枕辺に召喚されしは哮天犬

 雪羽は自室のベッドに潜り込んでいた。眠ろうと思っているのだが、いつもと異なり眠気が中々やってこない。雷獣の雪羽は、実は普段はかなり寝付きの良い方だ。寝床に入って目をつぶっていればそれですぐに寝てしまう程だ。雷獣特有の切り替えの早い脳の構造が関与しているのかもしれない。

 もちろん身体的にも精神的にも疲れていて眠りを欲していた。しかし妙に頭は冴えていて、そのせいで中々眠れそうになかったのだ。やはりそれは、時雨の件を耳にしたからなのだろうと雪羽も解っていた。


「…………」


 横向きに寝ている雪羽の胸と腹の間で、柔らかなかたまりが蠢く。いつの間にか猫又のシロウが寝室に入り込み、当然のように雪羽の隣で丸くなっていた。猫なのでそういう事はままある話らしい。シロウが忍び込んできた時雪羽は目を閉じていたが、電流で彼の接近を読んでいたので特に驚きはない。

 雪羽としてもシロウが近づいてきたのは有難かった。緊張している時や寂しい時は手許にフワフワしたものがあった方がやはり落ち着くのだ。

 シロウの意図は雪羽には解らない。しかし雪羽の考えを解った上での動きであるように思えてならなかった。ともあれ雪羽は、近くにいる猫又の感触で眠気を感じ始める事が出来たのだ。



「こんばんは、おにーさん」


 真夜中の来訪者は、本当に雪羽にとって予期せぬものだった。むしろ寝入っていた雪羽が、闖入者の声掛けに気付けたのが奇跡的と呼んでも良いくらいだ。考え事のために眠りが浅かったためなのか、或いは闖入者の持つ奇妙な作用のためなのかは定かではない。しかし奇妙な気配と微妙に神経に障る物言いが、雪羽を目覚めさせてしまったのだ。

 半ば反射的に半身を起こす。照明をつけるなどという事は行わない。雷獣である雪羽にしてみれば、暗がりで視界が利かない事は問題のうちに入らない。電流を読むという雷獣特有の第六感の鋭さは、視覚や聴覚の比ではないからだ。ついでに言えば電流を読む精度は、むしろこうした暗がりの方が増すくらいなのだから。


「…………?」


 電流を読もうとした雪羽の顔には、当惑と驚愕の色が即座に広がった。声の主はそこにいる。しかしどのような存在か読み取る事に失敗したのだ。雪羽は日頃よりおのれの第六感を頼りにしていた。それ故に衝撃が大きかったのだ。

――雷獣の、電流を読む力は確かに便利なものだ。しかしその力に依存するだけでは一流の雷獣にはなれない。それをよく覚えておくんだ

 三國がかつてそんな事を言っていたのを、混迷する意識の中で雪羽は思い出した。まだ子供だった雪羽は、その言葉がどういう意味を持っているのか解らなかった。俺は強いから平気だ、といった塩梅に軽く流していたに違いない。

 だがその叔父の言葉を、雪羽は身をもって思い知っていた。今や相手に恐怖さえ抱いていたのだ。いや、こんな所でビビってる場合じゃあないだろう。落ち着け、落ち着け! 自分を鼓舞しながら、雪羽は断片的な記憶をかき集めた。電流を読む事に馴染んでいる雷獣にしてみれば、電流が読めない事は不安をあおる。しかしこういった出来事は初めてでは無かろう、と。そうだ。雪羽はかねてよりおのれの電流探知が通じない相手に出会っていたはずだ。それも一度ではない。

 研究センターの若手職員であるサカイ先輩の電流は、常に読み取る事が不可能だった。隙間に潜むというすきま女の特性故の事であろう。

 紅藤や萩尾丸たちの電流が読み取れない事は無かった。しかし彼らの場合はステルス能力を使えないのではなく敢えて使わずに電流を読み取らせているのではなかろうか。特に萩尾丸などは、自分の屋敷に備蓄している酒類や諸々の物品(子供の教育によろしくないと判断した物)に対して、雪羽に探られないように術をかけているらしいのだから。

 それに何より――仔狐・若狐と呼びならわされる源吾郎とて電流探知を欺く結界術を行使していたではないか。

 心臓の辺りに手を添えながら、雪羽はそんな事をつらつらと考えていた。状況は特に変わらないが、恐怖心や焦りは大分薄まった。

 部屋の照明がひとりでに灯ったのは、雪羽が落ち着きを取り戻した直後の事だった。

 相変わらず電流の流れは解らないが、視界が明るくなったので闖入者の姿を目で捉える事が出来た。そいつは若者の姿を取っていた。癖のない黒髪に灰色のチョッキと白色のワイシャツに、黒いスラックスといういでたちである。夜中の寝室という場所である事に目をつぶれば、まぁ爽やかなサラリーマンにも見えなくなかろう。

 しかし――彼の首許を飾る異様なアクセサリーが、彼が何者であるかをはっきりと示していた。彼は灰色の小鳥の頭を七つ連ねた首飾りを下げていたのである。七つの小鳥の首飾り。これこそが彼の忌まわしさを如実に物語っている。

 雪羽の許に訪れていたのは、雉鶏精一派の怨敵・八頭怪だったのだ。


「雷園寺雪羽君だね。キミは確か夜遊びが大好きだって聞いてたから、夜中でもまぁいっかと思ってやって来たんだけど……おねんねの最中だったんだね。ああ、そう言えばおイタが過ぎて天狗の許で調教されている最中だったもんねぇ」


 白皙の面に名状しがたい笑みを浮かべ、八頭怪は言葉を紡ぐ。雪羽の恐怖心は一挙に薄れ、代わりに途方もない怒りが去来してきた。彼は明らかに雪羽を仔猫扱いしていたし、それ以上に八頭怪の存在を好ましく思っていなかった。


「そんな下らん事を言いに来たのか八頭怪! 妖が気持ちよく寝ている時に押しかけやがって非常識だぞ……やっぱり、妻子を棄てて逃げるような屑には常識ってものはないのかね」

 

 八頭怪が何も言いださないのを良い事に、雪羽は思っていた事をよどみなく口にしていた。妻子を棄てて、の下りでは雪羽の言葉には隠しようもない嫌悪と憎悪が滲んでいる。無理からぬ話だ。何せ雪羽は八頭怪を個人的に憎んでいるのだから。但しそれは、八頭怪が自分と叔父の所属する雉鶏精一派と敵対しているからではない。九頭駙馬と呼ばれていた彼が、旗色が悪くなると知るや否や、妻である万聖公主や彼女との子を見捨てて敗走したという行為が気に喰わなかったのだ。ついでに言えば、実姉である胡喜媚を疎み抜いたところも嫌いだった。

 ダメ押しとばかりに雪羽は言い添える。


「どうやってここまで入ってきたのか解らんが、こんな所まで押しかけてただで済むと思うなよ。そもそもここは大天狗の萩尾丸さんの屋敷なんだ。不法侵入者であるお前なんか、あの妖がフルボッコにしてくれるだろうさ!」


 良くもまぁすらすらと言葉が出てくるものだ。雪羽は言い終えてからふと奇妙な感覚に囚われていた。感情の起伏が大きいのはいつもの事であるが、今日はそれが極端な気がする。しかもよりによって萩尾丸をダシに使うなんてらしくない。

 とはいえそれで八頭怪を退けられるのなら構わんだろう。そのような考えさえ脳裏に浮かんでいた。


「言いたい事はそれだけかな、ニャンコの雪羽君」


 ややあってから八頭怪が口を開く。八頭怪は怯んでもいなければ腹を立てている素振りも無い。紅色の唇を歪ませて僅かに笑みを作っていた。但し黒々としたその瞳には、いくばくかの好奇と侮蔑の色が浮かんでいたけれど。


「ふふふふふ、動画デビューできそうなニャンコちゃんに知性なんて求めていなかったけれど、所詮は哺乳類なんだなって感じだよ。ドヤ顔で萩尾丸君の事を引き合いに出してくれたけどさ、まさかボクがあんなのに気兼ねするとでも? 

 良いかい雪羽君。萩尾丸君なんてのは所詮あのメス雉の腰巾着、彼女にくっついておこぼれにあずかっている金魚のフンに過ぎないんだよ。まぁ、ペットの身分になっているキミからすれば、大した天狗様なのかも知れないけどね」


 歌うような八頭怪の言葉に、雪羽は身震いした。萩尾丸を単なる腰巾着、紅藤をメス雉などと言って、まるで小物や雑魚妖怪であるかのように表現した事に度肝を抜かれたのだ。萩尾丸がマネージャーとして紅藤に仕えているのは事実だ。傍から見れば非凡なセンター長の小間使いのように見える事もあるかもしれない。しかしだからと言って、萩尾丸が取るに足らぬ妖怪である事とは同義ではない。萩尾丸自身も膨大な妖力と豊富な経験を持つ成熟した大妖怪だ。彼自身も妖怪組織を束ねる長であるし、その気になれば地方都市の妖怪たちをまとめ上げるだけの力量はあるだろう。その彼を一番弟子と呼びならわす紅藤の強さは言うまでもない。

 雪羽は目をすがめ、八頭怪の様子を慎重に窺っていた。どういった意図で彼がそのような発言をしたのか、それだけでも見定めておこうと思ったのである。所謂ビッグマウスは、自分の自信の無さゆえに発せられる事もままあるのだ。雪羽の傍にいたオトモダチはそういった傾向が強かったし、自分もビッグマウスやハッタリに頼った事はあるにはある。

 ところが八頭怪の笑みには余裕の色が色濃く滲んでいた。本心から紅藤たちを取るに足らない存在だと思っていると言わんばかりだった。

 どうかその読みが間違いであれば良いのに。雪羽はそんな事を思うほかなかった。


「ああごめんね雪羽君。別にボクはあの辛気臭い連中についてああだこうだ言うために来たんじゃあないんだよね――キミの話を聞きたくて、ここに来たんだよ」


 八頭怪の視線が雪羽に注がれる。八頭怪は一人だけなのだが、複数の相手から凝視されているような錯覚を雪羽は抱いた。八頭怪だから瞳も八対あるという事なのだろうか。


「雷園寺雪羽君。キミには叶えたい願い事は無いかな? いや、キミにはどうしても叶えたい願い事があるよね」


 そう来たか。八頭怪の問いかけに対し、雪羽は案外冷静な気持ちを保つ事が出来た。八頭怪が相対する者の願い事を聞き出し、そして叶える。彼の言動については前もって知っていたからだ。

 もっとも、八頭怪は忌まわしき邪神の遣いである。願いを叶えて貰った相手には、遅かれ早かれ破滅が待ち受けるという。のぼせ上って彼に願いを口にしたところでゲームオーバーなのだ。

 雪羽はだから、願い事を彼に託すつもりはさらさらなかった。八頭怪の性質を教えられていたし、何より――本当の願いは誰にも叶えられない事を知っていた。


「雪羽君。ふふふ、すました顔をしていてもボクには解るんだよ。キミには叶えたい願い事が一杯あるってね。欲張りさんだねぇ。でも、そういう子はボクは好きだけどね」


 八頭怪はそこまで言うと、一度言葉を切った。それから軽く身を乗り出し、こちらに顔を近づけてきた。八頭怪と自分との間には距離があったと思っていたのだが、いつの間にか八頭怪の顔はすぐ傍にあった。気が動転しているせいで、相手との距離感を掴み損ねたのかもしれない。


「一番大きな願い事は、雷園寺家当主になる事だろうね」


 雷園寺家の当主になる。自身がずっと意識し続けてきた事を口に出され、雪羽はうっかり頷きそうになった。だがここで、こぶしを握り締めて踏みとどまる。源吾郎の話を密かに思い出していたのだ。彼もまた八頭怪とサシで対面したという。その時に願い事を叶えてやると言って唆されたのだが、自力で彼を退けたのだと教えてくれた。あのお坊ちゃま育ちの妖狐ですらできた事だ。であれば自分も出来ぬわけがなかろう。雪羽はそう思っていたのだ。

 そうは思いつつも、八頭怪を退ける言葉は思いつかなかったが。


「まぁ雪羽君。キミが頷けばボクから直々に力を授けて進ぜよう。その力があれば、キミは安心して雷園寺家の当主になれる事請け合いさ。メス雉のペットであるアホ狐も、目障りな君の弟も、その力で排除してしまえば良いんだよ」


 八頭怪の白皙の面にはいつしか満面の笑みが浮かぶ。甘みを漂わせた、しかし邪悪な気配を隠し切れない笑顔である。隠せないのではなく隠していないだけなのかもしれないが。

 だからこそ雪羽は返答する決心がついたのだ。


「――お前の力なんて要らないね。こちとらそんなのに頼らなくても間に合っているんだ」


 八頭怪が何か言い出すのを待たずに、雪羽は畳みかけた。妙な塩梅に頭が回り、彼を退けられそうだ。そんな考えが浮かんで雪羽は微笑んでいた。その笑みが八頭怪の見せた笑みに似ている事には気付かずに。


「俺は雷園寺家次期当主を約束された男だぞ。何処の馬の骨とも解らん下郎から力を貰えるからと言って尻尾を振ると思ったか?」


 下郎。その言葉を口にしたところで雪羽はさっぱりした気分になっていた。紅藤や萩尾丸が恐れるこの妖怪を、自分の力で退ける事が出来そうだ。その思いにまさに酔い痴れていたのである。

 ところが八頭怪もまた笑うだけだった。


「ふふっ、あはははは……ニャンコちゃん。キミがそういう事はボクもちゃーんと解ってたよ。あのアホ狐だって同じような事を言ってボクを拒絶したんだからね。

 だからまぁ、今回はボクがキミに直々に力を注入してあげるよっ!」


 言うや否や、八頭怪を取り巻く空気が一変した。首飾りの頭部の二つ三つが急速に膨らみ、ついで雪羽の方へと伸びていったのだ。それに気付いて逃れようとした雪羽であったが……逃れる事は叶わなかった。一つの頭は布団に入って左足首を、もう一つの頭は右腕を咥え込んでいたのだ。奇妙な事に痛みは無かったが、びくともしない。


「さぁさぁニャンコちゃん。仔猫が注射嫌いなのはボクも知ってるよ。だけどチクっとするだけだから我慢してね」


 呑気な獣医みたいな言葉で八頭怪が微笑んでいた。しかし複数の頭を繰り出し雪羽を拘束する姿は、禍々しいことこの上ない。しかも正面から伸ばした第四の首は、嘴の間から玉虫色の粘液を滴らせている。何かは定かではない。が、触れるとマズい物である事は本能的に悟った。

 その嘴が、雪羽の胸元に掲げられていたのだ。衝撃に備え、雪羽は目をつぶった。

 

 衝撃はやってこなかった。それどころか、間延びしたような時間が流れるのみである。雪羽はそれから、遠くで犬の遠吠えを聞いたような気がした。そう思っている間に、間近で犬の唸る物凄い怒声を耳にしたのだ。犬の声の間からは、名状しがたい何者かの啼き声も聞こえていたが。


「畜生、畜生! 何で哮天犬こうてんけんのやつがこんな所に来ているんだっ!」

「グルルルルル…………」


 雪羽が再び目を開いたのは、八頭怪の腹立たしげな声を聞いたためだった。おのれを拘束する頭と粘液を滴らせた嘴はいつの間にか離れていた。

 八頭怪は驚愕と苛立ちに顔を赤く染めている。彼の視線の先にいるのは細身の黒い犬だった。大きな犬だと思ったが、八頭怪は哮天犬だと呼んでいた。孫悟空に噛みついて昏倒させたという犬であると思えば、確かにあの黒犬も頼もしい感じがする。


「仕方がないね雪羽君。キミに構ってあげたいのはやまやまなんだけど、ボクはどうしても犬は苦手でね……」


 お前に構ってもらうなんて願い下げだ。そう思っている間に八頭怪は二対の翼を展開し、そのまま窓の向こうへと飛び去って行った。窓は開いていないし開ける素振りを見せなかったのだが……尋常ならざる光景の前では些事だろう。

 獲物のいなくなった哮天犬なる黒犬は、雪羽を見やると軽く尻尾を振っていた。それから輪郭がぼやけ、煙のようになって消えてしまった。不思議な事に、哮天犬だった煙は雪羽の手首――手首に巻いた護符の玉の中へと吸い込まれていったのである。


「大丈夫か雷園寺君! 侵入者の気配を察知してこっちに来たんだが――」


 煙が護符の中に吸収されたまさにその時、扉を打ち破らんばかりの勢いで萩尾丸が駆け込んできた。普段の彼らしくない、やけに焦った様子を見せている。少し前から雪羽の部屋に入ろうと奮起していたが、何がしかの術のせいで入れなかったのだと萩尾丸は言っていた。

 八頭怪がやって来たが、哮天犬が何処からともなく現れて追い払ってくれた。雪羽はその事を伝えるのがやっとだった。危機が去り、屋敷の主である萩尾丸もやって来た。雪羽の中で張りつめていた物が急激に緩み、半ば失神する形で意識を手放してしまったのだ。

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