夢見の先のエリザベスカラー

 気付けば雪羽は巻方の屋敷にいた。雪羽が生まれ、十歳のころまで暮らしていた実家である。その後は……悲しい事件があって亀水に住む三國に引き取られていたのだが、その時はその事をすっかり忘れていた。

 広い中庭にいて、雪羽は弟妹たちと存分にふざけ合い、じゃれあっていた。雪羽に一番絡んでくるのは、二番目の弟の開成だった。弟妹の中で一番気が弱く甘えん坊であるから少し心配していたのだが、長兄たる雪羽にこうしてじゃれついてくる姿を見てひとまず安心していた。態度や表情にも堂々としたものが見えたのだから。

 すぐ下の弟である穂村は、少し離れた所で雪羽たちの様子を眺めている。末妹のミハルに至っては、庭の草花を眺めるついでにこちらに目を向けるという始末である。雪羽としては穂村やミハルともじゃれ合いたかったのだが――微笑みながら見つめ返すだけに留めた。兄であるからこそ、弟妹達の気持ちは尊重したかったのだ。穂村は雷獣らしからぬ冷静さを持ち合わせていたし、ミハルは思春期を迎えていたから、兄と遊ぶのをためらったのだろう。

 それに――雪羽は満ち足りていた。久々に弟妹たちに会えたわけであるし、縁側では雪羽たち兄妹を見守っている。

 長らく望んでいた家族の団欒を雪羽は楽しんでいた。丁度その時だった、雪羽の許に誰かが駆け寄ってきたのは。

 開成やミハルよりもなお幼いその雷獣を見て雪羽は戸惑った。

 その雷獣は雪羽のもう一人の弟の、異母弟の時雨だったからだ。兄さん、兄さんと時雨ははっきりとした声で呼びかけている。何故ここに時雨がいるんだろう。ああそうか……雪羽が考えを巡らせる間に、周囲にいた弟妹達の姿や屋敷の光景がぼやけ、霧散した。



 雪羽はここで目を覚ました。そしてすぐに、今まで自分が見ていたモノが夢であると受け止める他なかった。雪羽の実母と異母弟である時雨が同じ場に並ぶ事などのだから。

 薬品と妙に清潔な匂いが鼻に付く。何度か病院送りになった事のある雪羽は、すぐに自分が病室にいるのだと悟った。

 首周りには何か変なものが巻き付いている。ぼやけて見えるそれの向こう側には雪羽自身の両前足の先が見えた。どうやら変化を解いた本来の姿で寝ていたようだ。


「雪羽! 目が覚めたんだな!」


 深みのある、聞きなれた野太い声が耳朶をうつ。いつもより重たい首を巡らせて様子を窺う。案の定、そこには三國たちがいた。

 雪羽の叔父にして父親代わりの雷獣は、泣き笑いの表情を雪羽に向けていた。その彼の両脇には、鵺の月華と風生獣の春嵐も控えていた。種族さえも違うが、彼らもまた雪羽の保護者に違いない。


「あ……俺……」


 保護者達に視線を向けた雪羽は、自分も人型に変化しようとした。四肢を突っ張らせて立ち上がる雪羽の許に三國が駆け寄り、頭頂部の耳の間を撫でて制した。


「落ち着け雪羽。月華か春嵐が先生を呼んでくるから、な。肋骨にひびが入っていて、それが今丁度落ち着いたところなんだよ」


 肋骨にひび。そうだったのかと雪羽は他人事のように思っていた。そう言われてみれば何となく胴体が痛む気もする。雪羽はここでハッとした。俺はここで寝ていた訳だけど、弟妹達は――

 安心しろ。いっそ命令に近い口調で三國が言い足す。


「時雨君たちは大丈夫だ。もう元気だよ。雪羽が目を覚ますうんと前に起きて、ちゃんとご飯も食べてたからさ。深雪ちゃんは全く無傷だったしな。あの中で一番重傷だったのは雪羽だったんだ」

「時雨……無事だったんだ」

「そうだぞ雪羽。だから心配するな。あの子らは今隣の病室で休んでる。雪羽にも会いたがっていたぞ」


 雪羽はここでぺたりと身を伏せた。時雨たちが、弟妹達が無事である。その知らせを聞き、心底安堵していたのだ。何せ雪羽が最後に時雨を見たのは、松子に抱えられた意識の無い姿だったのだから。おのれの不可思議な力で呪詛を祓った事は覚えている。だがその後がどうなったのか。気が気でならなかったのだ。

 そうしているうちに病室の扉が開いた。時雨が入ってきたのかも。雪羽は反射的にそう思っていた。だが実際に入ってきたのは、何処となく猿を思わせる赤ら顔の先生――病院だから医者であるのは言うまでもない――と、男物の入院着を抱え持つ、驚くほど長身の女性看護師だった。


「いやはや、これはまた驚異の回復を遂げましたねぇ、雷園寺の大きいお坊ちゃん」


 猿顔の先生もとい医者は、赤らんでいる顔を更に赤くしながら笑った。笑った時に唇がめくれ、鼻の半ばあたりまで覆い隠しているのが見えた。この時雪羽は既に人型に戻っていて、三國や春嵐の助けを借りて入院着を身に着けた。看護師や月華がその最中を見ないようにしてくれたのは地味にありがたい。

 それにしても、猿医者の雪羽への呼びかけが独特だと思った。そういう事が考えられるほどに雪羽も意識がしっかりしてきていた。


「その歳であの傷じゃあ、それこそ丸一日は目を覚まさないかと思っていたんですがね。ともあれ、回復が早いのは良い事ですよ」

「そりゃあ当然ですよ先生。雪羽は俺の身内なんですから」

「ええ。ええ、確かに。三國さんが大きいお坊ちゃんのお父さんですものねぇ」

「ちょっと先生……!」


 上背のある看護士が頓狂な声を上げ、上半身をかがめて猿医者に耳打ちしている。医者は手にしていたカルテらしき資料と雪羽と三國に順繰りに視線を向けていた。


「ああ失礼しました。三國さんと大きいお坊ちゃんは……」

「父親で構いませんよ」


 雪羽のお父さんと呼ばれた三國であったが、彼は激することなくむしろドヤ顔で父親であると頷いていた。三國が雪羽の父親を名乗っても何も間違いはない。雪羽を引き取った後に、養子縁組の手続きを行っているからだ。

 それに三國自身も、雪羽を息子と見做し自分も父親と見做されたいと思っている事を雪羽は知っていた。

 医者はこの調子だと二、三日後には退院できる事、退院した後は日常生活に戻れるが無理や烈しい動きは当分控えるようにと伝えた。そして三國たちを見やると、立ち上がって看護師と共に立ち去った。


「……叔父さん、さっきのお医者さんお猿みたいだったね」

「お猿みたいじゃなくてお猿そのものなんだよ、あの先生は。確か狒々とか猩々とかだったんじゃないかな。

 まぁそんなに驚く事じゃないよ。この病院は緑樹様の部下たちが勤務している所なんだからさ」


 へぇ、と息を漏らしながらも雪羽は納得したような気分だった。緑樹と言えば雉鶏精一派の第三幹部である。彼自身は表立った行動をさほど好まぬ性質であったが、組織内外での影響力が大きい妖怪である事は雪羽も知っていた。酒呑童子を母方の祖父に持ち、白猿を父に持つ彼が大妖怪であるのは言うまでもない。鬼や猿妖怪が彼を慕って組織を作るのも、祖父や父親の影響を考えれば致し方ない事であろう。

 雪羽が今いるこの病院は「阪神きんくま病院」と言い、やはり緑樹の部下である鬼が院長を務めているのだそうだ。そう言った事もあり、医者や看護師、スタッフは鬼や猿妖怪、或いはそれ以外の人型の妖怪が多く在籍しているとの事であった。

 獣妖怪の患者に情け容赦なくエリザベスカラーを巻くのもまた、人間や人型妖怪の特徴である。冗談めかしたこの話は他ならぬ三國の言だった。

 三國や月華の説明に耳を傾けていると、控えめにドアがノックされる音が耳に届いた。応対すべきかどうか悩んでいるうちに、春嵐が立ち上がってドアの方に向かってくれた。


「やぁおはよう雷園寺君。言うて昼近いけれどまぁ良いか」

「あ、ありがとうございます萩尾丸様。お忙しいのに何度もご足労頂いて……」

「気にしないで良いんだよ春嵐君。今は僕が主だって雷園寺君の面倒を見ているんだからさ。それに今丁度主治医の先生に目が覚めたって教えてもらった所だし」


 やって来たのは萩尾丸だった。彼ははじめ声をかけてきた春嵐に対して二言三言言葉を交わしていたのだが、その後は流れるような足取りでもって雪羽の前に姿を現した。


「雷園寺君。昨日の救出作戦では思いがけず君に負担を強いる形になってしまって本当に申し訳ないよ」

「…………!」


 雪羽の真正面にやって来た萩尾丸がまず行ったのは謝罪だった。それもかなり真剣な調子での謝罪であるから、雪羽も驚いてすぐには何も言えなかった。


「こちらの不手際と言う他ないよ。八頭怪、いや八頭怪の力を借りた鳥妖怪が結界を張り直した後からは、もうこちらの計画も半分は潰えたような物だったからね。そのとばっちりを雷園寺君たち兄弟は被ってしまった訳だし」

「お……僕は大丈夫ですよ萩尾丸さん!」


 雪羽が思わず叫んでしまったのは、本当に申し訳なさそうな表情を浮かべる萩尾丸に驚いたからだった。ついでに言えば三國たちも無言で二人のやり取りを見ていた事も拍車をかけていた。もっとも、萩尾丸と雪羽の保護者である三國たちの間では、既に今雪羽と行っているようなやり取りは終わっているのかもしれないが。


「先生からも思っていたよりも回復が早いと言われてますし、僕はこれでも病院送りには慣れてるんですよ。病院食が美味しかったらいう事はないんですが、そんな訳で僕は元気ですよ」

「病院送りに慣れているなんて、自慢げに言う事ではありませんよ雪羽お坊ちゃま」

「まぁまぁハル君。確かに雪羽君が大けがとかしないように私たちは気を付けないといけないよね。でも、それでも病院のお世話にならないといけない時もあるから仕方ないんじゃないかな?」


 雪羽の主張の後ろで、春嵐と月華が何か意見交換を行っていた。雪羽はそうした事は特に気にせず、萩尾丸の方をひたと見据えていた。自分の病院送りの遍歴よりも気になる事があるのだから。


「萩尾丸さん。僕ら兄弟がとばっちりを受けたってどういう事ですか。叔父からは時雨は元気になったって聞いたところですが……」


 雪羽の問いかけは途中からしりすぼみになっていた。時雨は既に回復しているという三國の言を疑っている訳ではない。しかし萩尾丸はより詳しい事を教えてくれるのではないか。半ば恐れながらもそんな事を思ってもいた。


「元気になったという三國君の言葉には間違いはないよ。時雨君は今朝早朝に意識を取り戻したからね。精密検査も受けたらしいけれど検査結果は異常なしという事だよ――


 思わせぶりに言い添えた萩尾丸は、雪羽たちを一瞥してから言い添えた。


「身体的には時雨君は殆ど回復しているんだ。だけど後遺症として記憶障害があるみたいでね」

「記憶障害って、あの記憶喪失の事ですか!」


 気付けば雪羽は軽く身を乗り出していた。記憶喪失は雪羽も一応知っている。昔はよくアニメとかドラマでも記憶喪失になった人の話が放映されていた。日常生活は出来るけれど自分が何者なのか解らなくなるというアレの事だろう。

 まさか時雨が記憶喪失になっているなんて。それじゃあ時雨自身の事も何も解らないのだろうか。だけど叔父貴は時雨が俺に会いたがってるって言ってなかったっけ……色々な考えが渦巻く中で萩尾丸が言葉を続けた。


「雷園寺君。記憶喪失にも色々な種類があるんだよ。自分の身にまつわる全ての事を忘れてしまうケースもあるけれど、うんと限定的な、特定の出来事だけを忘れているケースも多いんだ。限局性健忘とか選択性健忘って言うらしいんだけどね。

 時雨君の場合は後者になるんだ。今回の事件で自分の身に降りかかった事について、一部思い出せないみたいなんだよ」

「記憶喪失って、そういう事だったんですか……」


 雪羽は萩尾丸の説明に素直に驚いていた。気になってそれとなく周囲に視線を向ける。今この場で驚いているのは雪羽だけのようだ。三國たちは既にこの話を聞かされているのかもしれないと思った。

 そうしている間にも萩尾丸は言葉を選び解説を続けていた。特定の記憶が抜け落ちる記憶喪失は、限局性健忘はいわば心を護るため機構の一つなのだという。こうした症状は災害・事故・事件・虐待・監禁などと言った心的外傷に誘発されて生じる出来事である訳で、時雨が発症しても何らおかしくないという話だった。それもそうだと雪羽は思った。時雨が一番恐ろしい目に遭ったのは言うまでもない。何せ姐やや妹と共に拉致された挙句呪詛を仕込まれて殺されかけたのだから。


「……時雨が恐ろしい時の記憶を思い出せないのは良い事なのかもしれませんね。あいつはとても怖い思いをしたんです。記憶だけでも無かった事になったのなら、それはそれで良いと思うんですが」

「成程兄らしい意見だね雷園寺君。君の気持は解るけれど……残念ながら忘れたからそれで良いという話でもないんだ」


 雪羽の言葉をやんわりと否定する萩尾丸であったが、普段の皮肉っぽい気配はなりを潜めていた。


「ショックで記憶が抜け落ちている状態にあると言ってもね、それがずっとそのままとは限らないんだ。むしろ何かのきっかけで記憶がフラッシュバックする事さえあるだろうからね。

 まぁその辺りは僕たちや雷園寺君ではなくて、時雨君の家族や周囲の面々が気を付けないといけない事なんだけど」


 それにだね。萩尾丸は雪羽を見下ろしながら言い添えた。


「時雨君は事件に関わる出来事の全てを忘れた訳じゃあないんだ。事件に関する出来事で、思い出せる事と思い出せない事がまだらに存在しているらしいんだよね。そうだね、時雨君は呪詛を仕込まれて雷園寺君と殺し合う事になったんだけど、そのシーンは記憶には無いんだ。だけど拉致されてすぐの事とか、兄である雷園寺君が自分たちを助けてくれた事はしっかり記憶に残っているみたいなんだよね」


 そうだぞ雪羽。黙って萩尾丸と雪羽のやり取りを聞いていた三國が、ここで口を挟んだ。


「自分たちを助けてくれたのは雪羽だって、その事は時雨君もちゃんと心得ていたんだよ。だからこそ時雨は雪羽に会いたがっているんだ。お礼が言いたいってね」

「そうだったんだ……」


 一番恐ろしい記憶は封印しているが、雪羽が助けに来た事は覚えている。萩尾丸や三國から聞かされた事実を、雪羽はゆっくりと噛み締めるほかなかった。

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