雉仙女 瞋恚の焔を宿すなり

 蠱毒とは日本や大陸に古来より伝わる呪いの術である。所謂丑の刻参りに較べれば知名度はやや劣るかもしれないが……呪いの内容・効力に関しては丑の刻参りにも劣らない程である。いや、物によってはより凶悪な術であると呼んでも遜色は無いだろう。

 蠱毒の術の悍ましさや強力さに関しては、その製法を鑑みただけで察しが付く。字のごとく無数の蟲や小動物を用いて造り出す術なのだ。密閉空間にて互いを喰らい合う地獄の中を生き抜いた最後の一匹こそが、この外法の術で扱う蠱毒となる。蠱毒の基となる生物はおおむね蟲や蜥蜴や蛇などの小動物である事が多いが、恐るべき事に犬や猫が使われる場合も珍しくない。それらは犬神・猫鬼と呼ばれて区別されるが、本質的には蟲毒と変わりない。

 そうして生み出された蠱毒は、あるじに富や名声をもたらすために利用されるという。その蠱毒があるじにもたらすものが、血生臭く忌まわしいものである事は言うまでもない。蠱毒そのものが血肉に餓えているからだ。むしろ定期的に生贄を用意せねばあるじとて喰い殺される恐れもある。

 だからこそ蠱毒は外法中の外法として忌み嫌われ、各地で弾圧されてきた。


 妖怪たちにとっても蠱毒は危険な存在である。直截的に蠱毒に襲われて命を落とす事も若い妖怪ならばあり得る。また逆に蠱毒を喰い殺して取り込んだとしても、生半可な妖力しか持たぬ妖怪であれば、毒気に侵蝕されて自身が新たな蠱毒になる事も十分に起こりうる。

 島崎源吾郎がその身に受けたとは、そのような物だったのだ。



 ゆっくりと目を開いた源吾郎は、焦点が定まるまでの間に三、四度瞬きを繰り返した。動きは緩慢だが、頭の中では色々な考えが目まぐるしく浮かんでは消えていく。まず、自分がさっぱりしたような爽やかな香りに包まれている事に気付いた。ゲロまみれの床の上に顔面から倒れ込んだにも関わらず、である。

 次に思っていたのは夢の余韻の事だった。長い夢を見ていた気がする。ぬかるんだ薄暗い道を自分は歩いていた。何かを探して、或いは何かに追い立てられながら。辿り着いた先の花畑には、獣と蟲と蛇を無理やり継ぎ合わせたような化け物を手なずけていた男がいた。その男は源吾郎の大伯父であり八頭怪でもあった。化け物は源吾郎にすり寄り、何か恐ろしい事を言っていた気がする。だがそんな連中に白い毛皮の大きな獣が飛びかかって喰い殺し、忌まわしいものを灰燼に戻してくれた。その獣は八頭怪の天敵である哮天犬こうてんけんかとまず思った。しかし長い尻尾を九本持つ、オスの九尾だったのだ。前に出会った九尾様だ。夢らしい支離滅裂さでもって源吾郎は安堵し――そこで目を覚ましたのである。


「島崎君……」


 呼びかける声が斜め上から聞こえ、源吾郎はのろのろと半身を起こした。傍らには紅藤が座っていた。普段通りに笑みを浮かべているが、憔悴と疲労の色が見え隠れしている。身体のあちこちが微かに痛むのを感じながら、源吾郎は渋い表情で彼女と向き合った。


「申し訳、ありません……」


 源吾郎の口から出たのは謝罪だった。紅藤は微動だにせず彼の言葉を促している。


「会議でお忙しい最中だというのに俺、変な事をしでかしてしまいました。しかも、雷園寺を傷つけて……」

「……落ち着いて。大丈夫。大丈夫だからね島崎君」


 紅藤が上半身を前に寄せ、源吾郎に語り掛ける。悪夢にうなされた幼子をなだめるような口調だった。雷園寺は何処にいる――? 源吾郎は一瞬視線を左右に振り、雪羽の姿を探した。しかしそれらしい影は見つからない。


「結論から言うと、二人とも肉体面では大事に至らなかったわ。雷園寺君の方は治療している時には既に傷も塞がっていました。むしろ怪我の程度は島崎君の方が重かったわ。何しろ蠱毒の毒気にあてられていた上に、打撲や咬み傷もあったから。

 あ、でももう大丈夫よ。毒抜きもこちらでしっかり行いましたし、傷の消毒や治療も済んでいるわ。治るまでには少し時間がかかるでしょうから、くれぐれも無理をしないようにね」


 ありがとうございます。源吾郎は礼を述べて頭を下げたが、すぐに顔を上げて紅藤を見た。


「蠱毒って、俺の身体から出てきたアレですよね……?」


 そうよ。紫の瞳を輝かせて紅藤は短く応じる。笑みを浮かべているはずなのに、何か冷え冷えとしたものを感じた。


「今更かもしれないけれど、蠱毒についておさらいしましょうか。蠱毒とは恐るべき呪いの術。無数の小動物を喰い合わせた末に生き残った一匹を使役する外法の術よ。概ね富や名声を得るために、もっと言えば望みを叶えるために使うそうですが……あるじすらも喰い殺すようなモノを扱う訳ですから、正道の術とは言えないわね。

 だけど安心して頂戴。アレは私の方で平らげました。持ち主を特定するために一部サンプルを残しておりますが、アレの九割九分九厘は私が美味しく頂いたから、もうアレが何者かを害する事はありません」

「食べたんですか、アレを!」


 思いがけぬ言葉に源吾郎は目を白黒させる。紅藤の指摘通り、源吾郎も蠱毒の危険性は知っている。だからこそ蠱毒を捕食したという紅藤の言が信じられなかったのだ。そりゃあもちろん、ある程度の術を心得た妖怪であれば、蠱毒を斃す事は可能である。味等々を度外視すれば食べる事も出来るだろう。しかし迂闊に蠱毒を捕食すれば、蠱毒の持つ毒気や呪詛に侵蝕されるのがオチだ。

 間違っても、「スタッフが美味しく頂きました」みたいなで食べていい代物などではない。


「私については心配いらないわ。まぁ、たまにはあんなも良いかもって思ってるわ。サカイさんが欲しがってたけど、あの娘にはちょっと危ないから食べさせてないし」

「…………」

「うふふふふ。あの蠱毒は蟲がベースですから、鳥妖怪の私とはある意味相性が良かったのよ。それにね島崎君。蠱毒を捕食した私が蠱毒に害されないかという心配は、バケツ一杯の溶岩を瀬戸内海に流したから、瀬戸内海が干上がらないかって思うのと似ているわ」


――安心して良いのかどうか解らん

 穏やかな笑みを浮かべる紅藤を見ながら、彼女の身の安全について思いを馳せるのを打ち切った。彼女の言動については色々と突っ込みたいところはあるが、大丈夫と言い張るのならば大丈夫なのだろう。思えば彼女は遊び感覚で白銀御前と互角に闘い、莫大な妖力で工場のメンテを行っている。大妖怪という枠組みからもはみ出すような御仁なのだ。

 そんな事を思っていると、紅藤は真面目な表情になった。


「アレの出所についてだけど……」


 出所。この言葉に源吾郎はすくみ上った。紅藤から質問を受けるであろう事は寝起きの源吾郎であっても既に予測済みである。原因究明のために紅藤が事実を知りたがっている事は解り切っているが、本当の事――青松丸から貰った護符が異変のきっかけであるというべきか否かと源吾郎は思い悩んでいた。

 青松丸が紅藤の息子であり、能力云々を差し置いて弟子たちの中で特別視されている事は知っている。その彼が源吾郎を害する行動をしたと知れば、紅藤はひどく葛藤するであろうと。

 ところが、紅藤はそんな源吾郎の悩みなど気付いてない様子だった。


「アレは島崎君が手首に付けていた護符に、いえ護符モドキに宿っていた物ですわ。日曜日の午後に、青松丸と――私の息子とから受け取った物でしょう」

「――!」


 予想に反し、紅藤は出所を問いかける真似はしなかった。彼女の口から出てきたのは事実確認のようなものだった。何故彼女が、実際に見聞きしていないはずの事柄を知っているのか。疑問はあったがそれこそ追求しようとは思わなかった。

 何せ相手はチート(イカサマ)能力持ちの紅藤なのだ。秘蔵っ子たる仔狐の行動を知る事など造作もないのだろう。


「ごめんね島崎君!」


 素っ頓狂な声を上げて姿を現したのはサカイ先輩だった。すきま女よろしく何処かに潜んでいたのだろう。彼女はせわしく紅藤と源吾郎とを交互に見ている。


「勝手に島崎君の記憶を覗いて、個人情報の一部をお師匠様に横流ししたのは、わたしなの。島崎君も、雷園寺君も、蠱毒のせいで精神的ショックが凄かったから、わたしが、少しマイナスの感情を取り込んだの。その、蠱毒はお師匠様が独り占めしちゃったし。それで、その時にちょっと島崎君の記憶を探ったの。蠱毒を受け取ったきっかけ、わたしたちも知らないといけなかったから」

「いえ、大丈夫ですよサカイ先輩。むしろ色々と気を使って頂いて嬉しいです」


 たどたどしくも雄弁に語るサカイ先輩に対して、源吾郎は小さく頭を揺らして応じる。個人情報流出については特段気にしていない。そもそも紅藤の膝元で暮らす事になってから、そう言ったものを棄てねばならないと覚悟を決めた所である。それよりも色々な事が腑に落ちた気分になり、源吾郎は一層落ち着いてもいた。すきま女であるサカイ先輩は日頃から心の隙間を探しているという。そんな彼女であれば、相手の心を読む事も造作ないだろう。また、負担にならないように負の感情を吸い取ってくれた事についても素直に感謝していた。

 そう思っていると紅藤が紫の瞳を輝かせた。瞳の奥に、烈しい焔が揺らめくのを見出した気がした。


「島崎君もあなたの記憶を読み取ったサカイさんも、日曜日の午後に出会ったのは青松丸だと思っているみたいね。だけどね島崎君。あなたが出会い、蠱毒入りの魔道具を渡したのは青松丸ではありません。青松丸に成りすました何者かなのよ。

――もちろん、青松丸にはアリバイがあるわ。身内だからそう言ってるわけじゃないの。物的証拠だってきちんとあるし」


 言うや否や、紅藤は何処からともなく愛用のタブレットを取り出した。映し出されているのは青松丸がくつろぐ様子である。彼の自室だろうか。しかし特筆すべきは画面の右下に表記されている日にちと時間だ。それはまさしく、源吾郎が青松丸と思しき人物から「護符」を受け取っていた時間帯だった。


「これはまぁ研究センターの各地に配備している監視……いえ安全カメラの術式が捕らえた映像よ。もちろん画像の改竄かいざんが出来ないような術も機能しています。青松丸は日曜日あなたには会っていない。もちろん護符を渡したりなんかしてないわ。彼の無実については解ったでしょ」


 源吾郎は小さく頷くしかできなかった。ついでに言えば傍らに控えるサカイ先輩も押され気味である。サカイ先輩の報告を聞いて、青松丸に掛けられた嫌疑を晴らそうと紅藤が思うのは当然の事だ。しかしそのために、若干躍起になっているような気配も見受けられた。

 源吾郎たちがただならぬものを感じている事に気付いたのだろう。紅藤は晴れやかな笑みを貼り付け、こちらを見た。


「青松丸に扮し、島崎君に蠱毒を押し付けた輩については、あなた達は何も気にしなくて大丈夫よ。私の方から直々にあぶり出して――潰して差し上げますから」

「…………」


 頷く事も視線を逸らせる事も出来なかった。紅藤はにこやかな笑みを見せながら今後自分がどうするかを述べたに過ぎない。笑みは晴れやかでその口調には優雅さすら感じられた。しかしだからこそ、彼女の裡に潜む怒りの強さ烈しさが際立った。

 紅藤の瞳の奥で揺らぐもの。それはまごう事なき瞋恚しんいの焔だったのだ。


「私の弟子に危害を加えた事だけでも腹立たしい事ですのに、ましてや相手は青松丸に化けていたのよ。島崎君を騙し、しかも青松丸を陥れる魂胆でね。

 良いかしら? 青松丸に化けて悪事を働くという事は、私たち親子への侮辱だけではなく、雉鶏精一派への明確な挑発行為に繋がるのよ? 確かにあなた達から見れば、青松丸は研究センターの大人しい先輩にしか見えないかもしれないわ。だけど忘れないで。青松丸は雉鶏精一派の頭目・胡琉安様の兄であるという事を。八頭衆の一角になっていたかもしれないし、摂政として頭目を支えていたかもしれない。そう言う地位と能力の持ち主なの。

――ともあれ、今回の案件については私が動きましょう。荒事は峰白のお姉様や萩尾丸が得意かもしれませんが、私自身がやらないと気が済まないわ」


 この時の紅藤は、心からの笑みを浮かべていた。その事に気付いた源吾郎だったが、どうにもできずに引きつった笑みを浮かべるのがやっとだった。病み上がりという事もあるが、紅藤の妖怪らしい一面を目の当たりにして当惑していたのである。


瞋恚の焔:燃え上がるような激しい怒りや憎しみ、怨みの事。

瞋恚とは仏教用語で自分の心に逆らうものを怒り憎むことである。(作者註)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る