紫電ひらめく修羅の狂乱 ※暴力描写あり

 闇深い夜空の中、夜鷹のか細い啼き声がそこここで聞こえていた。国によっては悪魔の笑い声と見做されるその声が。

 夜鷹たちは散り散りになる事なく、その場を何度も巡回していた。というよりも、ある一角を巡回する化鳥に夜鷹たちも追従していたのだ。その一角の直下では、蛇妖怪やら何やらが集まり、雷獣の兄弟を蠱毒にするべくいかがわしい儀式が執り行われている最中でもある。

 化鳥は人間の青年と鳥を融合させたような姿を取っていた。異形・妖怪の類である事は言うまでもない。人としての部分は身なりの良い衣装に包まれていたが、二対の翼をはためかせ、半ば滑空するように空を飛ぶ姿はその化鳥が異形である事をはっきりと物語っていた。もっとも、件の化鳥の最大の特徴は二対の翼ではなく首許だったのだが。首許には丸い珠のような物を七つ連ねた奇妙な首飾りがあしらわれている。丸い物は玉ではなく、よく見れば小鳥の頭部を模していたり、或いは小鳥の頭部そのものであったりした。

 二対の翼に小鳥の頭部のような七つの首飾り。見る者が見れば、この化鳥が何者であるかは一目瞭然であろう。そう。彼は大いなる邪神、道ヲ開ケル者の御使いとして暗躍する一人だった。


 円弧を、或いは螺旋を描くように遊弋する化鳥が首を下に向ける。儀式の会場たる廃工場の周囲は、いつの間にか妖怪たちが取り囲んでいた。狐狸妖怪と言った地上の獣たち、或いは天狗道に至ったとうそぶくような手合いだ。いずれにせよ化鳥にしてみれば取るに足らない存在だ。妖力の多寡にかかわらず、鳥妖怪は哺乳類由来の妖怪を馬鹿にする傾向が強い。生得的に空を飛ぶ種族であればなおさらだ。

――知恵を巡らせたつもりだが、所詮は畜生に過ぎんわけだ。道ヲ開ケル者の御使い、その力を持つ俺の策略と力には叶わなかったという事だ

 取り巻く夜鷹の啼き声が一層大きくなる。化鳥の口許には裂けるような笑みが浮かんでいた。

 横恋慕していた雷獣女の仔を使って蠱毒を作る。そんな目論見を抱く蛇男に手を貸したのがこの化鳥に他ならなかった。化鳥は知っていた。件の雷獣の仔の背後には大妖怪がいる事を。そしてこの大妖怪たちが蛇男の策略を潰しにかかる事を。

 だからこちらも先に手を打った。だから今、眼下では滑稽な光景が繰り広げられているのだ。大妖怪とうそぶく連中は、結界を破る事すら叶わず右往左往しているではないか。それこそがこの化鳥に託された力によるものだった。


「とはいえ万が一って事もあるし、俺も俺で会場に控えていた方がいいな」


 化鳥は誰に言うでもなくゆっくりと高度を下げた。視界の端に白と茶色の柔らかな塊がちらと映った。白い方は猫のように見え、茶色の方は鶏のような山鳥のように見えた。



 じゃりりりりっ、と奇妙な音が廃工場に響く。鎖の拘束を解かれた時雨は、雪羽めがけて走ってきたのだ。灰褐色の瞳は奇妙な情念に揺らぎ、背後では毛の逆立った二尾が見え隠れする。

 雪羽は丸腰で疾駆する時雨を受け止めようとした。弟を傷つけるつもりは毛頭ない。だが向こうは正気を失い、雪羽を斃すべき敵だと思っているらしい。どうしたものか。雪羽は悩んでいた。自分が傷つかずに済むにはどうすればいいのか悩んでいるのではない。時雨を無傷で取り押さえるにはどうすればいいか。その事について悩んでいたのだ。実は時雨の手には抜き身の短剣――雪羽が蛇男に投げ与えられたものと同じものだ――が握らされていたが、それすらも問題では無かった。紅藤様の護符が俺を護ってくれる。そう信じて疑わなかったからだ。

 雪羽はだから、割合無防備な様子で時雨を受け止めようとした。熱湯を浴びせられた猫のごとき絶叫が時雨の喉からほとばしる。銀色の刃が光を受けてきらめく。それこそ稲妻のように。


「……っ!」


 時雨の動きを止めようとした雪羽が顔をしかめた。風生獣の毛を編み込んだ防具が、二の腕の辺りで切り裂かれた。白い布の裂け目はどろりとした紅色に彩られている。これは俺の血だ――流血を認識してから、雪羽は切り傷の痛みをじわりと感じた。

 正直なところ、物理的な苦痛よりも驚愕の方が大きかった。あの日からずっと付けている紅藤の護符の優秀さを雪羽はよく知っていたからだ。あの護符は源吾郎の放つ高威力の狐火ですら防御せしめる代物だった。直撃すれば雪羽とて即死は免れない程の威力のそれを。

 何故だ――飛びのいて時雨から距離を置き、少しの間考え込む。そこで彼は萩尾丸の言葉を思い出した。

――紅藤様から頂いた護符は確かに役に立つ。だけど万能の効果を持つと思ったら大間違いだからね。中級妖怪の攻撃を防ぐ程度に留めてあるし……何せプロ仕様になっている。そこの所を心得るんだ。でないと文字通り痛い目に遭うよ

 要はあの短剣の攻撃は護符の護りに阻まれないという事なのだ。その事に気付くと、雪羽は不思議と落ち着きを取り戻していた。

 元より雪羽は防具や結界で身を護りながら闘う手合いでは無い。雷獣としての身体能力の高さゆえに、防御よりも攻撃や回避に力点を置いていたからだ。それに今のは少し斬られた程度に過ぎない。俺は過去にカマイタチに胸から腹までバッサリやられた事もあるんだぞ。この程度で怯んでいられるか。

 幸か不幸か、雪羽は闘いに……流血に慣れていた。だからこそ自身の出血の驚きを抑え込み、静かに闘志を燃やす事が出来たのだ。

 その事に察したらしく、蛇男が短剣を顎でしゃくる。


「ようやく闘る気になりましたかお坊ちゃま。それならば宝剣を取り給え。蛇の道は蛇、宝剣に打ち克つのはやはり宝剣を持つ者ですからね」


 雪羽は蛇男を一瞥してから短剣を手に取った。おのれも侵蝕されないか。そのような心配はあった。しかしここで妙な動きをしても疑われるだけだ。それに何より、いかな雷獣と言えども素手で刃物を持つ相手に立ち向かうのは無謀だと感じてもいたのである。

 柄を握りしめ、空いている左手で鞘を投げ捨てる。短剣の柄から呪詛めいた妖気が立ち上る。それとともに、熱い物を触れたような痛みが手の平に広がる。侵蝕しようとするものにおのれの手が抗っているのだ。そのように雪羽には感じられた。

 今再び時雨が躍りかかってくる。既に何かに侵蝕されているためか、その動きはひどく直線的だった。しかし素早い事には変わりない。雪羽は手の平の痛みを無視しながら短剣を振るう。

 周囲で様子を見守っていた衆愚が声を上げる。殺し合いが始まったのだと喜んでいるのだろう。しかし雪羽は相手の刃を受け流すために振るったに過ぎないのだが。


「良いですぞお坊ちゃま。やはり私が見込んだだけありますね。その偽者も今や殺意に取り憑かれています。闘わなければ、殺さなければ死ぬのはお坊ちゃまの方ですよ」


 悪趣味な。そう言う風にのはお前だろうに。雪羽は内心毒づきながらも、向かってくる時雨と向き合うほかなかった。



 宝剣同士が絡み合い、ぶつかり合うたびに紫電がひらめいた。

 時雨に引き合わされてからどれ位たったのか、雪羽には判然としなかった。長い時間が経っているように思えるが、そんなに時間は経っていないのかもしれない。萩尾丸たちはまだ来ていないからだ。彼らが来ていたら局面は変わっているだろう。

 内心雪羽は焦っていた。文字通りケダモノのように迫りくる時雨に対して防戦に徹するほかなかったのだ。戦闘不能になってはいないものの、切り傷や刺し傷もいくつか負ってしまった。

 本来ならば、時雨のような幼い下級妖怪相手にここまでてこずる事はない。雪羽自身は既に中級妖怪であり、尚且つ雷獣としての術や素手で闘う術を心得ている。流石にナイフの扱いまで熟知している訳ではないが……ナイフ程度の武装では雪羽の脅威にはならないはずだった――敵を単に打ちのめせば良いのであれば。

 雪羽がてこずっているのは、なるべく無傷で時雨を打ち負かそうと思っているからに他ならない。動きを見るに、時雨はまだ闘いの術を心得ている訳ではないらしい。しかし全力で暴れ狂う時雨を抑え込むのは至難の業だった。

 はじめは宝剣を弾き飛ばせばどうにかなると思っていた。しかし時雨の右手は単に宝剣を握っているだけでは無かった。握った状態で布を巻かれて固定されていたのだ。途中で宝剣を手放したり、弾かれたりしないように。

 失神させるという事も出来なかった。失神させるために殴りつけたもののためらいのために威力が少なかったのか、或いはどちらかが死ぬまで闘いは終わらないという状況に追い込まれているのかは定かではないが。

 雷撃も威力が高すぎて使えず、結界の仕様上飛び上がって空中戦にもつれ込む事も出来なかった。

 万事手詰まりか――雪羽の胸元を時雨の宝剣が通り過ぎたのは、そう思っていたまさにその時だった。

 宝剣に込められた力は強力なもので、防具であるはずの修道服も紙切れのように切り裂かれてしまった。痛みはない。首の付け根と胸の合間だったので、流石にこれはまずいだろうと雪羽も思っていた。尋常ならざる状況に興奮し、本能が痛覚を押し流しているだけなのかもしれないが。

 雪羽たちの間をゆったりとした風が通り抜ける。時雨の髪や逆立った尻尾の毛が風になびく。雪羽の胸元からは、白い煙かもやのような物がさあっと漂い、時雨の方に向かって流れていく。

 切り裂かれたのは雪羽の肌ではなく、萩尾丸から渡されていたお守りの一つだったのだ。

 時雨は少しの間咳き込んでいた。吹き付けたものにむせたのだろう。そのすきを見て雪羽は自身の宝剣を投げ捨て時雨を押さえ込んだ。驚いた事に、ケダモノのような狂乱ぶりはもはや無かった。小刻みに震えこそすれ抵抗する気配も素振りも一切無かった。

 雪羽はここで、時雨がひたと見上げている事に気付いた。焦点の戻った灰褐色の瞳は大きく見開かれていたが、正気に戻っている事はすぐに解った。その表面がじわじわと涙で潤む。恐怖の涙なのだと、雪羽は思った。


「兄さん……」


 大丈夫だ。俺は本当はお前を助けに来たんだ。怖がるな。雪羽はそう伝えたかった。しかし時雨が更に口にしたのは思いがけぬ事だった。


「ごめん、なさい……僕の事、きらいだしにくんでいる、よね……あの蛇が言ったんだ。僕らはいらない子だって……だから僕の事は殺しても良いよ。でも……深雪と松姉にはわるい事をしないで。お願いだから……」


 時雨の懇願は全て言い切る前に途絶えてしまった。時雨は苦しげに身をよじり、烈しく咳き込んだのだ。二、三度咳き込んだ後に、口や鼻からどろりとしたものが溢れ出た。血と……何かが混ざった物だった。


「――勝負が着いたようですね。さっさと止めを刺しなさい」


 蛇男の声が頭上から降りかかる。その声には包み隠さぬ嘲りの色と、嘘くさくコーティングされただけの憐れみの色が滲んでいた。


「ここで兄弟の情が首をもたげたんですかね。それはそれでまぁ美味しい展開ではあるんですが……お坊ちゃま。本当に可哀想に思うなら一思いに殺すのがであるとお伝えしましょう。まごまごしているうちにも苦しむだけですからね。

 元より彼は私の仕込みを受けています。妖力の多さにもよりますが、あと十分くらいでしょうね」


 雪羽は愕然としながら蛇男の言を耳にしていた。周囲の面々もこれには驚いたらしく、何事か口々に語っているのがぼんやりと聞こえる。初めから殺すつもりだったのか……雪羽は歯を食いしばった。口の中で血の味が広がるがそんなのは構わない。

――糞が。俺がどうしようと時雨は殺させるつもりだったのか。死なせないように、助けるために俺はわざわざここにやって来たんだ。俺の前で、俺のせいで誰かが、親兄弟が死ぬなんて赦せない。

 雪羽の尻尾がゆらりと逆立つ。ふいにおのれの身体が熱を帯び始めたのを感じた。汚泥のような物を吐き続ける時雨の冷たさに呼応しているかのように。

――そうだ。あいつの言う結末なんかぞ。時雨は。そのために代償を支払う事になっても……


 直後、雪羽はおのれの裡に籠っていた熱が白銀の光として立ち上るのを見た。雪羽自身の雷獣としての妖力が放出されていたのだ。それは当然のように時雨を包み込んでいった。その間に時雨に取り巻いている毒気のような物を駆逐していくのが雪羽には見えた。

 妖気を時雨に分け与え、呪詛を打ち消している間、雪羽はおのれの臀部が焼け落ちるような感覚を抱いた。妖気が放たれるとともに、雪羽の尻尾がじりじりと削れ消失していったのだ。既に一本は燃え尽きた線香のように消え失せ、別の一尾も三分の二まで削れ落ちていた。


「そんな、まさか――」


 蛇男が驚いたような声を上げる。周囲はずっと騒がしいが、彼らの声は意味を成す体で雪羽には届かず、ノイズのようだった。

 妖気の放出は終わった。身体の一部をごっそりと喪ったような感覚を抱きながらも、雪羽は勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。時雨の生命を侵蝕していた呪詛を、おのれの妖力でもって駆逐したのだから。

 時雨は既に意識を手放していた。本来の姿らしい、灰褐色の猫そのものの姿に戻っている。呼吸は規則正しく、その身には生き物としての熱が戻っていた。

 妖力の半分以上を文字通り代償にしつつも、雪羽は時雨を護り抜いたのだ。

 安堵した次の瞬間、雪羽は自身に何かが入り込む感覚を抱き、思わず胸を押さえた。驚いて胸を押さえたものの、入って来た物はあっさりと雪羽に馴染み、どうかしていった。

 気が付けば、雪羽は一尾半ではなく三尾に戻っていた。

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