若狐ひそかに貰うはまじないか?

 普段の源吾郎であれば、日曜日は外出して羽を伸ばす事が多かった。だが今日は本宅である研究センターの居住区に引きこもり時間を潰そうと思っていた。

 それもこれも、昨日出会った八頭怪の存在に恐れをなし、警戒していたがための判断である。いかな源吾郎と言えども、八頭怪の恐ろしさ危険さは知っていたし、それ以上に紅藤が頼りになるとも思っていた。

 源吾郎の今の住処は紅藤の膝元である。紅藤自身は八頭怪の方が自分よりも強いとは言っていたが、それでも他の所にいるよりはマシであろう。何より強大な力を持つ妖怪の庇護下にいるという点でもって、源吾郎は安心できた。

 誰かの庇護下にある事で安堵するというのは、野心に満ち満ちた源吾郎らしからぬ考えかもしれない。源吾郎はしかし、今のおのれの心境については特に疑問は持っていなかった。末っ子であり末っ子気質の抜けない源吾郎は、必要とあらば誰かに甘え頼る事も辞さない男なのだ。


「ホップ」

「ポッ……プ」


 気まぐれにホップの名を呼ぶと、ホップも啼き返してくれる。ポッ、ポッ、という奇妙な啼き声は別に以上でも何でもないらしい。彼も妖怪化しているので、少しずつ人語を……妖怪の言葉をマスターしつつあるだけとの事だった。時間が経ち妖怪として育てば人語を話す事も変化する事もできるようになると、この前鳥園寺さんが教えてくれたところだ。ただ、彼女は微妙な表情で解説していたのだけど。


「今日は一日、まったり過ごそうな」

「プッ!」


 源吾郎は言いながら壁に埋め込まれた時計を見やる。朝の放鳥タイムが終わって互いにのんびりしている所だが、まだまだ日曜日としては早い時間帯でもある。兄から貰ったノートパソコンやこの部屋に持ち込んでいる本で情報収集して一日を過ごそうではないか。源吾郎はそう思っていたのだ。



 誰かが、いや紅藤が部屋の前に来訪したと気付いたのは九時前の事だった。インターホンが押されたとか、ドアがノックされたとか言う事ではない。源吾郎の部屋まで、彼女の妖気がじんわりと届いてきたのだ。それで源吾郎は「紅藤様が来たのだ」と気付いたのだが、そうして気付けた事に少し驚いてもいた。紅藤が妖気を放っていると感じたのは生誕祭のあの場だけだったからだ。

 とはいえ源吾郎は迷わず入り口に向かい施錠を解いた。紅藤が来ているという事は何がしかの用があっての事である事は明らかだからだ。わざわざ紅藤が源吾郎の居住区に赴いたのは初めての事だった。だから余計に大切な用事があると思ったのだ。

 そうでなければ、連絡事を出勤日まで持ち越すだろうから。


「どうされました、紅藤様」

「あら、島崎君……」


 ドアを開けると案の定紅藤がいた。源吾郎を見て少し驚いた表情を浮かべているようにも見える。先手を打って源吾郎が紅藤に呼びかけたからなのかもしれない。


「休みだったんで部屋でくつろいでいたら、紅藤様の妖気を感じましたので……何か大切な用事があってこられたんだと思ったんです」

「明日の事を連絡しようと思って来たの」


 源吾郎の言葉を聞いた紅藤は、はっきりとした口調で言い放った。


「緊急の幹部会議が入ったから、明日は私も萩尾丸も終日本社の方にいるわ。火曜日も、午後からこっちに来る予定です」


 緊急の幹部会議。紅藤を始めとした八頭衆が集まるという会合の話を聞いた源吾郎の脳裏に浮かんだのは、八頭怪のいびつな翼だった。このタイミングに緊急会議と言えばもうそれしか考えられない。何せ普段は会議をサボるという紅藤まで出席するのだから。


「やっぱり八頭怪の事ですよね」

「もちろん、それもありますわ」


 言いながら紅藤は軽く瞼を伏せた。やっぱり紫苑様は紅藤様に連絡してくださったんだ。何処となく物憂げなその仕草を見ながら源吾郎は思った。


「島崎君、八頭怪に会って驚いたでしょうに、きちんと紫苑ちゃんに報告してくれて嬉しいわ。やっぱり、こういう話は私たちで共有しないといけませんから……」


 源吾郎の頬が僅かに緩む。嬉しいという紅藤の言葉を聞き、褒められたのだとその時思ったためだった。


「――だけど、これからはこういう話はまず私や萩尾丸に直接言って欲しいの」

「あ、すみません」


 紫苑が言った事が脳裏をよぎるも、源吾郎は気まずさを覚えて謝罪の言葉が口を突いて出た。紅藤は気まずそうな表情を作り、雉鶏精一派とは一枚岩の組織とは程遠いのだと教えてくれた。八頭衆であっても、場合によっては互いを監視し合い、或いは出し抜こうとしている事もある、と。


「今回は紫苑ちゃんだったから良かったですけれど……他の幹部や側近たちの中には、私たちの事をよく思っていなかったり、腹の探り合いを行おうと思っている手合いも一定数存在するのよ」


 今回の幹部会議も、表向きの議題は八頭怪の対策会議らしい。しかし真の目的はやはり相手の動向を窺うという色合いが強いのだと紅藤は告げた。

 中々に難儀な話だ。源吾郎がそんな事を思っていると、紅藤がさらに続ける。


「あとね、明日は雷園寺君はお休みだから」

「休みって……具合でも悪いんですか」


 唐突に繰り出された雪羽の欠席連絡に源吾郎は目を丸くした。金曜日に雪羽を見た時は、健康そのもので特段変わった様子はなかったが。そう思っていると、紅藤が軽く首を振った。


「休みと言っても体調不良とかじゃなくて有休を取ってるだけよ」

「そう言う事ですか」


 有休。この言葉を咀嚼する源吾郎は思案顔になっていた。入社して半年未満の源吾郎には有休はまだないが、有休というシステムについては何となく知っている。ありていに言えば事前申請すれば休んでも問題ないというシステムである。もちろん病欠に有休を充てる事もあるらしいが、休みたい日に休むという使い方の方がメインのようだ。学校生活での休みと有休は全く異なる物であるとは頭で解っているものの、考えれば考える程不思議なシステムでもあった。


「あら島崎君。雷園寺君がお休みで寂しいのかしら?」

「別にあいつが休みだろうと何だろうと気にしませんがね、僕は」

「そうなの。最近休み時間とか二人でくっついてじゃれ合ってるように見えたから」

「…………」


 雷園寺君と仲良くなってきたんでしょ? 言外に紅藤に指摘され、源吾郎は何故か気恥しさがこみあげてきて視線を床に向けた。

 紅藤の指摘通り、源吾郎と雪羽はこのところ、休憩時間に行動を共にする事が増えていた。厳密に言えば、雪羽が源吾郎にくっつき、何かと絡んでくるだけに過ぎないのだが。

 源吾郎は雪羽との休憩時のやり取りはかなり受け身に回っているのだが、それでも二人のやり取りが成立している所には源吾郎の態度も関わっていた。完全に拒絶すれば雪羽を追い払う事だってできるのだから。

 そう言った強硬手段を源吾郎が取らなかったのにはいくつか理由がある。雪羽ともめ事を起こせば厄介だと思っている所もあったし、何より彼の保護者達への気兼ねがあったのだ。これからも雷園寺の坊ちゃまと仲良くしてくれたら。三國の側近である春嵐の言葉は、彼や三國のが籠められているように思えてならなかった。

 ともあれ、日が経つにつれて雪羽が源吾郎に投げかける言葉も増えていったし、源吾郎も雪羽が絡んでくる事に慣れていった。雪羽は源吾郎の持つ妖狐の能力を聞き出して知ろうと奮起していたが、話題は互いの身の上話や近況に発展する事もしばしばあった。源吾郎の応対はまだぎこちない所もあったが、頬を火照らせて語る雪羽に相槌を打つ姿は、大人の妖怪から見れば十分に仲が良さそうに見える物なのかもしれない。


「まぁ心配したり寂しがったりしないで大丈夫よ。明日私たちはいないけど、青松丸やサカイさんはちゃんと研究センターにいますから。二人の指示に従って、困った事があれば二人に相談すればいいわ」

「解りました、紅藤様」


 源吾郎が返事をすると、紅藤は今再び笑みを見せてそのまま去っていった。



 一日中引きこもっておこう、と意気込んだ源吾郎であったが、結局の所ママチャリにまたがり外出する事になった。午後三時を目前とした、昼下がりの事である。

 外出先は図書館だった。九頭駙馬――八頭怪の前身であり、西遊記等に記載があるのだ――について自分が持つ本やネットで調べていたのだが、どうにも限界があると感じたためだった。参考文献を見れば何か掴めるかもしれないと思っていたし、自分が知っている事しか書いていないとも思えた。

 八頭怪ももちろん弱点はある。九頭駙馬だった頃に哮天犬に頭を咬み落とされ、八つ頭の八頭怪に成り下がった。まぁ要するに哮天犬や彼に匹敵する能力の犬がいればどうにかなるという話だ――哮天犬を味方に付けたり、哮天犬クラスの犬を見つけ出す事が出来れば、であるが。

 哮天犬が雉鶏精一派の味方にならないであろう事は、若狐たる源吾郎も重々解っている。むしろ哮天犬は雉鶏精一派の敵ともいえる。かつて源吾郎の曾祖母たちが三妖妃として紂王を籠絡していた時、九頭雉鶏精たる胡喜媚の頭を咬み落としたのは他ならぬ哮天犬なのだから。むしろ雉鶏精一派が今もこうして繁栄できているのは、哮天犬や彼のあるじののためと考えても良かろう。

 また、哮天犬を武力で制圧し従わせるという方法も使えない事は言うまでもない。不意打ちと言えども、哮天犬は単騎で孫悟空にかぶりつき、石でできた頑健な身体を引き倒したのだ。それこそ八頭衆が一丸となって立ち向かったとしてもどうにかなる相手では無かろう。

 何か手掛かりは無いだろうか――そう思って駆けずり回る事が気晴らしになるのかもしれない。知らず知らずのうちにそのような考えに源吾郎は至っていたのかもしれなかった。



「おや、島崎君だね……」


 図書館を出て研究センターに向かう道中。軽く手を挙げたその人物に呼びかけられ、源吾郎は自転車から降りた。自転車を脇に置いた源吾郎は親しげな笑みを見せ、その人物に疑いなく近寄っていく。

 ある意味八頭怪の事でピリピリしていた源吾郎がここまで懐っこい様子を見せるのも無理からぬ話だ。相手は顔見知り、それも紅藤の息子である青松丸だったのだから。青松丸の事は影の薄い妖物じんぶつであると考えていたが、彼の穏和な雰囲気や落ち着いた物腰を源吾郎は好いていた。単に、研究センターの面々が曲者揃いというだけなのかもしれないけれど。


「青松丸さん、こんにちは。こんな所でお会いできるなんて珍しいですね」

「こんにちは。もうすぐ夕方になるけれど、まだこんにちはで済むねぇ」


 やや畏まった口調で呼びかけた源吾郎に対し、青松丸はのんびりとした調子で応じてくれた。青松丸に近付いた源吾郎の瞳には驚きの色もありありと浮かんでいた。萩尾丸を研究センターの外で見る事は殆ど無かったからだ。そりゃあもちろん、彼も生活のために研究センターの外に出たり、紅藤たちから離れて余暇に勤しんだりしているだろうけれど。


「それにしてもどうしたんでしょうか。僕に声をかけてくださったみたいですが」

「ふふふ、島崎君に用があってね……君に渡したいものがあるんだ」


 渡したいもの。唐突に言われて首をかしげていた源吾郎だったが、青松丸がバッグから用意したものを見て納得した。薄紫の玉をあしらった、ストラップ状の護符である。源吾郎が護身用に足首に付けている物とほとんど同じように見えた。

 半分とぐろを巻いた小さな蛇のような護符を、青松丸は何のこだわりもなく手のひらの上に載せている。源吾郎に見せつけているようでもあった。


「昨夜八頭怪に出くわしたって聞いたからね。師匠の紅藤様が心配して、君のためにわざわざ用意してくれたんだよ。ほら、どうぞ」

「ありがとうございます……」


 源吾郎は礼を述べるや否や、その護符を受け取った。少しぬめっているような感じがしたが、特に気にも留めなかった。玉の中には濡れていなくても表面がぬるぬるするものもあるし、手の平の汗や脂をわずかに吸収したのかもしれないし。


「前の護符よりも強いやつを用意してくれたから、これからはその護符を付ければ安心できるからね」


 そうだ、と思い出したように青松丸が手を伸ばす。


「何なら、前の古い護符を僕が回収しておこうか?」

「あ、それは大丈夫ですよ。足に巻いているんで、すぐには取れないんです」

「そっか。それなら仕方ないかな」


 護符をミサンガよろしく足首に巻いている。その話を聞いた青松丸は仕方なさそうに、やや困ったように笑っていた。


「そうだ島崎君。新しい護符の事は僕たちの秘密だからね。天狗の萩尾丸さんとかに知れちゃうと、新しい護符代を徴収されるかもしれないからね」

「それは大変な事ですね。解りました。秘密にしておきますんで!」


 秘密の護符。それを手にしながら源吾郎は妙に胸が高鳴るのを感じた。青松丸は真面目でちょっと陰キャっぽくて面白味が無いと今まで思っていた。しかしこのやり取りを通して、茶目っ気のある一面があるのだと知った気がした。

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