泥濘に沈みて妙案浮き上がる
「ホップ、今日は一日中家を空けるけど、良い子でお留守番できるかな?」
「プッ、ププッ!」
「大丈夫だよ。ちょっと用事があるだけだけど、夜には帰るから」
「ピュイ、ピッ」
土曜日の朝。出かける支度を済ませてから源吾郎はホップに声をかけた。蠱毒の一件で源吾郎を避けていたホップであったが、その態度も徐々に軟化しているようだった。今日だって源吾郎の声掛けに返事しているし、先程の放鳥タイムの時も逃げまどわず、手を差し出すと素知らぬ顔で乗って来てくれたのだから。
今日は叔父が言っていたかいぼりの日だった。有償でのかいぼり参加については事前に紅藤に許諾も取ってある。それにずっと吉崎町でごろごろしていてもつまらないので丁度良いガス抜きになると源吾郎は思っていた。
特に雪羽とのタイマン勝負では負け続きなので尚更だ。
※
「あ、よく見れば島崎君じゃないっすか。かいぼりに参加してたなんて奇遇っすね!」
主催者である河童の指示に従って並んでいる源吾郎に親しげな声がかけられる。声の主は珠彦だった。驚いたように目を丸くしていた彼であるが、源吾郎に再会してすぐに嬉しそうな表情を見せてくれた。
「お、野柴君も参加してたんだ。こんな所で会えるなんて」
源吾郎はそれから、目を伏せつつ理由を言い添えた。
「最近ちょっと出費が増えて、叔父がここを教えてくれたんだよ」
「島崎君は一人暮らしだし、やりくりとか大変そうっすねー」
「ははは、まぁやりくりは気を付けようと思ってはいるんだけどな」
照れ隠しに源吾郎は頭に手を添えていた。自分が貯蓄ややりくりが苦手である事は源吾郎も良く知っていた。末っ子であるがゆえに親族たちに甘えれば小遣いをせしめる事の出来る環境下に十八年間いたから致し方なかろう。
それに兄たち(特に長兄)の言を脇に置き、お金を惜しげ無く使うのは美徳であるとも考えていたのだ。妖怪たちは人間の貨幣を用いる事があるが、長期間それを持ち続ける事はないという話を自分なりに都合よく解釈した末の事だった。
実際には、妖怪たちが同じ貨幣を持ち続けないのは貨幣の価値がすぐに変動する事を知っているからなのだけれど。
「それに、たまにはこうして住んでる町の外に出てガス抜きも良いかなと思ってさ」
ガス抜きという言葉に、源吾郎はそう深い意味を込めたつもりはなかった。
ところが、珠彦はその言葉を聞くとやや深刻そうな表情を浮かべてしまったのだ。
「確かに島崎君は今ガス抜きとか必要っすよ。今もきっと、雷園寺さんとの戦闘訓練の事とか考えてるんじゃないっすか?」
丸っこい瞳を動かしながら告げる珠彦を前に、源吾郎は間の抜けたような声を上げてしまった。まさしく図星だったからだ。しかもそれを陽キャ気質の珠彦に見抜かれたから尚更戸惑ったのだ。
源吾郎の戸惑いに気付いたらしく、珠彦はいたずらっぽく微笑んだ。
「勝負の結果とか、そんなに気にしなくても良いと思うっすけどね島崎君。雷園寺さんって、ほんの子供の頃から三國様に戦闘術の手ほどきを受けてるんでめっちゃ強いのは自然の摂理っすよ。で、それに立ち向かう島崎君も俺らにしたらめっちゃ強いっす。
……島崎君が普通の狐だったら、他の皆も応援してくれたかも知れないけれど」
珠彦の最後の言葉は考えさせられるものだった。このところ雪羽の事で頭がいっぱいだったために気付かなかったが、他の若妖怪たちとの距離が広がっている事を今ここで悟ったのだ。いや、距離が広がったというのは源吾郎の錯覚に過ぎず、元から彼らとの距離は広いのかもしれない。
島崎君が普通の狐だったら。その言葉にはそう言う意味が含まれているように思えてならなかった。
※
集まった数十名の妖怪たちの中には、アライグマやヌートリアやアナウサギの妖怪もしれっと紛れ込んでいる。それを見て源吾郎は吹きそうになり、笑いをこらえるのが大変だった。このたびのかいぼりではザリガニ等の外来種を駆除するのが主だった活動だ。だというのに活動する側に外来生物が混入しているというのは相当な皮肉であろう。
とはいえ源吾郎もまたアライグマ達を指差して「お前ら外来生物だな!」と言える身分ではない。玉藻御前の末裔である源吾郎もまた、外来種の子孫なのだから。玉藻御前はむしろ特定外来生物というか特定動物とか特定妖物に指定されそうな存在でもあろう。
在来種も外来種も妖怪も人間も関係なく、かいぼり活動は黙々と進められた。主催者である河童チームは手練れの妖怪たちだったらしく、他のメンバー(ヒトや獣妖怪などの陸生生物たち)が活動しやすいように池の水は事前に大半が抜かれていた。あとはみんなで池底に入り、繁茂したホテイアオイなどと言った外来の植物を除去したり、浅い水の中で逃げまどう魚やザリガニどもを捕獲するだけで良い、という寸法である。
妖怪たちが参加しているという事を除けば、妖怪的な要素の薄いイベントではある。それでも参加者たちは盛り上がっており、「あー、この虹色のタナゴは外来種なんかー。綺麗やのに駆除対象はかわいそうやな」だとか「ザリガニもウシガエルも肥ってるし。こりゃあ美味しそうだな」などと言った声が方々で上がっている。ごく普通の人間たちが行うかいぼりとよく似た情景が繰り広げられていたのだ。
余談だが駆除される外来生物たちは食材として持って帰る事も可能なのだという。肉食性の獣妖怪たちの中には、ザリガニやカエルを食べる事に抵抗のない者たちも多い。それにどうせ駆除するなら食材として頂こう! という考えは合理的である。妖狐や狸といった明らかに陸生の獣妖怪の参加者が多いのもそのためだろう。現に珠彦も、ザリガニとかブルーギルとかジャンボタニシなどを食材を見る目で眺めている訳だし。
源吾郎はそんな憐れな外来生物たちを食材として持って帰ろうとは特に思っていなかった。ザリガニもブルーギルも元を正せば巨大なエビや白身魚なのだろう。だが泥の中で泳ぎ回るその姿は、どうも食材には結びつかなかった。ただそれだけである。
※
さて黙々と活動していた源吾郎であるが、もうそろそろ終了時刻が近づいている事に気付いた。というのも、先程まで池の中に入っていた面々の多くが既に陸上に上がっているのを目撃したからだ。数名の、夢中になって魚取りをしていた者たちも、池の縁に向かって歩いたり、既に陸に上がって泥水で軌道を描いたりしている。
――また集中しちゃって遅れちゃったかな
源吾郎は少しだけ焦りを感じ、歩を進めた。泥水が跳ね飛ぶが気にしない。そのために汚れても良い服装で来ているのだから。
まっすぐ進めば最短距離で岸に到着するだろう。源吾郎は素直にそう思っていた。
「――!」
そうして進み始めた源吾郎だったが、その歩みは空しく止まってしまった。運の悪い事にぬかるみに足を取られたのだ。何か足許が軟らかいな、と思った時には既に事は終わっていた。源吾郎はそのまま腰のあたりまで泥の中に沈んでしまったのだ。もちろん、ぬかるみから脱出しようと苦し紛れに足を動かしてもみた。しかしぬかるみから脱する事は叶わず、余計に深みにはまりかけただけである。
――え、こんな所でぬかるみにハマるとかありかよ? しかもみんな岸にたどり着いてるし。もしかして俺、このまま一生この状態とか? いやいやいや、流石に死んでまうわ
唐突に去来したピンチの中で、源吾郎の脳裏に様々な考えが浮かんでは消える。ある種の走馬灯のような物なのかもしれない。だがその中でも、何故か雪羽の言動も結構な割合で含まれていた。
新しい護符を新調してから、雪羽はうっかりしていたのかインクで袖を汚していた。
雷雲操る雷獣であるはずなのに、雪羽は雨天でのタイマン勝負は嫌がっていた。雨と泥水が飛ぶから、と。
そしてあの護符は確か……
「狐の兄さん、大丈夫か? 今引き上げるからじっとしてろ!」
ああだこうだと考えを巡らせているうちに、スタッフの河童が駆けつけてくれた。源吾郎は畑の人参のようにぬかるみから引き抜かれたのである。
※
「兄さんもうっかりしてたみたいだなぁ。池は急に深くなってる所があるから気を付けるんだぞ」
「はい、申し訳ないです……」
源吾郎を救出したスタッフは、やや呆れた様子で源吾郎に注意を呼び掛けていた。他の妖怪たちは特に足を取られる事は無かったのに、何故自分はハマってしまったのだろう。考えながら、やはり自分が半妖だからなのだという結論に辿り着いていた。
半妖だから。これは別に妖力云々の問題ではない。もっと単純な物理的な問題である。というのも、源吾郎の肉体は何のかんの言いつつも人間の成人男性と大差ない。成人男性よりは小柄と言えども、体重も六十キロ前後はある。
一方珠彦たちのような純血の妖怪たちはそんなに重たくない。元が狐や狸であるから、体重も十キロに満たない連中も多いのだ。あの雪羽とて本来の姿は五キロもないらしいのだから。
もっとも、そう言った事を考慮しても源吾郎が不用心だった事には変わりない。
しかし、泥だらけになりながらも恥ずかしい思いをしただけで終わった訳ではない。週明けに行う雪羽との八回目のタイマン勝負にて、今回のおのれの経験が役に立つのかもしれないと思い始めていたのだ。
無論この泥まみれの経験を活かすのは何となく恥ずかしい。しかし火術・縛妖索を用いた捕縛術・結界術や幻術さえも雪羽には見切られている。ダメ元で試してみるのも悪くは無かろう。
※本作での外来生物の取り扱いは実際と異なる場合がございます。外来生物の捕獲・駆除等については必ず調査・専門家への相談を行ってください(作者註)
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