明るみになった隠しコマンド

 朝。八頭怪の襲撃を受けた雪羽であったが、疲労困憊という心境を抱えている訳では無かった。むしろ妙に目が冴えているくらいである。気付けにとマムシパウダー配合の薬湯を飲んだ事もさることながら、早朝から荒天である事も関連しているのだろう。

 雷獣は晴天の時は大人しく、荒天の時に活発になるという伝承が世間にはある。雪羽は雷獣であるが、それが本当なのか確信できなかった。雪羽にしろ叔父の三國にしろ荒天であれど元気に空を駆け回り暴れまわる事はあるにはある。だが彼らは天候に関係なく概ね活発な性質だ。

 或いはいもしかすると、低気圧や気圧の乱高下のために、雷獣の気が立って荒っぽくなっているだけなのかもしれない。そもそもからして雷獣は気性の荒い個体が多い物だ。ついでに言えば感覚も鋭敏である。低気圧等によるストレスで荒っぽくなったり神経が高ぶってもおかしくは無かろう。雷獣と荒天の関係性について、雪羽はそのように思っていた。

 もっとも、今回雪羽が気を張っているのはそれだけでもないのだが。


「紅藤様たちから聞いたよ。八頭怪のやつ、雷園寺君の所にも来たらしいな」


 静まり返りつつも慌ただしい空気の漂う事務所の中で、雪羽に近付いてきたのは源吾郎だった。その瞳には驚きの念が混ざっていたが、ある種の奇妙な仲間意識のような色も浮かんでいた。源吾郎は既に雪羽を同僚と見做している。今更になって仲間意識を持つ物だろうか。そんな疑問を抱いていた雪羽だったが、源吾郎の瞳を見ているうちにはたと気付いた。源吾郎もまた、八頭怪に誘惑されたのだと。

 ちなみに今事務所にいるのは雪羽と源吾郎だけだった。紅藤たち大人妖怪は作業と打合せ資料作成のために別室に詰めていた。昼前には顔を出すと言っていたが、もう少し時間がかかるかもしれない。雪羽たちは棚の整理とか試薬・試料の在庫確認を言い渡されているだけで、実質放置されているようなものだった。事態が事態だけに、業務を割り振るどころでは無かったのだろう。センターの中で若手であり、雪羽たちの監視役になりがちなサカイさんですら招集されているのだ。中々に大事である。


「怖かっただろうなぁ。俺が出くわした時は夕方だったけど、雷園寺君の所には真夜中に来たんだろう。萩尾丸さんも、雷園寺君が寝てる所だったって言ってたし」

「……萩尾丸さんがあそこまでうろたえているのは初めて見た気がするよ」


 怖かっただろうなぁ。呼びかけとも問いかけともつかぬ言葉を敢えて無視し、雪羽は呟いた。八頭怪との遭遇は、もちろん怖いし不安だったし腹立たしい出来事でもあった。しかしそうした気持ちを肯定してしまいそうで口には出せなかったのだ。

 雪羽にしてみれば、八頭怪襲撃後に見せる萩尾丸の態度もまた衝撃的だった。萩尾丸と言えば、大妖怪としての余裕をいついかなる時も保っている。少なくとも雪羽の前での萩尾丸はそんな妖怪だった。その彼が若者のようにうろたえ、雪羽に瑕疵がないかどうか血眼になって問いただしていた。雪羽自身には特段外傷も何もないのだが、萩尾丸の態度は雪羽の不安をあおった。子供である自分とは異なり、大人には落ち着きと安定したものを持っていて欲しい。雪羽自身をヤンチャな仔猫扱いし、叔父の三國ですら一目を置くような大天狗であればなおさらだ。無意識のうちにそのような事を雪羽は考えていたらしい。大人にを求める事が愚かしいと知っているはずなのに。


「そりゃあ、今回の件でうろたえたのもやむ無しだろうねぇ」

「先輩は萩尾丸さんがうろたえた事には驚かないの? 甘えん坊なのに意外だなぁ」


 思っていた以上にとげとげしい声が口から出てきて、雪羽は我ながら驚いてしまった。しかし、萩尾丸がうろたえているという事をごく自然に源吾郎が受け止めている事に違和感を抱いたのも事実だ。年長者に甘える事に違和感がないという源吾郎の性質を知っているから尚更だ。

 源吾郎は雪羽の言葉に気を悪くした様子はない。雪羽を見下ろす瞳はあくまでも落ち着いたものである。俺が甘えん坊なのと萩尾丸先輩がうろたえるのとは別問題だけどなぁ。そう言う源吾郎の頬には僅かな笑みが浮かんでいた。


「確かに萩尾丸先輩も紅藤様も大人だと思うよ、俺らと違って。だけどあのひとたちが完全無欠なお方って訳じゃないだろう? だからその……俺たちみたいに戸惑ったりうろたえたり取り乱したりする事はあると思うんだ」


 その通りなのだから同意すれば良いのだろう。だが雪羽はぼんやりと源吾郎を見上げるのがやっとだった。自分と源吾郎とは似通っている所が多い。その半面で決定的に異なっている所も多かった。種族や出自、戦闘スタイルと言った解りやすい物もあれば、思想や考えのあり方といった、普段ならば意識しない物もある。

 特に年長者への接し方や年長者そのものをどう思っているのか。その辺りの違いはかなり大きいと雪羽は感じていた。互いの境遇が全く異なっている事はもちろん知っている。知ってはいるがいざ彼の考えを耳にすると戸惑ってしまうのも事実だった。


「そうだ。これ……」


 若干気まずい空気が流れる中で源吾郎が動いた。薄紫の玉が目立つストラップを手にしていた源吾郎は、雪羽にそれをこだわりなく渡したのだった。護符の一種である事は雪羽も既に見抜いていた。そうでなくとも紅藤の妖気が漂っていたのだから。


「前に俺が付けていた護符だよ。今付けている分よりも効果は弱いし気休めにしかならないかもしれない。だけど、無いよりはましなんじゃないかなと思ってね。

 紅藤様が新しい護符を作ってくださるまで、持っておくと良いよ」

「お、あ……ありがとう」


 気の抜けた声を放ちながら、雪羽は源吾郎から護符を受け取った。急な事だったし色々な考えが巡っていたから雪羽の声は不明瞭な物だった。しかし淡く輝く護符の玉を眺めているうちに気分も落ち着いていた。それから雪羽は、紅藤の作った護符を源吾郎が二つ持っているのを思い出したのだ。元々一般向け(?)の護符を身に着けていただけの源吾郎だったのだが、蠱毒の一件があってからグレードアップした護符を紅藤に与えられたのだ。もちろん研究センターに勤務する雪羽も同じものを受け取り身に着けていた。

 古い護符は新しい護符よりもスペックが低いのでお払い箱になっていた訳であるが、源吾郎は捨てずに取っておいたらしい。むしろそれどころか、この護符もこの護符で有効活用していたようだ。源吾郎は何も言わないが、護符自体に小鳥の香りが染みついているのが明らかな証拠だった。よしんばホップの鳥籠のどこかに吊り下げていたのだろう。源吾郎ならやりそうな事だった。


「島崎先輩。この護符って小鳥ちゃんを護るために使ってたんですよね?」

「やっぱりバレたか」

「そりゃあ解るさ。小鳥ちゃんの匂いがぷんぷん漂ってるんだからさ」


 やっぱり雷園寺も鼻が利くんだな。源吾郎はそう言って笑っていたが、すぐに真剣な表情に戻った。


「その護符も最初に貰った分だし、物が物だから捨てるのも忍びないからね。まぁでもホップのことは大丈夫だよ。確かに雷園寺君の読み通り、その護符はホップの鳥籠――ホップがいたずらしないように外側に付けてるんだけど――にくっつけていたんだ。だけどそれこそ気休めみたいな使い方だと思う。元々からしてあの居住区は紅藤様が護ってらっしゃるんだから」


 それにさ。源吾郎の視線は雪羽の手首に向けられていた。雪羽は右手首に護符を巻いていた。だがその護符はもうない。朝目を覚ました時には、連ねた玉たちは全て軽石のようにもろくなっていた。護符の効能が完全に消失し、使い物にならなくなっていると萩尾丸は言っていた。


「八頭怪のやつは確かに俺や雷園寺君を狙っている。実際に襲撃にあったしね。だけど流石にホップの事までは狙わないと思うんだ……そう思いたいって言う俺自身の願望もあるけれど。だからちょっとくらいホップの傍に護符が無くても大丈夫かなと思ってね」

「成程そういう事か。それなら有難く受け取っておくよ……いや、レンタルするって言った方が良いかな」


 島崎先輩も大分気を遣っているなぁ。雪羽はぼんやりとそう思った。護符をありがたがる源吾郎とは異なり、雪羽はさほど護符に拘泥している性質では無かった。雪羽は妖怪としては子供であるが、その妖力の保有量は同年代のそれを遥かに凌駕している。それ故に高い戦闘能力と攻撃力を発揮できていた。しかし妖力の恩恵はそれだけに留まらない。肉体を護る防御力や傷ついた身体を癒す再生能力もやや高いのだ。ついでに言えば雪羽自身が物理的に傷を負う事をあまり恐れていない。

 それ故に、護符の有用性をあんまり考えた事は無かったのだ。とはいえ今回は、その護符が雪羽の身を護ったのだが。


「それにしても雷園寺君。あの時哮天犬が出てきて八頭怪を追い払ったって言ってたよな。まさかあれも紅藤様のだったなんて」

「そうだなぁ、まぁどっちかって言うと仕込みというか隠しコマンドみたいなやつらしいねぇ。とはいえ、萩尾丸さんも知らなかったみたいだけど」


 雪羽を襲わんとした八頭怪を退けたのは哮天犬こうてんけんと呼ばれる黒い犬だった。この哮天犬には、九頭駙馬だった八頭怪の頭を一つ咬みちぎったという逸話がある。ついでに言えば二郎真君という仙人としても武神としても名高い男に仕えている犬だ。いかなは八頭怪と言えども恐れをなして退散するのは致し方なかろう。

 但し、あの夜雪羽の許に訪れた「哮天犬」は本物ではない。その正体は紅藤が護符に込めたの一つだったのだ。本人曰く「持ち主に最大の危機が訪れたときのみに発動する術式」との事だそうだ。但し術式の発動による負担は極めて大きく、発動後の護符は軽石を連ねたブレスレットに成り下がるのだ。

 件の隠しコマンドの話を聞いた時、研究センターの面々は一様に度肝を抜かれた。表向きは「ちょっと強い中級妖怪クラスの攻撃を無効化、オプションで耐薬品・耐毒物性能付き」という仕様の護符であると聞かされていたからだ。

 だが驚いていたのもつかの間の話である。紅藤様ならそう言う仕込みを行っていそうだという件が、ごく自然に浮上してきたのだ。雪羽もその通りだと思っていた。紅藤が研究者気質で凝り性な所は雪羽とて知っている。一般の大人妖怪が複雑だと思っている術式を組む事は彼女には造作の無い事なのかもしれない。


「危険な妖怪を追い払うのに哮天犬を再現したというのが、いかにも紅藤様らしいなぁ」

 

 源吾郎はそんな事を呟いた。何処か遠くを探るような眼差しだった。


「何せ哮天犬は二郎真君の飼い犬で、強さは折り紙付きだからね。哮天犬自身も斉天大聖孫悟空の足に咬みついて引き倒した事もあるし、何より胡喜媚様や九頭駙馬だった八頭怪の頭を咬みちぎった実績もある。紅藤様が好んでお使いになるだろうさ」


 哮天犬と紅藤様らしさとやらについて語る時、源吾郎はさも愉快そうな笑みを浮かべていた。こう見えて源吾郎は真面目にあるじたる紅藤の事を尊敬している。定めた対象には忠実という妖狐らしい性質の現れと言えばそこまでであるが。

 そのように考えていた雪羽は、ふとある事に気付き猛烈な違和感を抱いた。


「島崎先輩。哮天犬は確かに八頭怪の宿敵だけど……胡喜媚様を襲った犬でもあるんだよな? そんなのを部下を護る術式に組み込んで良いのかな?」


 雪羽の質問に、源吾郎は肩をすくめた。あからさまに当惑した様子を見せてはばからない。


「胡喜媚様がご存命だったら気を悪くなされるかもしれないと俺も思うよ。だけどあのお方もお隠れになって三百年近く経つんだ。だから別に良いんだろうね。もっとも、胡喜媚様を敬愛なさっている峰白様が知ればやっぱり良い顔はしないだろうけれど」


 何か気になる事でも? ひととおり質問に答えてから、今度は源吾郎の方が問いかけてきた。


「気になるも何も、紅藤様はそもそも胡喜媚様に仕えていた妖怪の一人なんだぜ? そんな紅藤様が、胡喜媚様のになるような存在に頼るなんて、その……」


 不敬だし忠義にもとる事ではないか。最後の言葉はすんでの所で呑み込んだ。術式のモチーフに、哮天犬という胡喜媚の敵を使った。そうした事実は確かにある。しかし表立って断言するのはよろしくない事は雪羽も心得ていたのだ。


「確かに紅藤様は胡喜媚様にお仕えしていたよ。だけど、胡喜媚様の事を良く思っていないのもまた事実なんだ。ほら、灰高様だってその事をダシにして紅藤様を詰っていたじゃないか」


 そう言えばそんな事もあったかもしれない。記憶をまさぐった雪羽はぼんやりと思った。

 考えを巡らせている雪羽に対して、源吾郎は畳みかけた。


「雷園寺君。君は俺の事を真面目だとか何だって思っているだろうけどさ、雷園寺君だって案外生真面目というか頑固な所はあると思うんだけどね。

 だからその、紅藤様が自分のあるじだった胡喜媚様の事を良く思ってないって事で、色々と変に思ってるんだろ? 俺は別に、そういう事はあってもおかしくないし、心の中で思うだけだったら別に構わないと思うんだ。そりゃあ確かに俺たちは紅藤様の部下や弟子に当たるのは事実だよ。だけど何かを思ったり何が好きで何が嫌いかとか、そうした心の動きの自由は与えられているんだからさ」


 源吾郎はここで言葉を切り、ニヤリと笑った。妖狐らしい、そこはかとない邪悪さの滲む笑みである。


「自分と全く同じが欲しいだけだったら、それこそ洗脳術とか自我の上書きとか、そう言う術を繰り出してくるかもしれないじゃないか。紅藤様も萩尾丸先輩も、見ての通り大妖怪だ。そんな術の一つや二つ、その気になれば使う事だってできるだろうさ」

「…………」

「もっとも、紅藤様はそうした術を嫌っておいでだから、俺たちにそんな事をなさるとは思わないけどね」


 いつの間にか源吾郎の面に浮かぶ邪悪な笑みは消えていた。伏し目がちに語る彼は、普段の気の良さそうな雰囲気を漂わせている。

 確かに。ややあってから雪羽も頷いた。雪羽の教育係である萩尾丸もまた、無理に雪羽を従わせる真似は殆ど行わない。反抗する気概が失せる程に萩尾丸が強いという点もあるにはある。しかしある程度は雪羽の自由にさせている部分もあるにはあるのだ。動物に芸を仕込もうと鞭を振り回すタイプではない。むしろ仔猫がじゃれるのを楽しんで眺めているようなタイプだったのだ。仔猫扱いされるのが時々悔しく感じる事はあるにはあるのだが。

 あ……と源吾郎が声を上げる。その視線は雪羽から逸れていたが、すぐに雪羽に目配せした。


「ま、世間話はさておき俺らも仕事というか棚整理をやろうや。後でぼんやりだべってるってバレたら、それこそ萩尾丸先輩に厭味を言われるかもしれないし。それに、雷園寺君は棚整理とか得意だろ?」

「あ、うん……」


 何ともわざとらしい源吾郎の物言いに釈然としないものを感じつつ、雪羽は頷いた。だがすぐに、源吾郎の発言の意図が判明し、ついでおかしさがこみあげてきた。磨き上げられたリノリウムの床の上に、一匹のネズミが鎮座していたのだ。情報処理係であるという真琴の遣いに違いない。そうでなければ源吾郎たちを前にあそこまで堂々としてはいないだろうから。

 そのネズミ一匹に源吾郎が緊張しているのが、雪羽には面白く感じられたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る