。

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