廃屋の導く先は畜生道 ※性描写あり

 雪羽が萩尾丸の屋敷を出たのは午後二十一半の事だった。指定された廃工場へは徒歩十五分ほどの距離である。だがどうしても気持ちがはやり、少し早い時間に出発したという物だ。

 急いては事を仕損じる。そうした事の無いように準備に準備を重ねてきたのは言うまでもない。一番上には認識阻害と防具の役割を果たすうわっぱりを羽織っているのだが、その下には幾つもの護符を仕込んでいた。紅藤が持たせている護符が効力を発揮しなかった時、紅藤の護符でもどうにもならない事への対処として。

 普段の雪羽ならばそんなに護符は要らないよ、と突っぱねたかもしれない。しかし今回は状況が状況だ。何より源吾郎が叔父の苅藻から取り寄せたものまである。何がどう必要なのか、雪羽はその辺は詳しくない。だから萩尾丸に助言を仰ぎ、必要な分を忍ばせておくことにした。

 神社や仏閣のお守りはお守り同士で喧嘩する事があるらしいが、今回雪羽が持つ護符ではそういう事はないそうだ。

 萩尾丸も既に精鋭を率いて動き始めている。源吾郎も後衛部隊に配置したらしい。

 だがそれでも――雪羽が大切な任務を背負っている事には変わりない。

 

 夜道を静かに歩く間、雪羽は白い猫を見た気がした。ここ数日行方の解らないシロウなのかどうかは解らなかった。元々地域猫の多い場所だから、シロウ以外にも白い猫派いる筈だ。

 その猫を追いかけるように、雉か山鳥の妖怪だという朱衿が小走りに追従する。鳥妖怪なのに夜に出歩くのか。雪羽はそう思っただけだった。



 指定された場所はがらりとした廃屋だった。歩けば音が響くようなだだっ広い場所で、単なる住居の成れの果てでは無さそうだ。元々は工場だったのかもしれない。

――何処だ? 時雨と深雪は何処にいる……?

 雪羽は立ち止まり、目を動かして左右の様子を確認した。もちろん補助として電流で周囲を確認するのも忘れない。幸いな事にステルスでの妨害はなされていないようだ。特に電撃を封じるような術も施されている気配はなかった。

 これは好都合だ。雪羽の面に歪んだ笑みが浮かぶ。犯行グループの間抜けさというか、ある種の驕りが見えた事が嬉しくてならなかったのだ。それこそが、こちらの付け入る隙であると心得ているからだ。雷獣の雷撃。それこそ鬼に金棒、天狗に羽団扇のような物ではないか。萩尾丸の言ったとおり、安直に蠱毒を作ろうとしている訳だから、上も下も愚か者ばかりという事だろう。


「雷園寺雪羽だ! お前たちの指定通りやって来てやったぞ。憎き異母弟を、偽りの次期当主の座にありついた雷園寺時雨を殺すためにな」


 構成員たちが蠢く闇の向こうへと雪羽は声を張り上げた。台詞そのものは台本の言葉によるものであるが、今の自分の動きが演技なのかどうなのか判然としなかった。時雨を殺す。欺くための言葉と言えども心が痛んだ。それだけが雪羽に解る真実だった。

 闇の一角が揺らぎ、何かが雪羽に向かって投げつけられた。雪羽の動きと相手の動きがちょうどよくマッチしたのか、投げつけられたそれは雪羽の足許に転がる形と相成った。それは細長く、しっかりとした質量と硬さのある物のようだった。形よりもそれそのものから何がしかのオーラが立ち上っているのが雪羽には見えた。その色は昏い紫で、禍々しい毒気やら呪詛やらを内包しているようだった。

 それから――それが短剣か短刀の類であると雪羽は察した。


「お忙しいのに来てくれてありがとうね、雷園寺のお坊ちゃん」


 暗かった闇が遠のき、周囲がパッと照らされた。妙に芝居がかった演出であるが、恐らくは闇に紛れていた構成員たちが用意した照明のスイッチをオンにしただけの話だろう。

 闇が取り払われ、視界が明瞭になる。電流で周囲を探知していると言えども、周囲を確認するには明るい方が雪羽にも都合が良かった。雷撃が使えないという事は電流探知も使えなくなるのではないか? そのような懸念があったからだ。

 ともあれ構成員たちはあちこちに控えていた。廃屋の壁の影に潜んだり、錆びたドラム缶の背後に隠れていたりしていたのだ。見知らぬ顔もいたし、として付き従っていた旧知の妖怪たちもいた。人間の術者と思しき連中は、何故かビデオを用意しており、ニヤニヤしながら雪羽を見つめていた。


「君なら必ず来てくれると思ったよ」


 そう言って微笑んだのは、雪羽から見て真正面に立つ者だった。人間の姿に変化しているが、その身体は妖気で満ち溢れている。化け蛇の類だ。雪羽は相手の本性を看破していた。蒼白い面や目許にある鱗のような紋様は爬虫類の特徴だ。何より相手は蛇臭かった。


「さて、君にはその宝剣を与えて進ぜよう。その宝剣には私から直々に祝福の加護を施しているんだ――手に取るがよい。君にさらなる力を与えてくれるはずだ」


 禍々しい毒気と呪詛が祝福だと? 全くもって笑わせる。雪羽は笑いそうになるのをこらえ、視線を足許に移した。宝剣と呼ばれた短剣から立ち上る毒気は、雪羽の知る祝福とは似ても似つかぬものだ。しかし、眼前の蛇男が漂わせている妖気と相通じるものはあった。

 雪羽はコンマ数秒の間逡巡していた。手に取っても大丈夫なのか。そのような疑念があったのだ。あの時の源吾郎のように侵蝕されるのではないか。いや、そうした事も見越して護符で武装しているのではないか。何よりここは時雨を殺す意思を見せねばならない。少なくとも、萩尾丸たちが援軍を率いてやって来るまでは。

 意を決し、雪羽は宝剣を手に取ろうとした。

 丁度その時だった、雪羽に向かって何者かが駆け寄ってきたのは。


「え……」


 演技中である事を忘れ、雪羽は間の抜けた声を上げてしまった。駆け寄ってきたのは一匹の狸娘だった。時雨たちを引率していた世話係の松子だ。

 だが、その様相は前に会った時とは一変していた。あの時の彼女は素朴で気立ての良さそうな娘として時雨たちに付き従っていた。その面影は今は何処にもない。殆ど下着にしか見えない布切れを身にまとい、しかも露出した肌は妙にぬめっていた。そのぬめりは汗だけではなく、媚薬交じりの香油によるものであると雪羽は悟ってしまった。

 何より決定的に違うのは、松子の顔つきと目つきだった。発情したメスの目つきなどという生易しい物ではない。充血しぎらついた瞳には、あからさまな渇望がくっきりと浮かんでいた。いっそ狂気じみたものが。松子はメスとして雪羽の存在を渇望していた。若くて、力溢れる一匹のオスの獣としての雪羽を。雷園寺家のもう一人の次期当主だとか、若妖怪の戦士と見做すような気配は微塵も感じられなかった。


「……メス狸か。こらえきれずにやって来ましたか」


 蛇男の声には若干の呆れと嘲笑が滲み出ている。先日の練習では想定していなかった出来事に、雪羽は内心面食らっていた。しかしお守りの粉のお陰で冷静に状況を分析する事は出来た。

 青松丸が集めた情報によれば、松子は犯行グループの意に沿う動きをしているという話ではなかったか。今は雪羽に媚びているのだが、それもまぁ犯行グループ的にはおかしな動きではないという事だろうか。雪羽に時雨を殺させるのが最終目的なのだから。


「ええ、もうずっとお待ちしておりましたわ雪羽様!」


 おかしな抑揚でもって言い切ると、松子はそのまま雪羽に抱き着いてきた。逃れる事は出来なかった。のみならず、雪羽の両腕は半ば反射的に松子の背に回り、抱きしめ返すという始末である。柔らかな松子の身体の感触と、上等な美酒に似た香油の匂い――雪羽はふいに、女遊びに耽っていた時の事を思い出した。今はそんな事に想いを馳せている場合ではないのに。


「雪羽様。あなた様こそ雷園寺家の当主にふさわしいお方。そうです、私は最初からそう思っておりました。なので、なので私を妻にしてください! 愛人でも妾でも構いません……んっ」


 こいつは何を言っているんだ……雪羽は疑問を口にする暇すら与えられなかった。動かず硬直している事を良い事に、松子はおのれの唇を雪羽の唇に合わせていた。どれだけそうしていたのかは解らない。松子が少し距離を取ったのだけは解った。

 トロリとした眼差しで雪羽を見据える松子の唇が蠢き、言葉を紡ぐのを雪羽は見た。唇は二人の唾液でだらしなく濡れていたのだ。


「ですから雪羽様。どうか私があなたの女である事を知らしめて欲しいのです。皆の前で――そしてこの私に。あのみそっかすを始末するのはその後にしてくださいませ」


 松子が何を求め、これから二人で何を成そうとしているのか。雪羽には嫌でもはっきりと解ってしまった。それは雪羽たちを取り囲んでいた構成員たちも同じ事らしい。松子の言葉に周囲が沸き立ったのだから。


「あのメス狸、エロい格好してるくせに俺たちに見向きもしないと思ったら、そういう事だったのか」

「まぁ、ユキハってやつもイケメンだからしゃあなくね?」

「おっしゃ、まさか妖怪同士の殺し合いだけじゃなくておねショタまで撮影できるとは。狸女は野暮な感じだが、相手が美形ショタだから高く売れるなぁ」

「……オスとメスが盛りあっているくらいで何をはしゃいでいるんだね君たちは」


 沸き立つ面々に対し、蛇男はやはり呆れたような声を上げていた。そしてその視線は、雪羽と松子に注がれていた。誠に蛇らしい、熱を感じさせない眼差しである。


「まぁ良いでしょう。お坊ちゃま。あなたは誉れ高き雷園寺家の跡取り息子です。色に狂ったメス狸とまぐわったとしても、冷静さを失ったり精気を抜かれる事はないはず。むしろそこのメス狸の気を取り込む事すら出来るでしょう。

――ええ、存分に楽しむと良いでしょう」

「何という寛大な処置……誠に感謝いたします」


 異常な状況にもつれ込む。その事を蛇男はあっさりと許諾したのだ。その言葉に謝辞を述べたのは松子だった。周囲の嘲笑と好色な眼差しの絡む中、雪羽はやはり押し黙ったままだった。冷静にすべてを受け入れたふりをして、相手の隙をつくためだけではない。色々な事があると事前に伝えられていた。時雨だけ生き残っていて、後の二人は無残な屍になっているかもしれない。そんな話も聞かされていた。

 しかし――残忍な儀式に色欲が混じるとは夢にも思っていなかったのだ。

――本当に何が起きているんだ。雪羽は静かに目を閉じ、電流探知術を行使した。探るのは周囲の状況ではない。松子の頭の中だ。雷獣の探知術は、相手の脳波を読み取る事すらできる。深層心理まではいかずとも、リアルタイムで考えている事を察知する事ならばできるのだ。策を弄しているみたいで好きな術ではないが、今こそ使うべきなのだと思っていた。


『……雷園寺君。私の考えを読んでいるのね』

「……!」


 察知した松子の思念に雪羽は面食らった。松子の思念は予想以上にクリアな物だったからだ。雪羽をオスとして求め、情に狂い色に渇望するメスの振る舞いとは正反対の代物ですらあった。


『どうか堪えて。今は色に狂ったオスとメスになり切ってやり過ごすの。あいつらの思うがままに、取るに足らないケダモノだと思わせて。そうやって、


 時間を稼ぐ。雪羽は翠眼を大きく見開いた。まさか――彼女ものか。その疑問に呼応するように、またしても松子が思念を伝える。


『時雨お坊ちゃまはあいつに変なものを仕込まれて正気を失っているの。深雪お嬢様とも隔離されている。今飛び出したら大変な事になる。でも、時間が経つにつれて仕込んだものが悪くなるのなら……解らない』


 松子の思念は途中から途切れ途切れになっていった。だが彼女は、雪羽が時雨を助け出すためにここにきている事を知っているらしい。何故その事を彼女が知っているのか。もしかしたら真琴と青松丸の指令で動いているネズミと接触したのかもしれない。だが――それも今あれこれ考える事ではない。

 ひとまず雪羽がなすべきは時間稼ぎだ。雪羽の背後には萩尾丸の率いる軍勢がある。叔父である三國たちもその軍勢に加わっている。それまでは松子の言う通り、雪羽は堪えなければならない。ただそれだけの話だ。

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