禽獣抱くは情念のくびき

 救出作戦の要は陰と陽が対になって行われるものである。表立って動く陽動作戦と、闇と影に紛れつつ動く隠密作戦の二つである。

 雪羽が行っているのは陽動作戦だった。傀儡に仕立てるにしろ蠱毒の錬成にしろ、相手は雪羽がこちらの思うように動く事を、すなわち異母弟の時雨を殺す事を望んでいる。その誘いに乗った雪羽が何も知らぬままにやって来た――そう思わせるのが雪羽の役目だった。主賓たる雪羽がやって来ている間、犯行グループの注意は雪羽とその異母弟にのみ向けられる。それが萩尾丸たちの読みだった。

 今でこそ萩尾丸の許で再教育を受けて真面目に過ごしている雪羽ではあるが、その事実を知る妖怪はまだ少ない。雉鶏精一派の重役だった雪羽は、積もりに積もった不祥事が咎められ、相応の処罰を受けた。多くの妖怪はその先を知らない。何処かで亡霊のようにさまよっているか、地下街や見世物小屋に引き渡されているとでも思っているのだろう。

 しかしそれは、今回の救出作戦にはむしろ都合が良かった。完全に無頼の輩となったと周囲は勝手に思ってかかるからである。であれば時雨を殺し、雷園寺家次期当主の座をもぎ取ろうとする。そうした行為にも説得力が増すであろう、と。

 実際雪羽は出かける前に、特殊な術と布でもって、おのれにまとわり憑く妖怪たちの妖気を取り去ってきたところだ。野望に憑かれた一介の野良妖怪になったと思わせるために。


 雪羽は犯行グループの面々とやり取りし、向こうに気を許したと思わせる。その間に隠密部隊が動くのだ。影に紛れて動くと言えども、むしろこちらの動きの方が重要である。何しろ――実際に時雨たちを助け出すのは彼らの働きなのだから。

 彼らは連中が雪羽に注意を払っている間にこの会場に忍び込む。認識阻害の術を使ったり、或いは下っ端の構成員に化けたりするのだろう。そうして密かに時雨たちを安全な場所に移動させる。そうした一連の流れが終わってから、犯行グループを一網打尽にする。大まかな計画はそう言ったものだった。

 もっとも、周囲には結界が張られているから、そちらを対処するのが先なのだが。幸いにも結界は雪羽以外の全てを弾く物でもないらしい。妖力が一定以下を下回る者や、全く妖力を持たない生き物の出入りは殆ど自由にできる物だった。それこそ――ネズミが出入りするには不自由しなかったらしい。もっとも、犯行グループ側に逆探知される恐れもあるので、仔細の細々した所まで調査するのは難しいであろうが。松子が寝返ったふりをして救出作戦の成就を望んでいる所まで見抜けなかったのはそれゆえであろう。

 ともあれ陽動作戦で雪羽が気を惹き、その陰で結界内に侵入し、時雨たちを保護する。救出作戦はそうやって進む段取りであった。ちなみに雪羽に対しては、時雨たちの安全が確保された段階で萩尾丸から念話で連絡が入る事にもなっている。

 どちらにも計画や台本は一応用意されていた。とはいえ計画自体には敢えてを持たしてもいるのもまた事実だ。戦況を確認し、相手の戦力や動向を窺っていると言えども、事態は流動的に変化するためだ。だから状況に応じて策を替え方針を変えて動くべしとも言われていたのだ――特に隠密行動のグループには。

 そして雪羽にも、骨子となる台本はあるが適宜状況を判断して動くようにという通達は下っていた。

 だから松子の色仕掛けに見せかけた時間稼ぎを前にしても、雪羽はそれに応じるような動きを取れたのである。無論イレギュラーな出来事には変わりない。しかし予想外の事が起きるかもしれないと初めから言われていたし、時間稼ぎ自体は今回の雪羽の行うべき事の要だった事には変わりない。



 そろそろ偽者の雷園寺家次期当主を連れてくるんだ。焦れたような口調で蛇男が言ったのは、松子が雪羽の足許に跪いた直後の事だった。

 雪羽は弾かれたように蛇男を見やる。偽者の雷園寺家次期当主。異母弟である時雨の事を示しているのは言うまでもない。


「オタノシミの最中申し訳ありませんね。てっきり獣の交接は私どもよりもあっさり終わると聞いていたんですが……こちらにも段取りがありますからね。それに、慾が高まっている方が仕上がりが良くなるんですよ」


 蛇男の顔に恍惚とした笑みが浮かぶ。蠱毒としての仕上がり云々を口にしているのか……喉のひりつきと吐き気が去来するも、雪羽はそれを抑え込み、涼しい顔で蛇男を睥睨した。


「それにしても美しい。に、先代当主様によく似ておりますね」


 先代当主。雪羽はその言葉に反応してしまった。ニシキタツミと名乗るこの蛇男が、雷園寺家に関わりのある蛇である事は調査済みではあった。だから先代当主の事を、つまりは雪羽の母の事を知っていても何らおかしくはない。

 雪羽の心を動かしたのは、先代当主と口にした時の蛇男の表情だった。恍惚とした笑みの合間に、そこはかとない郷愁とありもしない感情の残滓を読み取ったためである。こいつが母さんにそんな思いを抱くはずがない。そう思っている間にも蛇男は言葉を続ける。


「父親は田舎出の雑種だったみたいですが、君だけは母親の血が色濃く出たようですね。喜ばしい事ですよ、お坊ちゃま」


 時雨はまだだろうか。蛇男の言葉を聞き流しながら雪羽は思った。というよりも、意識的に蛇男の言葉に耳を傾けないようにしているだけなのだが。もちろん、頃合いを見て質問を投げかけられるようにスタンバイしている訳でもあるが。

 それにしても浅はかで、それ故に不幸に見舞われたお方でした。蛇男は雪羽の前で、雪羽の母の事をそう言ったのだ。浅はか。その言葉に雪羽は反応してしまった。


「ああ、お坊ちゃまは何もご存じないようですね。あのお方は雷園寺家の血が濃くなる事を疎み、わざわざ雷園寺家とは縁もゆかりもない雑種の下男を夫に迎え入れたんですからね。

 雷園寺家は、というよりも雷獣の名家は一族で縁組する事が多いので、そりゃあ確かに血が濃くなる事、その弊害は大なり小なりあるでしょう。ですがそうだとしても、それならそれで別の名のある一族から婿を取ればよかったんですがね。

 本家でそんな事をやってのけたから、分家の賤しい連中に付け入る隙を与えてしまったんですよ。分家の連中は、あのお方の婿候補を差し出そうと思っていた訳ですから」


 婿。蛇男は奇妙な笑みをたたえながらそんな事を言ったのだ。


「……思ったんですよ。血筋も何もない雑種でもあのお方に選ばれたんです。であればこの私とてあのお方に選ばれるチャンスはあったとね」

「……雷園寺家当主の、当主を操る座が欲しい。それがお前の目的か」


 雪羽はここで口を開いた。台本にあった言葉だったのかどうか判らない。だがそれはどうでも良かった。粘性を持つ蛇男の持つ執念の在処を雪羽は知りたかった。雷園寺家当主の父親。それが蛇男の欲していた物なのだろうと雪羽は思っていた。そうでなければ雪羽の母に夫として迎えれられるのではなどという戯言は口にしないだろう。

 蛇なんぞが雷獣とつがいになれないはずなのに。


「ふふ、ふふふ……お坊ちゃま。お坊ちゃまは存外うぶな考えの持ち主なんですね。私は別に雷園寺家当主の座なんて興味ないんですよ」


 蛇男は一呼吸おいてから言い添えた。


「私が欲しかったのは、だったんですから。あのお方の心と魂を……」


 蛇男の瞳は気付けばガラス片のように輝いている。そのきらめきに雪羽は怯み、ぞわりとした感覚を抱いた。そもそも雷獣は鵺より生まれた存在。であれば蛇の夫がつがいになる事も出来るはず。そう語る蛇男の身体から、妖気が立ち上るのを雪羽は見た。



「連れてきましたぜ、ボス」

「うむ。ご苦労……」


 じゃらり、と鎖のこすれる音が鼓膜を震わせる。それから、獣そのものの唸り声が響いた。

 奇しくも時雨たち兄妹を連れてきたのは雪羽のオトモダチだった。時雨を連れてきたのはカマイタチであり、半信半疑と言った様子で深雪を伴って姿を現したのはアライグマ妖怪である。

 時雨は鎖に繋がれ、その一端をカマイタチが引く形を取っていた。

 仕込み。松子が思念で伝えたその単語を雪羽は思い出した。時雨が、眼前の幼い雷獣が既に正気ではない事は一目瞭然だ。繋がれた鎖はピンと張りつめ、人型を保っているものの前屈みぎみに時雨は歩を進めていた。見開かれた両目は血走り、口許からは小さな牙が顔を覗かせ、間断なく唸り声が放たれている。その時雨の身体からは、先程雪羽にと投げ渡された宝剣、そして蛇男のそれと同質のオーラが立ち上っているのが見えた。

 深雪の方はごく普通に手を引かれてやって来ただけである。尋常ならざる状況下でありながらも、彼女は泣き騒ぐことはなかった。むしろ呆然として泣く事も忘れているという感じであろうか。


「ボス、この子まで連れてくる必要があったんですか……?」


 アライグマの妖怪が首を傾げた。蛇男は悠然と笑って頷く。


「言いませんでしたか。その子は偽者の次期当主の実妹であると。であればきちんとになるんですよ。あなたが心配せずともね」


 こいつら、俺に時雨のみならず深雪まで殺させるつもりか――雪羽はざわつく心を押さえながら母親の違う弟妹達を眺めていた。


「緊張なさってますか、お坊ちゃま。そりゃあそうでしょうなぁ。何せこれから偽者の次期当主を粛清し、あなたこそが次期当主となる資格を得るんですから」

「……ロス、アイツハ妹タチノ敵。コロサナイトドウニモナラナイ、ボクハ敗ケナイ……」


 血走った、しかし虚ろな瞳で時雨が何事か呟いている。子供とは思えないほどに低く昏い声で。

 カマイタチが左腕の先端を刃物にして振るう。銀色の筋がひらめき、時雨を繋いでいた鎖が切断された。

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