狂気へと誘うものはコドクなり ※残酷描写あり

 火曜日。源吾郎はすっきりとした気持ちで目を覚ました。月曜日の段階で連絡があったのだが、紅藤たちは昼前に研究センターに戻って来るそうだ。今日は雪羽も出席しているから、昼から戦闘訓練をしてくれるという。前にやったのがパズルを解くようなものだったから、今日はタイマン形式の実戦だろう。

――雷園寺と闘えるのか。ああ、楽しみだなぁ……

 カーテンの隙間から漏れる陽光を見つめ、源吾郎はにたりと笑った。口許から涎が垂れそうになったが気にしない。

 気力体力妖力共に満ち満ちているのを源吾郎は感じた。新しい護符のお陰だろう。昨日はそれほど感じなかったのだが、護符の持つ力が源吾郎に馴染んだ証拠なのかもしれない。

 それに目覚める前に見た夢が、源吾郎を良い気分にさせていた。雪羽と相争う戦闘訓練の夢だ。夢の中で源吾郎は雪羽をやすやすと打ち負かし、ぼろ雑巾のようにずたずたに引き裂いてやったのだ。相手の肉体を引き裂き、吹き出す血潮を浴びながら、源吾郎は夢の中で高揚感を抱いていたのだ。


「…………」


 源吾郎は寝癖を整えつつ軽く首を傾げた。夢の事を思い返していたのだが、何かを覚えたのだ。ごく自然に考えている事が奇妙に歪んでいるような感覚である。しかし深くは考えなかった。寝起きだから頭がぼんやりしているし、深く考えようとすると、意識の輪郭が薄れる不快感を味わったからだ。

 違和感について考えるのをやめた源吾郎は、空腹を覚えている事を知覚した。既に目を覚まし、鳥籠の中で跳ねまわるホップを見たからかもしれない。とはいえ、源吾郎は別にホップを食べれるだとか、そう言う目線で見ている訳ではない。乱雑に掴めばすぐに仕留められるだろうが、肉の量も妖力の量も全くもって少ないからだ。それこそ、一口食べて終わってしまうような小鳥に過ぎない。

――とりあえず弁当を作ろうか。あ、でもその前に朝飯を食べないとな。冷凍庫にも肉があったから、ちょっと解凍して用意しようか。豚肉は生じゃあ危ないけど、鶏肉とか冷凍マウスだったら半生でも大丈夫だよな。そうだ、ちょっと、いやがっつり肉を齧ってから弁当に取り掛かろう。

 源吾郎は朝食の事を考え、意気揚々と冷蔵庫に向かった。冷蔵庫の脇に置いてある食パン――普段はこれにチーズを添えて朝食としている――は一顧だにしなかった。ともかく今は肉が、特に血の滴るような新鮮な肉が食べたかった。

 小鳥の羽ばたきがせわしく鼓膜を震わせる。何を思ったかホップはバタバタと鳥籠の中で羽ばたいているのだ。しかし源吾郎が振り返って睨むと、小さく啼いて隠れてしまった。

 

 結局のところ、源吾郎は冷凍マウスを電子レンジで無理やり解凍し、解凍した数匹分を朝食にした。電子レンジで解凍する最中にマウスたちは爆ぜて中身があらわになっていた物もあったが、源吾郎は気にせず頬張った。今まではそういう物を見るのを気持ち悪いと決めつけていた節があった。だが今は、何故かつての自分がそう思っていたのか不思議でならなかった。

 普段のでは考えられぬほど雑で生臭い食事だったのだが、源吾郎はこの食事に満足し、ついで落ち着いた気持ちになったのだ。おのれの考えや感覚に対する歪みのような違和感も綺麗に消え去り、文字通り爽やかな朝を満喫できていた。

 ああ、今日は本当に良い日になりそうだ。一日中天気も良いみたいだし。戦闘訓練にうってつけだろうな。ああ、早く戦闘訓練をりたいなぁ。こちとら力もみなぎってるし、雷園寺の血を見る事も出来る気がする。運が良ければ仕留める事も出来るかもしれない。仕留めたら良いご馳走になるだろうなぁ。やっぱり妖怪は他の妖怪を血肉にして強くなるんだから。

 小鳥の啼き声も聞こえぬほどに静かな室内にて、源吾郎はひとり考えを巡らせ悦に入っていた。



 源吾郎がいつもより早く出社したのは、朝のルーチンに費やす時間が普段よりも短くて済んだからだ。具体的に言えば、今朝はホップの放鳥タイムが無かったという事である。

 通常であれば、ホップは鳥籠から出してくれと言わんばかりに源吾郎の方によって行ったり啼いたりして主張するのだが、何故か今日に限ってそのような行為が一切なかった。というよりも、世話をしている間中ホップはつぼ巣の奥に引っ込んでいたのだ。何かに怯え、様子を窺うように。

 ホップの妙なほどに卑屈で臆病そうな態度について、源吾郎は特に思う所は無かった。妖力を得たと言えども所詮は臆病な小鳥に過ぎないのだと鼻で笑う位だった。まぁ、雑念に囚われずに世話に専念できたから良しとしよう。

――無駄に手に縋りついてうろうろされれば、思わず握りつぶしていたかもしれないから。


 そうこうしているうちに始業時間となった。源吾郎は青松丸に命じられ、午前中は消耗品の準備を行う事になった。日頃は内気で研究室の影に潜んでいるような青松丸であるが、責任者が不在なので代表らしくサカイ先輩や源吾郎たちに指示を出し、自分も時々工場に赴いて様子見をしているようだった。

 その青松丸は、源吾郎が手に巻いている護符を見て何故か不思議そうな表情をしていた。早速護符を付け替えたんです。日曜日のやり取りを思い出しつつ源吾郎が言うと、微妙な表情で頷くだけだった。妙に素っ気ない態度の青松丸に引っかかるものを感じたが、秘密裏に渡された護符の事を話題にしているからだろうと源吾郎は勝手に納得していた。ちなみに源吾郎も約束を守って護符を新調した事は誰にも言っていない。特に今日は雪羽がいるから、尚更注意せねばならないだろう。



「どうしちゃったんですかぁ、島崎先輩。カッターの刃先なんかじろじろ見つめちゃってさ」


 右隣から聞こえる雪羽の声で源吾郎は我に返った。二人で並んで消耗品の準備をしていたのだが、雪羽の指摘通りカッターの刃先を凝視し、動きがおろそかになっていたのだ。

 コピー用紙サイズのフィルムをカッターで切り分け、名刺サイズの物に調整する。源吾郎たちはその作業を行っていた所だった。

 声をかけられた源吾郎は、視線を刃先から雪羽に向ける。有休を使って三連休を満喫した彼は、いかにも元気そのものと言った風情である。色白であるが頬はほんのりと紅潮しており、血色も良さそうだ。顔であれ何処であれ、薄皮を切り裂けば瑞々しい肉と血が露わになる筈だ。

 ぐっと湧き上がってきた衝動を押し隠しつつ、源吾郎は雪羽に応じようとした。源吾郎には演劇部で培ってきた演技力が具わっている。血肉を欲する渇望も、それこそ猫を被って押し隠せば良いだけの話だ。


「いや、ちょっと考え事をしててさ」

「ふーん。ま、島崎先輩も色々と考えてそうですもんね」


 そう言った雪羽は再び自分の手許に視線を向けていた。彼が切り分けたフィルムのサイズは均一で、きっちりとした長方形だった。雪羽は案外手先が器用なのだ。日頃の彼の言動を鑑みるとその特徴は意外な物であるのだが、こうして作業をしているのを見ていると不思議と違和感のない姿でもある。

 雷獣というのは愚鈍な分直感力に優れているという。雪羽の手先の器用さや密かな審美眼の良さも、その辺りに由来する事なのかもしれない――それが、直截的な強さに関わるか否かは別問題だが。

 源吾郎はとりあえず指示に従って動く事にしておいた。作業そのものは退屈であるが、集中していたら時間が経つのも早く感じるだろう。それに今まで通り大人しく振舞っていれば、萩尾丸が戻ってきて戦闘訓練の準備をしてくれる。その時に存分に暴れれば良いのだ……自分が優位に立って相手をいたぶるとき、雪羽がどんな顔をするのか。雪羽がすぐ隣でいるのを承知の上で、残忍な空想に耽っていた。

 フィルムを切り分けるささやかな音だけが聞こえてくるだけだった。青松丸は工場のミーティングがあると言ってそちらに向かっているし、サカイ先輩はすきま女故に何処かに潜みつつ仕事をこなしているらしい。

 源吾郎が邪悪な考えに浸っている事にまず気付くとしたら雪羽であろう。しかし愚鈍で単純な彼は、隣の妖狐がどのような事を考えているのか、気にも留めていないようだった。


「あっ……痛っ……」


 単調な作業を一変させたのは、雪羽が声を上げたからだった。痛っ、と言ってはいるものの、雪羽は痛みよりもむしろ驚きで声を出した感じである。それでも血の臭いが既に漂い始めている。

 どうした。猫を被って尋ねる前に源吾郎は既に雪羽を見ていた。何をどうしたか、刃物を操る手許が狂ったのだろう。雪羽の指先が僅かに切れ、血の玉が浮かんでるのを見てしまった。

 様々な物がセピア色にくすんで見える中にあって、雪羽の流した血だけがやけに鮮やかに源吾郎の網膜に焼き付いている。血……鮮血の甘く芳醇な香り……妖怪の糧……ああ、あんなに美味しそうなものを見せつけているんだ。こちらとて遠慮も我慢も要らないだろう。


「雷園寺……そんな、俺の前で血を流したりするなんて迂闊だなぁ……」


 思うより先に身体が動いていた。指先から流れる血を眺める雪羽に躍りかかり、おのれの爪で彼を引っ搔いたのだ。源吾郎の手指も爪も平素は人間のそれであるが、変化術を知っているがゆえにいかようにも変化が効く。半ば無意識的に、源吾郎はおのれの右手を獰猛な獣人のそれに変えていたのだ。無論鉤爪の威力は言うまでもない。

 右手の爪の先に、肉が当たりその繊維を分断する感触が伝わっていく。それは源吾郎の攻撃が成功し、呆然とする雪羽が攻撃を甘んじて受けた事に他ならなかった。爪で切りつけ裂いた場所は腕の外側だった。飛沫のように血が飛び散っただけなので、動脈や太い血管を傷つけるには至らなかった。それでも、血の色を見て源吾郎は喜び、また渇望してもいた。もっとだ。もっと見てやらないと。


「な、何してんだよ!」

「ッ!」


 しかし源吾郎の追撃は叶わなかった。まず感じたのは全身を麻痺させるような痺れだった。雪羽が至近距離で雷撃を放ったのだろう。強い電流には筋肉の動きを止める作用があるというが、まさにその通りだった。

 次に胸のあたりに何かがぶつかったような感触があった。雪羽が胸のあたりを殴ったか突き飛ばしたのだと悟ったのは、横転して背や腰、そして頭をしたたかに打ち付けた後の事だった。

 リノリウムの硬い床に頭をぶつけた源吾郎は、雪羽の事も忘れてしばし転げまわっていた。文字通り割れるように頭が痛む。だがそのうちに様々な考えが脳裏を駆け巡り、それからふいに悟った――自分が今、異常な状況にあるという事を。

 今日の源吾郎は、異様に血肉を好み、また残忍な事を行おうと目論んでいた。しかしそれは源吾郎自身の意思に由来するものではなかったのだ。

 それでは、何がおのれを駆り立てているのだ? そこまで考えた時、源吾郎は胸を抑えた。妖怪の体力故か打ち付けた頭の痛みは治まっている。しかし何かがおのれの中で暴れ始めているのを感じた。自分ではない何かが自分の中に巣食っている。それが血と暴力を欲しているのだ、と。


「ら、雷園寺っ!」


 顔を上げて源吾郎は雪羽に向かって叫ぶ。血で濡れた腕を押さえながら雪羽は源吾郎を見下ろしていた。表情は解らない。怯えているのか憎悪の眼差しを向けているのか能面のような表情なのか、今の源吾郎には判断できなかった。

――何ヲモタモタシテイル。狐風情ガ逆ラウナ


「血……俺に……モットヨコセ……近づくな。……肉ト臓物ヲ……お前が危な……喰ラッテ……逃げるか……先輩を呼んでくれ」


 内なるものは既に、源吾郎の中で大人しくするのを良しとしなかった。源吾郎が口を開くと、図々しくも割り込んで、源吾郎の口を借りて意思表示しようとする始末である。このままでは、オロオロする雪羽を本当に襲いかねない。

 未だに床を転がりながら、源吾郎はおのれの尻尾を一本ひっつかみ、牙を突き立てた。鋭い痛みに気が遠くなりそうだったがその行為に躊躇いは無かった。自分で自分に被りつくのは正気の沙汰とは言い難い。しかしそうでもしなければおのれに巣食う化け物を抑える事は出来ないだろう。唇や舌を細かい毛が刺激して気持ち悪い。モケモケした硬い毛の間から血と生肉の味がするのももっと気持ちが悪い。尻尾から口を放した源吾郎は、今度はおのれの腕に噛みついた。痛みは尻尾よりも鋭い。ついでに言えば血の味が気持ち悪い事には変わりはない。


「島崎君! しっかりして!」


 誰かの、雪羽以外の何者かの声が鼓膜を震わせる。触れられていないにもかかわらず動きが封じ込められ……おのれから何かが引きずり出されるのを源吾郎は感じた。引きずり出されている際には痛みや不快感は無かった。むしろ何も感じない所が不気味であると言った所か。


「サカイさん! あれってもしかして……」

「あ、アレは蠱毒じゃない。でも、どうして島崎君の中に……?」


 いつの間にか拘束も引きずり出される感触も収まっていた。源吾郎は半身を起こし、声のする方に視線を向ける。駆けつけて処置してくれたのは姉弟子のサカイ先輩だった。彼女はローブの端から奇妙な触手を繰り出して何者かを拘束している。

 源吾郎の視線はその何者かに釘付けだった。それは中型犬ほどの大きさのある、奇怪な生物だった。蠱毒と呼んでいたに相応しく、それは数種類もの蟲や爬虫類を掛け合わせたような奇怪な姿を取っている。胴体は芋虫なのにムカデの脚や蜥蜴の前足を具え、背には蝦蟇のイボを生やしていると言った塩梅である。また悍ましい事に、サカイ先輩に拘束されつつもその姿を変えつつあるのだ。細長く伸びたり、丸まって膨らんだりしているのである。

 そいつは源吾郎の視線に気が付くと、そちらに向けて身体の一部をぬーっと伸ばしてきた。膨らんだ先端が花開くように裂けて、そこから小さな狐の顔が出てきたのである。

 笑う狐の顔を見た源吾郎は、事もあろうにその顔にを覚えてしまった。その数瞬後、源吾郎は蠱毒の気味悪さとおのれの考えのちぐはぐさと今の状況にこらえきれず嘔吐を繰り返し、力尽きてその場に伏せて失神した。

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