十番勝負は願掛けと共に
泥だらけの雪羽に源吾郎は近付こうかどうか一瞬迷った。タイマン勝負の後に、多少言葉を交わすのはいつもの事である。しかし今回はいつもと違い、源吾郎が勝利を収めたのだ。
そうして迷っているうちに、雪羽の許にまず二匹の妖怪が駆け付けた。三國の側近たちである事は言うまでもない。
「大丈夫ですか雪羽お坊ちゃま」
「雷園寺殿。今回もよくぞ頑張りましたね……」
雪羽への声掛けの内容は、そのまま彼らの個性を反映していた。せっかちな堀川さんはひたすらに雪羽の身の安全を気にしているし、春嵐の言葉には雪羽へのねぎらいと気遣いがこもっている。
源吾郎は結局雪羽に近付かないでいた。雪羽自身も気が立っているであろうし、何より三國の側近たちが傍にいるからだ。
三國の部下や側近たちが雪羽をどのように思っているのか。これは源吾郎も良く知っていた。彼らが雪羽を丁重に扱うのは、三國に対する気兼ねやゴマすりのためではない。彼らもまた、雪羽に愛情を抱いているらしい事は源吾郎も折に触れて感じていた。
春嵐も堀川さんも既に泥まみれの雪羽を取り囲み、様子を窺いつつ話しかけている。そんな一団に近付いてきたのは紅藤だった。雪羽と春嵐たちを見つめるその面には、柔和な笑みが広がっている。
「春嵐さんに堀川さん。雷園寺君に関しては心配はいりませんわ。確かに島崎君から受けた攻撃によって一時的に妖気の流れが乱れたようですが、それは一時的なものに過ぎません。数十分休めば回復するでしょう。
それに雷園寺君が被った泥も無害な物である事は把握しています。何しろ護符の護りを通過したのですから」
紅藤はさらりと護符のからくりについて言及していた。堀川さんや雪羽の喉から嘆息の声が漏れている。紅藤はこれから何を言うのだろう。
そんな事を思っていた丁度その時、斜め後ろから何かが飛びかかってきた。飛びかかってきたのは珠彦だった。思い切った行動を取ったのは珠彦だけであるが、源吾郎の近くには既に数匹の妖狐が集まり取り囲んでいた。そこにはチビ狐の変化術を得意とする文明の姿も、玉藻御前の末裔を語る黒い妖狐の姿もあった。
「お疲れっす島崎君!」
テンション高く源吾郎をねぎらうのは珠彦だった。彼はあのタイマン勝負を見て興奮していたらしい。前は源吾郎も雪羽も強すぎて……などと言っていたのが嘘のようだ。
「さっきの勝負、凄かったしとっても面白かったっすよ」
「面白かった……?」
珠彦の言葉に源吾郎は首をかしげる。源吾郎はおのれの勝利の報せを受けるまで、雑念も何もなく真剣勝負を繰り広げていた。面白い要素が何処にあったのか素直に気になったのだ。ましてや、珠彦たちは源吾郎の強さに今や恐れを抱いていると聞いたばかりだ。
「だって雷園寺さんの事を泥んこにして倒したじゃないっすか! あれは丁度漫才とかバラエティ番組みたいで面白いと思えてさ」
「そうそう。あの時の雷園寺さんの様子は傑作だったぜ」
珠彦の返答にかぶさるように告げたのは文明だった。彼は源吾郎を見ながらチビ狐の使用料がどうという話も冗談めかして行っていたが、雪羽の話になるや否や満面の笑みを源吾郎たちに見せた。若者らしい爽やかな笑みとは程遠い、ゴシップ好きな俗っぽい笑みである。
「ずぅっと俺たちにいばりくさってたあの雷園寺さんが、あんな泥ごときで怯んで負けちゃうなんてさ、本当にギャグみたいだと島崎君も思わないかい? 俺なんかずっと見ながら笑いをこらえてたんだよ」
「俺はむしろスカッとしたよ。雷園寺のやつは今までずっと俺たちの事を雑草だの野良の雑魚だのと言って見下してたんだから。所詮は威張るだけしか能のない、本家から追い出された馬鹿に過ぎないのにさ。あのおつむの弱い雷園寺もさ、お狐様には敵わないって身をもって解ったんじゃね?」
「今度あいつが絡んできたら、俺らも島崎君みたく泥をぶっかけたら良いんじゃないかな。泥じゃなくて飲みかけの酒でもいっか。あいつ酒好きだし」
文明の言葉に触発されたのか、他の妖狐たちもめいめいに思った事を口にし始めた。最初は源吾郎の勝利を讃えるために集まってくれたのだろう。しかし実際に口にされる内容を耳にした源吾郎は、ただただ戸惑うばかりだった。途中から源吾郎の功績ではなく雪羽への中傷にすり替わっていたからだ。
源吾郎の心中は複雑なものだった。雪羽については今でも思う所はあるにはある。しかし頭が弱いとか馬鹿と言い募るのはいくら何でも言い過ぎだと思っていた。
その一方で、妖狐たちがそのように言い募る気持ちも理解できてしまった。源吾郎もまた、雪羽と初めて顔を合わせた時はいけ好かないドスケベのクソガキだと思っていたのだから。ここに集まる妖狐たちの勤続年数は源吾郎よりも長い。そうなれば雪羽の嫌な面もたくさん知っているはずだ。
ついでに言えば彼らは萩尾丸の配下たちの中でも末端の存在でもある。上役のような責務からは自由ではあるが、下働きゆえの苦労やストレスもあるに違いない。今回は単に、その矛先が雪羽に向けられただけだろう。
そう思っていると、鋭く短い咳払いが響いた。見れば二尾の黒狐がわざとらしく口許に手を添えている。
「皆、島崎君相手だからってあんまりあれこれ言わない方が良いかもよ。ざわついていたら萩尾丸様や他の上役たちにも聞こえるかもしれないし」
その言葉を聞くや否や、下卑た談笑に興じていた妖狐たちは一瞬で静まり返った。それから源吾郎に対し口止めする者も出てきた始末である。
※
「島崎せーんぱい」
昼休み。斜め下からの雪羽の呼びかけを耳にした源吾郎はぎょっとした。雪羽は本来の姿を晒し、数メートル離れた所にいたためだ。
雪羽は本来の姿を「まだ勇ましくない」と思い、半ば恥じている事は源吾郎も知っている。それなのに本来の姿を晒しているとはどうしたのだろう。
「どうしたんだ雷園寺。そんな姿のままでさ……まだしんどいのか?」
「やだなぁ、俺はもう元気モリモリですよ」
そう言って雪羽は三尾を持ち上げ、ゆっくりと左右に振る。放電こそ起きなかったが、毛先から妖気が放出されるのを源吾郎は感じ取った。確かに普段通りだった。
「先輩。俺に言った事忘れたんですか? 勝負に勝ったら本来の姿でモフらせて欲しいって。それで、今回は先輩が勝ったんで約束通りモフらせに来たんですよ?」
そう言った時には、もう雪羽の身体は浮き上がっていた。そしてそのまま源吾郎の膝の上に着地したのだ。着地した時の衝撃は少ないが、膝の上にはずっしりとした重さが感じられた。生き物の重みだった。
「さぁ先輩。存分にモフってくださいよ。あ、でもお尻とか変な所は触らないでくださいね。咬みますんで」
「そんな、変な所は触らないよ」
雪羽は源吾郎の膝の上に乗り、のみならずその身体を源吾郎の腹側に寄せていた。源吾郎はそのために、手で触れないうちから雪羽の息遣いや心臓の動きなどを感じ取ることが出来たのだ。
多少躊躇ってはいたが、源吾郎は手を伸ばして雪羽の背中をゆっくりと撫でた。フワフワした感触が指先に伝わる。しかしフワフワしている部分は表層だけであり、フワフワの下は存外しっかりした感触がある。筋肉が発達しているのだと源吾郎は思った。だが考えてみれば雷獣は空を飛び地上であれ空中であれ縦横無尽に駆け回る身体能力を持ち合わせる。それらを可能にしているのが筋肉と妖力なのだろう。
「どうしたんです先輩。何か元気がないみたいですけど」
ぼんやりと手指を動かしていると、雪羽が身じろぎをして首を持ち上げる。その動きで空気が揺らぎ、雪羽の匂いが源吾郎の許に伝わった。その体臭は例えるならばキャラメル味のポップコーンに似ていた。
雪羽の匂いはさておき。元気がないと指摘された源吾郎は少し戸惑ってしまった。確かにちょっと上の空になりながら撫でていた節はあるにはある。しかしそれを元気がないと解釈されてしまうとは。
というかそう言う意味では雪羽も元気がない気もする。何がどうという訳ではないが、今こうして源吾郎の膝の上に鎮座する雪羽は妙にしおらしい態度を取っているように感じられた。
「折角俺とのタイマン勝負で勝てたんだから、もうちょっと喜んでも良いんじゃないんですかね」
「まぁ確かに雷園寺君に勝つ事を夢見てたけどさ……あんまり唐突過ぎてびっくりしちゃったんだよ。ただそれだけさ」
源吾郎が言うと、雪羽が身を震わせて笑った。静電気が発生しているらしく、源吾郎はおのれの産毛が逆立つのを感じる。
「でも試合の後に狐たちが集まって、島崎先輩の事をもてはやしてたんじゃないの?」
「ま、まぁそんな感じだったかな」
妖狐たちの事を引き合いに出され、へどもどしながら雪羽の問いに応じる。雪羽は輝く翠眼でこちらを見ていた。表情筋の少ない獣の姿を取っているためか、彼の表情は読み取れなかった。まさか妖狐たちの話した内容を把握しているのか。源吾郎は冷や汗が出る思いだった。
「ふーん。あいつらも元々は先輩を強いだの怖いだの言って腫れ物に触るような雰囲気を出してたのに、俺を打ち負かしたのを見て手の平を返したのかなぁ。まぁ、お狐様は庶民だろうと貴族だろうと賢いお方が多いからねぇ」
雪羽の言葉を源吾郎は無言で聞いていた。お狐様は賢い。その雪羽の評価には、皮肉が多分に込められていた。源吾郎は何も言えなかった。半妖とはいえ自分もお狐様の身分だからだ。というか地味に板挟みになった気分でもあった。
「俺の事はさておきだな、雷園寺君。君もちょっと元気がないように思うけど……」
「実はさ、さっきちょっと萩尾丸さんに注意されたんだ」
源吾郎が目を丸くしていると、雪羽は口許を薄く開いて言葉を続けた。この時は何故か、雪羽が笑っているのだと源吾郎は気付く事が出来た。
「タイマン勝負は十回連続でやるって言ってたでしょ? 実は、そのタイマン勝負に願を掛けていたんだ。十連勝出来たら俺は雷園寺家の当主になれるってね」
「…………そうか、そうだったんだ」
源吾郎は雪羽を撫でる手を止めた。タイマン勝負が十連続である詳しい理由は知らなかった。十回というのがキリが良いからなのだと思っていたが、まさかそんな事を雪羽が思っていたとは。
だが、そう言われて腑に落ちる部分も大いにあった。タイマン勝負の回数が重なるごとに、雪羽もまた勝利を重ねる事に執着しているそぶりを見せていたからだ。
それに雪羽が抱える、雷園寺家当主の座への想いが生半可ではない事は源吾郎も良く知っている。それこそ、源吾郎の玉藻御前の血統への誇りと同じ物であろう、と。して思えば、タイマン勝負にそう言った願掛けを行っていても何もおかしい事はない。
「勝ち戦ばっかりじゃない、負けるかもしれない事柄なのにそんな願掛けを載せるんじゃないって萩尾丸さんには言われたんだ」
雪羽の述懐を源吾郎は黙って聞いていた。いかにも萩尾丸が言いそうな事である。もしかしなくても、雪羽は落ち込んでいるのだろうか。
そんな源吾郎の考えに気付いたのか、雪羽が顔を上げる。やはり獣の笑みが浮かんでいた。
「あ、でも大丈夫だよ先輩。別に落ち込んでないし。それに萩尾丸さんに言われたんだよ。一度負けただけだから、また勝ちの実績を重ねれば良いだけだってね。
雷園寺家に関しても、本家に戻って邪魔な連中を蹴散らさなくても、叔父貴の許にいたままの状態でそのまま雷園寺家当主を新たに名乗っても良いってね。萩尾丸さんに言われるまで、そんな方法は思いつかなかったよ」
「……萩尾丸さんは、あれで結構慣習に縛られないお方なのかもしれないな」
「本当だよな。俺たちよりもうんと長生きなのに」
源吾郎はもう雪羽の毛並みを撫でるのを止めていた。萩尾丸の提案や彼の考え方について思いを馳せていたのだ。古い物事に縛られない、革新的な考えを持ち合わせているのはむしろ自分たちよりも萩尾丸の方なのだろう。というよりも、研究センターの主たる紅藤が革新的な考えの持ち主だったのかもしれない。
そしておのれの血統や家を背負おうとする源吾郎たちの方が、むしろ保守的な考えの可能性がある。その事を思うと源吾郎は少し不思議な気持ちになった。それはやはり、年長者の方が保守的で若者の方が革新的というステロタイプに縛られているからなのだろう。
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