虚実しりぞき兄弟ばなし

 一番恐ろしい事を忘れているのに、俺の事は覚えているのか。いっそのこと、事件の事も俺の事も全部忘れていれば良かったのに。

 脳裏に昏い考えが唐突に浮き上がり、雪羽はぎょっとした。何を覚えていて何を忘れているのかなんてものは、雪羽の都合では無くて時雨の都合に他ならない。それを、自分勝手に考えるなんて悪い事ではないか。

 おのれの邪悪で恐ろしい考えを振り払おうと、雪羽は萩尾丸を見やり、口を開いた。


「それにしても萩尾丸さん。萩尾丸さんはかなり詳しい事までご存じなのですね」

「一応、僕も三國君たちも時雨君のお見舞いをしたからね……厳密には僕らは雷園寺家の縁者とは違う。だけどまぁ、今後の事とかで雷園寺家にはお世話になるし、お見舞いが出来たんだ」


 雪羽はここで、実は時雨たちが隣の病室で療養している事を知った。確かに耳を澄ませると、隣室から声や物音が聞こえるような気もする。


「あのお猿さんがな、雪羽と一緒に時雨君とか深雪ちゃんの事も診ているんだよ。同じ雷獣で歳も近いからって、相部屋にされそうになってたんだよ。まぁ、俺らが頼み込んだら個室にしてくれたんだけどな」


 三國はそう言って目をすがめて横に視線を向けた。壁を隔てた隣室を窺っているようだった。実際雷獣は電流の探知が出来るので、壁の向こう側の様子を読む事は難しくない話でもある。


「同じ部屋だったら、雷園寺家の親族たちと顔を合わせないといけなくなるから大変だろう? そうでなくとも、時雨の所には兄貴たちも姉貴たちもぞろぞろやって来て様子見をやってるんだからさ」


 呆れたように三國は告げたのだが、考えるような素振りを見せて三國は言い添えた。


「雪羽。親戚たちの見舞いはさっきまで全部俺が追い払っていたんだ。あばらを折る重傷で意識も戻ってなかったしな……だけど雪羽。もしかしたら兄貴たち、いや叔父さんたちや叔母さんたちとかいとこ連中に会いたいかな? それならそれで」

「親戚? 良いよ別に。叔父貴とか月姉や春兄がいるから」


 親族や身内は三國たちだけで充分。雪羽のその主張に三國は嬉しそうに笑みを深めていた。それでこそ我が息子、我が甥だ。口には出さねどそう思っている事は雪羽も何となく察していた。

 実際問題、雪羽にとって三國以外の叔父叔母は殆ど他人に近い存在だった。雷園寺家にいた時はいざ知らず、三國に引き取られてからは彼らと顔を合わせた事すらないのだから。

 この度の救出作戦では、雪羽の叔父叔母、いとこにあたる雷獣たちも数十匹ばかり後衛部隊として集まっていたのだという。雪羽の仕事を助けるためではなく、雷園寺家の正式な当主である時雨のために。


「ひとまず見舞いは三國君たちと……雉鶏精一派の面々だけにしておこうか。どの道雷園寺君は近いうちに雷園寺家の面々と顔合わせをするんだ。回復しきっていないこの時期に見知らぬ親族が見舞いに来ても負担になるだろうからね。

 それに雷園寺君。会いたくない相手が来たら寝たふりでもしてやり過ごしていても構わないんじゃないかな」

「それは妙案ですね、萩尾丸さん」


 萩尾丸の気の利いた提案に雪羽は素直に感心した。三國も笑っていたが、生真面目な春嵐の笑みは苦笑いだった。



 雷園寺家次期当主と目される雷園寺時雨が雪羽の病室にやって来たのは、萩尾丸の寝たふり発言の直後の事だった。彼は丁寧にドアを三度ノックし、きちんと名乗った上で入っても良いかどうか尋ねてきたのだ。

 隣室からの来訪者には、むしろ三國たち大人妖怪の方が困惑していたようだ。それでも時雨は結局病室に入ってきた。雪羽が入ってくる事を認めたからだ。

 お互い回復すれば雷園寺家本家で顔合わせする事は決まっている。だがそれでも、雪羽もまた時雨に会いたいと思っていた。萩尾丸や三國から無事である事を聞かされていたが、元気な姿をこの目で見たいと思うのは兄として当然の事なのだから。


「雪羽……!」


 雪羽の姿を見るや、時雨は真っすぐ歩み寄ってきた。その声も口調もまるきり幼い。笑みをたたえたその面と無邪気な瞳を前に、雪羽は僅かに胸の奥が疼くのを感じた。それに気付かないふりをして、雪羽もまた時雨を迎えた。身体を動かしてベッドに腰掛け、近付いてきた時雨を抱きとめたのだ。弟の背に回した腕に力が籠る。時雨を迎えた事を雪羽はもちろん喜んでいた。だがそれ以上に、回復して元気になった時雨の存在を脳裏に焼きつけたかったのだ。

 駆け寄ってきた時雨の頬は上気して桃色に染まり、抱きしめたその身体はしっかりと暖かい。あの晩とは大違いだ。元気になった時雨がここにいるのに、雪羽の脳裏にはあの晩の……蒼ざめた肌に冷えていく身体を横たえた時雨の姿が浮かんでしまう。違う、時雨は元気になったんだ。記憶を上書きして、それこそ忘れないと……時雨が嫌がらない事を良い事に、雪羽は時雨を抱きしめ続けていた。動いた拍子に脇腹が僅かに痛み、雪羽は思わず顔をしかめた。


「よく頑張ったな、時雨」


 不思議そうに見つめ返す時雨に声をかけ、頭を撫でてやった。気の利いた言葉が出てこないおのれの頭と口がもどかしい。時雨はしかし、兄の言葉と触れ合いに目を細め、屈託なく喜んでいた。その証拠に、満足げな仔猫の甘え声がその喉から漏れているし、背に回した左手には、時雨の尻尾が添えられていたのだから。

 獣妖怪にとって、尻尾で相手の身体に触れるのは親愛の情を示す行為なのだ。


「お兄ちゃんは大丈夫だったの? さっきまでずっと寝ていたんでしょう?」

「俺は……兄ちゃんは大丈夫。昨日は色々あって疲れたから、それで寝坊しただけだよ。時雨、兄ちゃんの事は心配しなくて良いんだよ」

「でも、大けがをしたってお父様や叔父さんたちが……」

「大人は大げさに言ってるだけだよ。な、時雨。兄ちゃんは元気そのものだろう」


 疲れていたから寝坊した。雪羽が重傷だというのは大人が大げさに言っているだけの事。これらはちょっとした嘘だった。本当に雪羽は重傷を負っていて、大人たちが心配するのも当然の事であるのは雪羽もうっすら察していた。雪羽自身は喧嘩や殺し合いごっこに明け暮れていた身分である。手ひどくやられた事も何度かあった。だがそれでも――半日も目を覚まさなかったのは今回が初めてだ。

 斜め後ろからさざめくように声が聞こえる。三國が心配そうに雪羽の名を呼び、月華や春嵐がなだめているようだった。

 嘘をつくにあたって、雪羽の心中には罪悪感は無かった。だと解っていたからだ。世の中には知らなくても良い真実、知ったら傷つくだけの真実がある事を雪羽は知っている。それならば当たり障りのない嘘でやり過ごせばいいのだと雪羽は思っていた。ましてや相手は年端も行かぬ子供なのだから。

 だからこそ、あの時雪羽は通りがかりのお兄さんとして時雨の妹探しを手伝ったのだから。

 さて目の前にいる時雨は、探るような目つきを雪羽に向けていた。彼もまた雷獣であり、しかも雷園寺家の血を引く存在だ。電流で雪羽の状態を探っているであろう事はすぐに解った。

 笑みが浮かんでいたはずの時雨の表情が僅かに歪む。


「……ごめんなさいお兄ちゃん。僕のせいで色々困ったんだよね?」


 時雨はとつとつと言葉を紡ぎ出した。自分と妹で謀ったプチ家出のせいで事件に巻き込まれた事について時雨は責任を感じていた。のみならず、自分の存在そのものが、雷園寺家の当主だった雪羽を追い詰めた事についても、思う所があったらしい。


「良いんだよ時雨。お前は何も悪くない。悪いのはあの糞蛇共で、後は……」


 自分たちを隘路に追いやったについて言及しようとして、雪羽は言葉を詰まらせた。雷園寺家の現当主である男と無理やり妻の座に収まった女のために、今のこの状況が出来てしまった。雪羽自身はその男女――雪羽の実父と継母に当たる男女なのだが――を今でも憎んでいるし恨んでもいる。しかしそれを時雨にぶつけるのははばかられた。であり、時雨は何も知らないはずだから。

 時雨は雪羽の顔を見上げ、それからまた抱き着いてきた。縋るように添えられた時雨の両手が忙しく動く。フミフミの動きだった。時雨が、弟がこの俺に甘えているんだ……! 当惑と、それ以上の歓喜に雪羽の身体が震えた。


「お兄ちゃんは本当に優しいね。僕、お兄ちゃんに会ってからたくさん助けてもらってるし……」

「そりゃあそうさ。兄が弟を助けるのに理由なんて要らないだろう。別に俺は、さ」


 助けてもらった。あの晩の狂乱の舞台の事を時雨は言っているのだろう。雪羽は純粋にそのように思っていた。だからこそ当たり前の事をしただけだと堂々と告げた。本当に、あの時雪羽は時雨の生命を助ける事しか考えていなかったのだから。雷園寺家次期当主云々の事すら、その時は頭に無かった。

 時雨はハッとしたような表情で雪羽を見つめ返していた。


「……怖い事がある前に、妹の深雪を一緒に探してくれたのも雪羽お兄ちゃんだったよね。僕、あの時心細かったから嬉しかったよ」


 そう言って時雨が静かに微笑む。雪羽は声を上げるのも忘れて時雨の顔を凝視していた。確かにあの時、雪羽ははぐれた深雪を探すのを手伝った。だが認識阻害の上着を羽織り、マシロと変名を使って素性を隠しての事だ。それなのに何故俺だと解ったのだろうか。

 松姉が教えてくれたの。時雨のたどたどしく断片的な言葉を聞くうちに、雪羽は事情が大体解ってきた。時雨の呪詛を祓った雪羽は、松子が味方である事を確認した上で、認識阻害の上着を彼女に貸し与えたのだ。後になってから、認識阻害の上着がマシロと名乗る妖怪の着ていた物と同じだったと松子は悟ったのかもしれない。


「ごめんな時雨。兄ちゃん、時雨たちを騙していたのかもな。でもあの時はそうするしかなかったんだ」

「お兄ちゃん……」


 時雨は不思議そうにこちらを見つめている。弟はこの後何というのだろうか。雪羽は少し身構えていた。

 だが時雨が何か言う前に、誰かが更に病室に入って来るのが見えた。それからすぐに、小さなものがこちらに向かって駆け寄って来る。


「お兄ちゃん! こんな所にいたの! おとーさまもおかーさまも来てるよ!」

「深雪……」


 時雨の許に駆け寄ってきていたのは妹の深雪だった。手足は雷獣本来の毛皮や爪が露わになった半獣の姿を見せているが、動きや声は元気である。

 突然やって来た妹を前に時雨は表情を一変させる。雪羽に対してはあどけなく甘えていた彼が、妹の前では申し訳なさそうな大人びた表情を作ったのだ。それからゆっくりとぎこちなく首を巡らせている。


「時雨さん。入院なさっているんですから遊んでないで休まないといけませんよ」


 時雨の視線の先を辿った雪羽の表情が強張った。雷園寺家現当主とその妻が、雪羽の実の父親と継母が病室に入り込んでいるのを目撃したからだ。

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