人妖混じりし団欒の夜
開いた玄関から宗一郎と源吾郎の兄弟を出迎えたのは、父親の島崎幸四郎だった。ばたばたとした足音と共に、二番目の兄・誠二郎も姿を現す。満面の笑みをたたえて出迎える父の姿に、源吾郎は一瞬度肝を抜かれたような思いを抱いた。玄関で出迎えるのは母親か長兄であろうと思い込んでいたからだった。
だが、と源吾郎は即座に考えを改める。もう夜の良い時間であるし、母の三花は夕食の準備を進めているのだろう。それに宗一郎は源吾郎と共に帰路を辿っていた訳であるし。
「ただいま父さん。途中でばったり源吾郎と出くわしてね。それで話ながら一緒に帰ったんだよ」
「そうか。それは良かったじゃないか」
父親と長兄は言葉と笑顔を交わしていた。話している間は、もちろん父の視線は長兄に向けられている。しかしすぐに、末息子たる源吾郎をしっかと見やった。かさばるキャリーケースを引いている事だし、源吾郎は宗一郎が上がり込むまで待っていたのだ。
「ああ、本当に久しぶりだな源吾郎……すっかり逞しくなって……」
のっぺりとした面を興奮で火照らせ、幸四郎は感極まったように語り掛けていた。およそ八か月ぶりに息子を出迎える父の図と言うにはちと大げさな気もするが、そういう物なのだと源吾郎は割り切るほかなかった。
元より幸四郎は末息子の源吾郎を痛く気にかけ、ほぼほぼ甘やかすように接してきたのだから。源吾郎も父親の寵愛を受け入れた上で、時にそれを利用する事さえあった。何故幸四郎がここまで源吾郎を可愛がるのか、その根源的な理由までは源吾郎は知らなかった。孫ほどに歳が離れているからなのか、容姿が自分に似ているからなのか、或いは妖狐の血をもっとも色濃く継いでいるからなのか。その辺りは定かではない。
源吾郎に解るのは、幸四郎に猫かわいがりされて甘やかされる事を、父と自分以外の家族も承認しているという事だけだった。母親はもとより、兄姉たちですら源吾郎が父親に特別可愛がられているのを容認しているのだ。兄姉らは源吾郎が父に寵愛される事に対して嫉妬や怨嗟の念は無かった。彼らにとっても、源吾郎は幼くて可愛い仔狐に過ぎなかったのだから。
もっとも、世間で言う厳しい父親と言う役割は長兄の宗一郎が担っていたので、源吾郎もただただ甘やかされて育っていた訳でもないのだが。宗一郎こそが源吾郎の父親であると見做される事もままあったが、それは年齢差だけではなく宗一郎の態度によるところも大きかったのである。
さて宗一郎がリビングへ向かうのを確認してから、源吾郎もそれに続く事にした。車輪を拭くためのタオルをコートから取り出し、たたきの上に広げる。
そうしてキャリーケースを持ち上げようとした丁度その時、未だに玄関にいる幸四郎がゆらりと動いた。
「源吾郎。荷物は父さんが運ぶから、な。母さんも双葉たちもリビングで待ってるから、先に行って顔を見せてやるんだ」
幸四郎の火照った頬にははっきりと笑みが浮かんでいた。突然の事に戸惑いつつも、これもこれで父らしいと源吾郎は思いはしたが。
だが、その父の動きを制したのは誠二郎だった。そしてそのままキャリーケースの取っ手を大きな手で掴み、軽々と持ち上げたのだ。工場勤務で時に重労働も伴うという事もあり、誠二郎は細身ながらも膂力は十分にあった。
「父さん。急に荷物を持って腰でもいわせたら大変だからさ……あ、でもそんなに重くなかったかも」
「誠二郎兄様。荷物言うても着替えとかそんなのを入れているだけなんだ。五、六日は滞在するからちょっと多めに持ってきちゃったんだけど」
五、六日は滞在する。この言葉に父と兄が反応したのは言うまでもない。幸四郎はあからさまに喜色を浮かべていたし、誠二郎はほっとしたような表情を見せていたのだ。もちろん、両者の気持ちの違いは投げかけられた言葉にもはっきりと表れていた。
「宗一郎兄さんも喜ぶだろうね。源吾郎の事だから、三が日が明けないうちにねぐらに戻るんじゃないかってやきもきしていたみたいだし。
だけどな源吾郎。別に俺たちや父さんたちに付き合って、ずっとべったりいなくても良いんだよ。源吾郎も源吾郎の用事があるだろうし、それこそ友達との約束とかがあるんなら、そっちを優先しても良いんだから……」
誠二郎は源吾郎を見下ろしながらつらつらと語りかけていた。普段の、控えめで寡黙な雰囲気とは打って変わっての長広舌である。それでも押しつけがましい感じが無かったのは、ひとえに彼の控えめな気質ゆえの事であろう。
源吾郎は誠二郎の顔を見つめながらにっこりと微笑んで頷いた。
「兄上も気遣ってくれてありがとう。うん、俺は大丈夫だよ。むしろずっと家にい過ぎって母様に叱られちゃうかもしれないかもって、それ位しか心配事は無いからさ」
「まさか! 流石にそんな事は無いだろ源吾郎!」
「母さんが源吾郎を追い出すなんて事は無いに決まってるさ。もしそんな事があったら父さんが説得するからな。安心しろ源吾郎」
源吾郎の冗談は受けたらしく、父も兄も軽く吹き出していた。全くもって朗らかな笑い声である。
母親に追い出される云々は冗談ではあるものの、源吾郎は正月休みの最終日の前日までは実家に逗留しようと考えていた。ホップについてはその間青松丸と紅藤が面倒を見てくれる事であるし、特段年末の予定は入れていない。
強いて言うならば雪羽あたりが初詣や遊びに誘う可能性も視野に入れている。だがそうなる可能性はかなり低いであろうと源吾郎は見積もっていた。何せ月華のお産がすぐ傍まで控えており、雪羽はその事を相当気にかけていたのだから。その上彼は、家族との団欒や繋がりを重要視しているのだ。その考えを源吾郎に伝え、更にはそれとなく押し付けてくる事も日常茶飯事だったのだから。
※
両親と五人の兄弟が珍しく揃った食卓を彩るのはとんかつなどのフライだった。もちろん付け合わせのキャベツやブロッコリーなどの温野菜類もきちんと添えられていた。
やったとんかつやん。しかもジャガイモのフライもあるし……! 源吾郎は夕食のメニューを前にテンションが上がっていた。狐の好物はネズミの天ぷらと言われるように、妖狐は揚げ物が好きな個体が多いのだ。そうでなくとも源吾郎は食べ盛りであるし、何より「おふくろの味」は久しぶりなのだから。
もちろんそれは、宗一郎以外の他の兄姉らも同じ事かもしれないが。
ともあれ、歓喜と感慨の狭間にて一家が揃う夕食が始まったのだった。
「源吾郎が逞しくなったってお父さんも言ってたけれど、本当になんかシュッとした感じになったわよねぇ」
感嘆の声を漏らしたのは、母の三花だった。チキンカツを食べる箸を止め、末息子の姿をしげしげと眺めている。その母の眼差しに驚きの念が籠っている事に気付き、源吾郎は密かに喜んでいた。玉藻御前の孫娘である母が肝の据わった妖物である事、滅多な事では驚かない事は源吾郎も良く知っていた。
だからこそ、他ならぬ源吾郎の姿によって母を驚かせることが出来たと知り、無邪気な優越感に浸ってもいたのだ。シュッとしたって、痩せたんじゃあないだろうな源吾郎。長兄たる宗一郎は、神経質そうに眉を上下させつつ末弟の様子を窺っていたのだが。
「宗一郎兄様ぁ。確かに春から一、二キロくらい体重は落ちたけど、別にまぁそんなに痩せた訳じゃないから大丈夫だって。元々からして標準体重に近いって言うか……ちょっとずんぐりしているように見えちゃってたし」
「ずんぐりしているのは骨格の影響で、源吾郎自身はそんなに肥ってないでしょ? 何かこう贅肉とかなさそうだし。何なら確認してあげよっか?」
「双葉姉さん。どさくさに紛れてその発言はマズいと思うんだけど」
宗一郎の問いに答えただけの源吾郎であるが、他の兄姉である双葉や誠二郎も思った事などを口にしている。兄上たちも姉上もめっちゃ俺に関心を持ってるやん……源吾郎は嬉しいというよりもちょっとだけ戸惑ってしまった。姉の双葉が、源吾郎を含めた弟たちで遊ぶ事を楽しむ性質であると知っていたにもかかわらず、である。
それよりも誠二郎が積極的に絡んでくるのもまた新鮮だった。と言うのも、三人の兄たちの中でも、二番目の兄である誠二郎との接触が一番少なかったためだ。別段不仲と言うわけでは無いのだが、微妙な年齢差や立ち位置が、二人に微妙な関係性をもたらしているのかもしれなかった。更に言えば、誠二郎は兄姉らの中でもいっとう人間の血が濃かった。妖狐の血を色濃く受け継ぎ、幼少期より妖怪としての自我を育んできた源吾郎と接点が薄いのも無理からぬ話であろう。
「ともあれ源吾郎。お前も実家を出て一人で頑張って暮らしているんだな。本当に、父さんは嬉しいよ」
父親の言葉に、源吾郎ははにかんだように笑い返すのがやっとだった。笑い皺の出来たその目元に、光る物を見てしまったのだから尚更だ。
思わず浮かんだ嬉し涙に気付いていないのか、幸四郎はなおも言葉を続ける。
「まだ源吾郎の事はほんの子供だって思っていた節があったけれど……やっぱり社会に出たから、ぐっと大人っぽくなったな」
「そうだよね父さん! えへへ、俺も就職したし、そりゃあまぁ大人っぽくもなるだろうさ」
社会妖になって大人っぽくなった。他ならぬ父親の言葉に、源吾郎は無邪気に良い気分になっていた。末っ子の仔狐扱いが慣れていたと言えども、ずぅっと子供扱いされるのは性に合わない。
だからこそ、笑顔のまま源吾郎は深く考えずに言葉を紡いだのだ。
「こんな事自分で言うとアレかもしれないけれど……俺もここ数か月は成長したなぁって我ながら感じる事もあるもん。社会人として、んでもって妖怪としてね」
妖怪として。社会人云々の事を言及していただけにも関わらず、その言葉すら源吾郎は口にしていた。もちろん、その時兄姉たちが、特に長兄がどのような表情になっているのか、全く気にも留めずに。
笑顔ともドヤ顔ともつかぬ表情のまま、源吾郎は言葉を重ねる。
「職場では戦闘訓練もやってるんだ。他の妖怪と闘う訓練なんだけど、そのお陰で使える妖術も妖力そのものも増えたかなって思ってるんだ。
でも最近は同僚? の……雷獣の子とやり合う事が多くてね。そいつがまた強くて中々大変なんだよ。言うて二回くらいは俺が勝ったけど」
雷獣の子と言うのはもちろん雪羽の事である。いつの間にか研究センターの研修生になっていたし、処遇は違えど同じ場所で働いているから同僚みたいなものである。呑気にそう思っていたまさにその時、源吾郎は鋭い視線が向けられている事にようやく気付いた。
視線の主は長兄の宗一郎だった。眼鏡の奥にある瞳は大きく見開かれている。信じられないようなものを見る様な眼差しだった。
「戦闘訓練に妖怪と闘うだって……源吾郎、お前はそんな危ない事を職場でやってるのか?」
末弟への気遣いと、妖怪らしい振る舞いに対する恐怖のために、宗一郎の声は震えていた。人間は妖怪を怖れると言うが、妖怪の血を受け継ぐ半妖とてそういった傾向はある。ましてや、源吾郎や雪羽などは普通の妖怪たちですら実力者だと一目を置き、恐れをなしているくらいなのだから。
水を差されたような気分になりながらも、源吾郎は頷いた。
「宗一郎兄様。言い方は物騒かもしれないけれど、戦闘訓練なんてのはそんなに物騒な物じゃあないんだよ。言うて力較べとか……スポーツみたいなものさ。俺の、俺たちの身の安全に関しては、上司たちも危なくないようにって色々と配慮して下さっているしさ」
宗一郎の目の色が先程とは変化する。得体のしれないモノへの恐怖を押しとどめ、どうにか納得しようと奮起しているのを、源吾郎は見て取ったのだ。
その事に気付いた源吾郎は、のっぺりとした面に妖狐らしい笑みを浮かべて言い添えた。
「闘うなんて、源吾郎には必要のない事だ――宗一郎兄様はそう言いたい所でしょうね。兄様は家族の中で一番俺が人間として育つ事を望んでいたみたいだからさ。
でもね宗一郎兄様。俺の事はもう昔みたいにあれこれ心配しなくても大丈夫なの。大丈夫だし……今更兄上たちや姉上がとやかく言って、俺の生き方が変わるとでも思う?」
渋面を浮かべる宗一郎の顔に僅かに笑みが広がるのを見、源吾郎はうっそりと満足していた。
源吾郎は知っている。長兄の宗一郎が源吾郎を息子のように扱っていた真の理由を。異形・妖怪としての源吾郎を最も恐れ、彼が人間として育つ事を望んでいたから。それこそが父親のように振舞う宗一郎の真意だったのだ。
ずっと独身で仕事に没頭しているように見える宗一郎であるが、少年時代は無邪気に人並みの生活が出来ると彼は思っていた。要するに好きな女性と結婚し、子供を設けて家族を作るという暮らしの事だ。もちろん宗一郎も妖狐の血は流れていたのだが、気質も自我も人間に近いから、どうにでもなると宗一郎は考えていたそうだ。実際問題宗一郎は優秀な若者であり、勉学も青春もおのれの思うとおりになっていたのだから。
その青写真をぶち壊したのが、他ならぬ源吾郎の存在だったのだ。生まれつき三尾を具え、妖力を放ち、しかも妖怪としての自我の持ち主である。同じ父母から生まれた弟ながらも、ソレが異形そのものに思えたのは無理からぬ話だろう。生まれた直後などは、本当に狐と人が融合したような姿だったとも言われているのだから。
もしかしたら自分の子も、弟みたいに異形の仔になるのではないか……そんな考えに宗一郎は取り憑かれてしまったのだ。それ以降は女性との交際や結婚を諦め、何かと源吾郎に構うようになったわけである。弟が人間として育てば大丈夫かもしれない。そんな考えが宗一郎の脳裏にあったそうだ。
十八年にわたる長兄と末弟の関わりの裏には、異形に対する恐怖心と自分本位な願望によって成り立っていたのだ。源吾郎がその事を知ったのは高校性になってからの事だった。
断っておくが、宗一郎の真意を知ったからと言って、源吾郎は別に憤慨した訳ではないし、今も別に腹立たしく思ってはいない。人間が妖怪を怖れる事は嫌と言う程知っていたし、その頃は宗一郎も若いどころか青少年だったのだ。生真面目な気質も相まって、思いつめてしまうのもやむなしと言った所だろう。
それに何より源吾郎も何だかんだで長兄の事は保護者として兄として慕っていた。思惑は不順だったのかもしれないが、それでも兄は自分の事を気にかけてくれていたのだから。そもそも源吾郎は、徹頭徹尾妖怪として生きるという目標をぶち上げ、現在それを成している。宗一郎の自分本位さを糾弾できない程に、源吾郎も身勝手に生きてきたのだ。だからその点ではおあいこだった。
さて自分が逞しくなった理由を述べ、ついで兄を言いくるめた事で源吾郎は気をよくしてはいた。だからこそ、低くどっしりとした声でおのれを呼ぶのを聞いた時、少しばかり驚いてしまった。宗一郎がまた呼びかけたのかとまず思ったからだ。
だが声の主は、長兄ではなく父親だった。
「源吾郎。折角家に戻って兄さんたちに会ったんだから、生意気な事を言って困らせるもんじゃない。お前だってもう仔狐じゃあないんだから、解るよな」
「……はい」
源吾郎は軽い衝撃を受けながら頷いた。父の口調は穏やかであったが、父にたしなめられた事こそが源吾郎にとっては驚きだったのだ。
幸四郎はほんのりと笑みを浮かべながら言い添える。
「何。源吾郎の進路や今後の生き方については、去年の親族会議できちんと決まっただろう。その事について父さんも母さんも異存はないから、源吾郎だって別に堂々としていればいいんだ。その方が、お前が目指している大妖怪らしいだろう」
父の言葉に、源吾郎はまたも頷いた。しおらしく反省する息子の態度に満足したのか、父は今度は宗一郎に視線を向けたのだった。
「宗一郎。君も何かと源吾郎の事を気にかけてくれて、父さんでは出来なかった事を色々とやってくれた事には感謝しているよ。だけどな、源吾郎の事は必要以上に心配しなくて大丈夫だと、父さんは思っているんだ。
確かに源吾郎は、宗一郎たちと違って妖怪として生きていこうとしている。だけど野放図に生きているんじゃなくて、信頼できる相手の許で働いていて、そこで色々なルールを学んでいるんだ」
そうだろ母さん。話題を振られた三花はその通りだと頷いていた。
未だ残っているフライに手を付けるのも忘れ、源吾郎は幸四郎の言葉に静かに耳を傾けていた。
幸四郎が源吾郎の父である事はもちろん知っていた。だが、父親としての、或いは一家の長としての威厳を目の当たりにしたのはこれが初めての気がした。
しかしだからこそ、玉藻御前の孫娘を妻として娶り、異形の血を色濃く受け継いだ息子を息子として受け入れる事が出来たのだ。そのように源吾郎には思えたのだった。
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