ネズミが招いた不思議な空気

 バケツに入ったネズミたちの立てる物音や啼き声は、研究センターの室内によく響いた。源吾郎も雪羽も、無言でバケツの中身を除き、ネズミを監視していた。二人では何をどうすれば良いか解らず、半ば途方に暮れていたのだ。

 間を持たせようと、源吾郎は自分が捕獲したネズミを雪羽が捕獲したネズミらのいるバケツに移動させた。水槽に入っていたネズミは、他のネズミらに取り囲まれ四方から匂いを嗅がれていたようだが、すぐにどれがどのネズミか判らなくなった。無論攻撃やいさかいの類も無い。源吾郎の予想通り、彼らは身内だったらしい。


 年長の責任者もいない研究センターの中、ネズミという侵入者を監視する。尋常ならざる状況に緊張していた源吾郎だが、隣にいる存在がその緊張に拍車をかけていた。

 萩尾丸が面倒を見ているという事もあり、雪羽が研究センターに出入りする事になるのは致し方ない。それは源吾郎も解っている。しかし、雪羽と打ち解けているかと言われれば別問題だ。

 正直に言えば、雪羽に対する源吾郎の評価は低かった。烈しく憎んだり嫌ったりしている訳ではないが、いけ好かないやつというイメージがどうしても付きまとってしまう。萩尾丸の配下である若手妖怪たちには友好的に振舞う事もある。人となりを知らない相手をそうそう毛嫌いする事も無い。そう思うと、雪羽に対する源吾郎の印象はある意味特殊な物だろう。

 雪羽に対してそのような評価を下すのは、源吾郎の中にはきちんとした理由があった。何せ彼は生誕祭の場で乱痴気騒ぎを起こし、あの幹部会議の引き金になった張本人だ。ついでに言えばウェイトレスに化身して真面目に働いていた源吾郎に絡んだ挙句、本性を知った後には変態と言い捨てる始末である。そのような仕打ちを受けて、それでも相手に怒りを抱かないのは聖人君子くらいだろう。そして源吾郎は聖人君子ではないし、聖人君子を目指している訳でもない。

 そりゃあもちろん、雪羽の複雑な境遇については気の毒だとは思っている。だがそれとこれとは別問題なのだ。

 また、雪羽は純血の妖怪、それも名門の家系に生まれ実力も伴った妖怪である。萩尾丸の部下たちや、地元に住まう若手妖怪たちの多くは庶民妖怪であり、彼らは源吾郎が半妖である事をあげつらい、揶揄する事はほとんどない。仮にそうしたとしても「所詮は庶民妖怪だろう」の一言で片が付く。しかし雪羽は本家から放逐されたと言えども貴族妖怪の一匹である。しかも幼いのに実力もある。その彼に半妖である事をからかわれたらひとたまりも無い。

 

 色々な理由から雪羽とは打ち解けられそうにないと思っていた源吾郎であるが、しかし雪羽と表立って対立する事は望んでいなかった。雪羽に妙な事をされたくはないが、自分から仕掛けていくのは下策であると解っているからだ。雪羽の性格上、源吾郎が仕掛けてくれば必ず向こうもやり返すであろう。そうなれば妖怪乱闘が始まる事は目に見えている。

 乱闘を始める事にメリットはない。勝敗の行方とは無関係に師範や兄弟子にその行動を咎められるのがオチだろう。しかも源吾郎がちょっかいをかけて雪羽と相争ったとなれば、責任を問われるのは明らかだ。

 そうなると、雪羽とは極力関わらず、争いを全力で回避するのが一番なのだ。少なくとも、源吾郎が雪羽の存在に慣れるまでは。

 そのように源吾郎は思っていたので、今のこの状況はかなり緊迫したものだった。雪羽は萩尾丸や紅藤の前では大人しい良い子を演じている。それは演じる事が出来る程の狡猾さを持ち合わせているという事であり、源吾郎と一対一の時は態度が異なる可能性もあるという事でもあった。初対面の時は単なる悪たれ小僧だと思っていたのだが、単なる悪たれ小僧よりも厄介な存在なのだ、雪羽は。

 実はこのネズミ放流事件も雪羽がもたらしたものではないか、という疑惑が首をもたげた時もあった。しかしネズミらを前に驚く雪羽の姿は演技ではなさそうだ。



「先輩はさ、ネズミを何処で見つけたのさ?」


 ネズミに意識を向けていた源吾郎だったが、とうとう雪羽に声をかけられてしまった。彼の視線はネズミではなく源吾郎に向けられている。その面立ちには子供らしさが多分に残っており、源吾郎はちょっとだけ戸惑った。に何を緊張しているのだ、と。

 に言えば源吾郎の方が年下なのだが、純血の妖怪は成長がゆっくりである。雪羽は既に四十年近く生きているが、人間で言えばまだ十代半ばに差し掛かるかどうかといった所であろう。精神年齢も中学生程度だと思って差し支えは無い。ややこしい話だが、そういう意味では源吾郎は年長者として振舞ってもばちは当たらないかもしれないと思っていたのだ。


「何処ってと、……」


 鳥籠の上。そう言いかけて源吾郎は言葉を濁した。源吾郎がホップを養っている事を知られてしまう。その事に気付いたからだ。鳥籠と言えば鳥を飼っていると思われる。そうなれば源吾郎はホップの話を白状せねばならないし。

 源吾郎は実は雪羽にホップの事を話していなかった。それは別に、彼が研究センターに入ってから間がないからではない。自分が大切にしている存在がいる事を、雪羽に知られる事、その後に起こるであろう事を用心しての事だった。雪羽は萩尾丸たちの監視下では源吾郎に悪さはしないだろう。しかし彼らの目が無い所でどう動くかが不安だった。しかも源吾郎の本宅が何処なのか、雪羽は既に知っている訳だし。

 トイレか、戸棚の上か……「と」から始まる言葉を探っていると、雪羽がにやりと笑みを見せた。


「鳥籠の上にでも捕まってたんだな」

「チュウ」


 源吾郎ははっとした様子で雪羽を見やった。何も言ってないのに、彼はネズミがいた状況を言い当ててしまったではないか、と。

 何を驚いているんですか? すっとぼけた様子で雪羽は言い添える。


「先輩が小鳥ちゃんを可愛がってる事は俺も知ってますよ。萩尾丸さんから教えてもらいましたし……何より島崎先輩には、小鳥ちゃんの匂いが染みついているじゃないですか」

「あ、そっか。確かにそうだよな」


 源吾郎はおのれの右手をじっと見つめた。ホップは今朝も、源吾郎の手によって放鳥され、源吾郎の監督下で戯れていた。ネズミの尻尾を捕獲できなかった苛立ちもあったのか、ホップの動きはいつもよりも烈しかった。すなわち、源吾郎の手に止まり、手指を攻撃してきたのだ。それでも彼なりに加減しているであろう事は源吾郎もよく解っていた。何せさかむけを千切られた程度で済んだのだから。蜥蜴を喰い殺すホップが本気を出せば、薄皮どころか指の肉を抉るくらいの事をやってのけるだろうし。

 まぁともあれ、ホップが源吾郎の許に来て一か月は経つ。ホップの匂いとやらが源吾郎に移っていてもおかしくはない話だ。


「知ってるんだったら隠す必要はないな。そうだよ、確かに俺は小鳥を飼ってるんだ。元々は友達の十姉妹だったんだけど、色々あって妖怪化しちゃったから、俺が引き取って面倒を見てるんだよ」

「十姉妹か。先輩がそんな素朴な小鳥を飼ってるなんて意外ですね」


 雪羽の言葉に源吾郎は微妙な表情を浮かべた。前書庫バーで顔を合わせた鳥園寺さんや畠中さんも似たような事を言っていたが、彼女らの発言と雪羽の発言は同じ意味であるとは思えない。

 ある種の皮肉が籠められているのではないか。どうしてもそんな考えが脳裏をよぎってしまうのだ。


「それにしても水臭いですねぇ。小鳥ちゃんの事、別に隠し立てしなくても良かったのに」

「まぁ何というかだな、ホップの事を知ったら笑い飛ばされるんじゃないかと思ったんだよ」


 ホップの事を直接雪羽に告げなかった理由を源吾郎はそっと口にした。但しこれは対外的なある種の嘘である。実際のところ、源吾郎には雪羽がホップに危害を加えるのではないかという懸念があったのだ。雪羽も雪羽で源吾郎を面白く思っていない可能性がある。相手に直接仕掛けずとも、相手のペット兼使い魔を害するという嫌がらせを行うのではないか、と。

 もちろん、そんな本音は口には出さない。雪羽の思惑がどうであれ、そんな事を言った日にはそれこそ乱闘になるかもしれないからだ。


「別に俺は島崎先輩が何を従えていようと特に気にはしないさ。あー、先輩ってペット飼ってるんだって思う位だし」


 それよりも。言い添える雪羽の表情は、いつの間にか真剣なものになっていた。


「その小鳥ちゃんが先輩のペットなのか何なのかは知らないけれど、面倒を見てるんだったら大切にしてやらないと駄目だと思うぜ。鳥籠に入れて飼ってるっていう話だから、そいつも先輩の事を頼りにしているんだろうし」


 思いがけぬ雪羽の言葉に源吾郎は一瞬面食らってしまった。まさか雪羽にホップを大切にしろと言われるとは思っていなかったのだ。

 しかし――彼の身辺の事を思い返してみると、彼の発言もある意味筋が通っている。雪羽自身は母親の死により実家を放逐されたし、この間も取り巻き連中に裏切られていた。その事に対して特に何も言わないが、彼も彼で思う所があるのだろう。

 源吾郎はだから、小さく頷くだけに留まったのである。

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