雪羽の激昂 ※暴力表現あり

 ロシアンブルーの仔猫に似た時雨の毛並みを雪羽はそっと撫でた。見た目以上に密集した柔らかな毛皮は、幼いながらも雷雲のある寒冷な場所に適する雷獣の特性を具えている事を物語っていた。

 その時雨の身体をそっと抱え上げる。時雨の身体は軽かったが、その身に熱は戻っているし腹や胸が上下して規則正しく呼吸している事も明らかだ。

 雪羽は迷わず松子の許に向かった。時雨を彼女に渡すために。深雪はいつの間にか松子の傍に居た。幸いな事に彼女は呪詛の毒牙にかかっていないようだ。


「お、お兄ちゃーん!」


 その時雨を半ばひったくるような形で受け取ったのは深雪だった。眠っているために動かない兄を力強く抱きしめている。今まできょとんとしていた深雪の表情が歪み、涙がぼとぼとと落ちていく。


「深雪お嬢様……」


 松子は困ったような表情で時雨と深雪を交互に眺めている。だが小声で深雪を諭すと今度は彼女が時雨を抱え上げた。壊れ物を持つかのような慎重な手つきであり、彼女の時雨たちへの忠義や愛情が本物である事が見て取れた。

 雪羽はその様子を眺めながら上着を脱ぎ捨てた。上着の内側に張り付いていた護符がはためいたが、上着から剥がれ落ちる事は無かった。


『その上着を使ってください。防具としてある程度の攻撃にも耐えられますし、何よりフードで顔を覆えば認識阻害の効果もある』


 雪羽は電流探知の能力を応用し、直接松子に伝える。松子はハッとしたような表情を浮かべつつも、雪羽の放った上着を手に取り、その身を覆い始めた。


『……弟妹達を頼みます。松子さん、あなたは冷静に動いていた。であれば安全な所に身を隠す事が出来るはずです。時雨と、深雪と一緒に』

「雪羽、さん……」


 松子の声には戸惑いの色がありありと浮かんでいた。雪羽は無言のまま思念の伝達を伝える。


『今度は俺一人でをします。巻き添えを受けないように逃げてください。すぐに仲間たちがあなた達を助け出すはずですから』


 松子はしばし無言だった。だが唇を引き結び決然とした表情が浮かぶ。泣き疲れた様子の深雪に手を添え、なだめるようにそっと撫でた。次の瞬間には深雪の人型の姿が揺らぎ、小さな仔猫に変貌したのだ。白い毛皮の上に散った小さなまだら模様が印象的な、白いベンガル猫のような姿だった。

 時雨よりもなお小さい仔猫の深雪を松子は抱え、そろそろと雪羽から遠ざかっていく。どうか、お気を付けて――去り際に彼女がそう言った気がした。


「あのメス狸、逃げるつもりか……!」

「くそっ、俺らを騙してたのか。とっちめるぞ」

「逃げれる訳が無いのに、全くもってアホな奴だ」


 松子が時雨たちを連れて逃げようとした動きは、もちろん犯行グループの面々も気付いていた。フードを被っているものの、単に「素性は解らないが妖怪が一人そこにいる」事は認識できてしまう。隠れる、相手から姿を消すという所までの権能はあの上着には無かったのだ。

 犯行グループに属している連中が三人ばかり、松子を追いかけようと動き始めた。本性が獣という事もあり、松子の動きは機敏で素早い。とはいえ、追いかけようとしている連中も妖怪なのだ。

 雪羽は即座に雷撃を錬成し、松子を追いかける妖怪たちに向けて放った。とっさの行動であるから雷撃の威力などお粗末なものだ。しかし、碌に善悪を考えずに追従するだけの野良妖怪たちを威嚇するには十分だった。

 放たれた雷撃は妖怪たちの足許に着弾した。銃声のような音と共に地面が抉れ、かけらがはじけ飛ぶ。それらに驚いた妖怪の一人がすっ転ぶのが雪羽には見えた。


「待てやオラ。お前らの相手はそこの狸女じゃなくてこの俺だろうが」


 ヤンチャだった時の事を思い出し、ドスの利いた声で言ってやる。転んだ連中も含め、松子たちを追いかけていた妖怪の注意が雪羽に向けられた。


「……三人がかりで女のケツを追いかけるとは相当なドスケベ共だなぁ」

「ドスケベだと! 雷園寺、まさかお前にそんな事を言われる日が来るとは。ブーメランぶっ刺さってるんじゃないか」


 嘲弄交じりの雪羽の言葉に、一番若い妖怪が喰い付いた。さもありなん。彼はかつて雪羽に付き従っていたオトモダチなのだから。

――良いぞ。その調子だ

 妖怪としての力がみなぎって来るのを感じながら、雪羽はしかし冷静に松子の様子を観察していた。走り続ける松子と思しき物の姿は薄れ、そうしてふっと消えた。松子自身もまた術を行使したのだろう。

 あれでもう彼女たちは、弟妹達は大丈夫だ。雪羽は密かに安堵した。松子ならば窮地を脱する事が出来るはずだ。そのように雪羽が思い始めたのは、彼女の意図を知った後の事だ。犯行グループに与し雪羽にメスとして媚びる振る舞いを見せながらも、内心冷徹に状況を把握していたのだから。


「おい、嘘だろ。あのメス狸が姿を消したぞ」

「どうする……? ボスは……?」

「いや逃がしたらあかんやつやろ」

「――一体どういうつもりです、お坊ちゃま」


 犯行グループの面々がどよめく。やはり彼らとしても松子の逃亡は予想外の物だったらしい。そりゃあそうだろう。主犯格の蛇男とその側近らしい数名は本物であるようだが、後は妖怪にしろ人間の術者にしろ寄せ集めの有象無象に過ぎない。何しろ雪羽に付き従っていたオトモダチ、野良の雑魚妖怪などまでいるのだから。

――こちとら木曜日から会議を重ね、対策を練って来たんだ。ただ単に集まっているだけの下郎共に何が出来るというのだ?

 あれこれ思考を重ねるうちに、おかしさがこみあげてきた。雪羽の顔にはいつしか笑みが浮かんでいた。相手への侮蔑と、自身への優越感が入り混じった笑みである。こんな笑い方をしたのは、萩尾丸の許に引き取られて初めての事だった。

 蛇男が半歩前に進み出た。雪羽に呼びかける声は若干かすれ、その歩みも何処かおぼつかない。彼も彼で消耗したのかもしれない。

 そう思っているうちに蛇男は再び口を開いた。


「あのメス狸が……いやまがい物の連中を逃がしたのは一体どういう了見ですか? お坊ちゃま、彼らは雷園寺家に寄生する――」

「誰の許しを得て発言しているんだ、下郎」


 蛇男を見据え、雪羽は静かに問いかける。浮かんでいた笑みもおかしな気持ちも既に失せている。真顔のまま、雪羽は言葉を続けた。


「俺の事を見くびり過ぎなんだよ下郎共! 次期当主の座をちらつかせておだてれば部下として取り入れて貰えるなんて考えはドブに捨てちまえ。

 俺は、俺だって自分の部下くらい自分で選ぶ。貴様らなんぞお呼びじゃねえよ」


 言い放つや否や、雪羽の中で爆発的に膨れ上がる物を感じた。それは雪羽の裡に宿る妖気と――純粋な怒り、憤怒だった。

 元より雪羽は犯行グループを赦すつもりは無かった。その気持ちは実際に対面した所で変わらなかった。いや違う。決して赦さない、何が何でも一矢報いる、この俺の手で制裁を加えてやりたい……より強い怒りの念が雪羽の中で生じたのだ。

 何をどう考えても外道の所業だった。時雨は確かに雷園寺家の公式な次期当主である。見方を変えれば次期当主の座を狙う雪羽の競争相手、ライバルになりうる存在だった。しかしそれはあくまでも遠い未来の話に過ぎないし、そうでなくても時雨を害してまで次期当主の座に就きたいとは思っていなかった。ましてや時雨はまだ子供で、雷園寺家の事情を全て知っている訳ではないのに。

 だというのに連中はどうだ。雪羽を雷園寺家次期当主に仕立て上げるという名目で、時雨を(もちろん妹の深雪も)心身ともに傷つけただけではないか。恐らく時雨は既に全てを聞かされているのだろう。雪羽が押し隠し、「全てを知るのは時雨も大人になってからで良いんだ」と思っていた事さえも。


 周囲に視線を走らせ、雪羽は地面を蹴った。ネコ科の獣めいた咆哮がほとばしり、その身に雷撃を纏わせながら。

 萩尾丸からの連絡がまだ来ないとか、そう言った事は既に雪羽の頭の中から抜け落ちていた。俺が、俺たちが一体何をしたというのだ。ともあれ連中に手ずから制裁を加えなければ。そうした事で頭がいっぱいだったのだ。



 廃工場の周囲が不自然に明滅する。うっすらと漂う生臭いオゾン臭が、外でも落雷があった事を物語っていた。無論これは雪羽の仕業ではない。雪羽自身は単に雷撃や徒手空拳で犯行グループの面々を捌いているだけなのだから。

 しかしそれでも、天が俺の味方をしている。道真公の思し召しなのだと思ったとしてもそれこそばちは当たらないだろう。

 遠慮も何もかなぐり捨てた雪羽の反撃に、犯行グループの連中は当然のように困惑していた。虎やライオンと言った猛獣でさえ、猟犬の反撃に戸惑い隙が生じると言われている。ましてや捕食者としての矜持も強さも無く、唯々諾々と従うだけの連中であれば無理もない事だろう。

 雪羽はまずへたって動けない連中から攻撃を仕掛けていった。大方戦意を喪失しているような連中ばかりだったから仕事は楽だった。卑怯であるとか残忍であるとは思わなかった。彼らの方がよほどえげつない事をしでかそうとしていたのだから。

 人間の術者がどうと倒れる。雪羽はその傍らにあった機材にも雷撃をぶつけ、完膚なきまでにスクラップにしてやった。ハード面ソフト面共に。

 件の機材が何を撮影していたのか、何を撮影する予定だったのか。その事を思うと生理的嫌悪に根差す怒りが込み上げてきたのだ。人間たちの中には、妖怪が術を行使する様子や闘う様子を特殊な機材で記録し、動画や写真として観察する事がままあるという。通常は学術用・研究用として用いられ、撮影内容もいたって健全な物である事がほとんどだ。だが、中には妖怪が傷つけられたり殺されたりするさまを面白おかしく撮影し、昏い欲求を満たすために用いるケースもあるのだという。

 今回もそうした目的のために撮影を行う予定だったのだろう。汚物でも見るような眼差しで機材を一瞥してから、雪羽はさっと飛びのいた。


――あいつ……あんなところに隠れているのか……

 雪羽は電流探知能力も用いて次なる標的を探した。当たり前の話だが、雪羽が暴れれれば暴れる程攻撃すべき標的は減っていく。戦闘不能になった連中が増えていくからだ。

 しかしまだ全滅には至っていない。というよりも雪羽の雷撃の前に倒れたのは手ごたえの無い連中ばかり。蛇男は言うに及ばず、側近らしい若干腕の立ちそうな妖怪たちも仕留めるには至っていなかった。

 やはり相手も手練れだからなのか。ここは大人しく萩尾丸たちが来るのを待った方が良いのだろうか……雪羽は一息つき、そんな事をつらつらと考え始めてもいた。雷獣としての妖力もスタミナにも恵まれている雪羽であるが、流石に疲れを感じ始めていた。だからこそ、油断していた訳でもあるが。


「――!」


 雪羽に向かって何かが放たれる。白っぽい鎖状、或いはロープの塊のような物だった。子供だましか。雪羽はそう思いながら雷撃を放つ。狐火のような焔系統の攻撃ではないにしろ、雷撃も雷撃で対象物を熱したり爆撃したりする事は可能だ。

 ロープの塊はそれで焦げて融けて千切れ、雪羽の足許にだらしなく落ちた。

 だが次の瞬間、雪羽はぐらりと視界が揺れるのを感じた。何かが足に巻き付き、強い力で引き倒したのだ。気付いたのは倒れた直後の事だった。

 頭を護るように前に出した右腕にも何かが絡みつく。左のふくらはぎと右腕に絡みついたそれがぴんと引っ張られるのを雪羽は感じた。


「――好き放題暴れてくれましたなぁ、雷園寺のお坊ちゃま。ですがもう、おイタもここまでですよ」


 嘲るような声が雪羽の鼓膜を震わせる。顔を上げた先にいたのは蛇男だった。雪羽の取り巻きだったカマイタチも無事らしく――とはいえその顔は鼻水を垂らした泣き顔ではあるが――震えながらも蛇男の傍に佇んでいた。

 畜生、糞が――雪羽は起き上がり、蛇男に躍りかかろうとした。しかしそれは叶わなかった。起き上がろうとしたまさにその時、雪羽に絡みついた二本の紐らしきものがより強く引っ張られるのを感じたのだ。


「無駄ですよ。今あなたを捉えているのは蜘蛛精の糸なのですからね。蜘蛛の糸は鋼鉄よりも強靭で伸縮性に優れている事を、お坊ちゃまはご存じなかったのですか?」

「…………」


 蜘蛛の糸の強靭さについては雪羽も知っていた。幼い頃、テレビで蜘蛛の糸の強さを説明していたのを見た事がある。曰く鉛筆程度の太さがあれば、空を駆けるジャンボジェットを絡め取る事さえできるという事だ。

 雪羽に絡みついているそれは流石に毛糸ほどの太さしかない。しかしそれでも、雪羽の動きを制するには十分すぎる代物だった。雪羽は雷獣として速さも体力も優れている。しかし本来の姿が大型の猫程の獣に過ぎず、ゆえにが足りないのだ。


「あのメス狸にまがい物を託して逃がしたつもりでしょうけれど、逃げられない事には変わりありません。隠れていた部下が、今こうしている間にも連中を探しています」


 すました顔で蛇男が告げる。雪羽は真正面からそれを見据えて吠えた。


「ああそうかい。だがそれでこの俺がビビると思ったか。良いかオッサン、俺は一人でノコノコここに来たんじゃあない。俺のバックにどんな連中がついているのか知れば、ビビッてとぐろを巻くしかないんじゃないか? というかそのまま財布になっちまえ。あいつらは――松子さんも弟妹達も貴様らに捕まるもんか。救出部隊に保護してもらう方が先だろうよ」


 毒づく雪羽の言葉を受けながらも、蛇男は涼しい顔だった。のみならず静かに笑ってさえいるではないか。強がっているのか何なのか……雪羽はいよいよ不気味さを覚えた。


「ははは、雷獣はアホばっかりって聞いてたけど、本当にそう思うぜぇ」


 耳障りな羽音と共に、一羽の鳥妖怪が舞い降りてきた。蓮っ葉な口調で喋ったかと思うと、さも当然のように蛇男の隣に控える。二対の翼に不気味なほどフォーマルな衣装、そして七つの首飾り。その鳥妖怪はひどく特徴的な姿を見せていた。


「いいかい小僧。お前がお前の飼い主や保護者に泣きついて救出部隊を編成していたのはだって知ってるんだよ。そうじゃなきゃあ、今頃連中がなだれ込んで計画を台無しにされている……だからが手ずから結界を張って手助けをしている。

 そういう事ですよね、タツミさん」


 鳥妖怪はそう言ってから蛇男の方に視線を向けた。まんざらでもない表情を見せて蛇男も頷く。


「ええ、本当に。殿にはお世話になっております」


――まさか、本当に八頭怪が関与していたとは……! 雪羽は愕然とし目を瞠った。夜鷹の、死者の魂を捉えるという鳥たちの啼き声が幽かに聞こえ、雪羽はいよいよ震え上がるほかなかった。

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