野望の道に安寧なし

「おはよう二人とも。おやおや、随分と仲良くなってるじゃないか。うふふ、若い子が仲良くしているのを見て、おっさんも安心したよ」


 聞きなれた声が、呑気な口調で言葉を紡ぐ。源吾郎と雪羽が首をひねると、そこにはいつの間にか萩尾丸が立っていた。明るい笑みを浮かべる彼を見て、源吾郎は尻尾の毛が逆立つような感覚を抱いた。萩尾丸は笑顔のままであるが、その佇まいから殺気らしきものを感じたからだ。


「おはよう……ございます」


 たどたどしく挨拶すると、萩尾丸の視線はそのまま源吾郎に向けられた。


「島崎君も元気かな? 昨日の事もあったし、昨夜はしっかり食べれたかい?」

「昨日はしんどかったんで、おじやで済ませました」

「タンパク質はきちんと摂ったのかな?」

「魚の身のほぐしたのとか、刻んだ厚揚げとかを入れて食べたんです。お肉とかの方が良かったんでしょうけど、昨夜はちょっと……」

「まぁ、食欲が無い時に無理に食べてもそれはそれで負担になるもんねぇ」


 源吾郎の昨夜の夕食を聞き出した萩尾丸は、訳知り顔でこちらを見つめている。タンパク質云々の件に拘泥していたのは、源吾郎が傷を負っている事を慮っての事であろう。妖狐や雷獣の肉体もタンパク質由来であるから、タンパク質を摂れば傷の直りも早くなるらしい。

 とはいえ、食欲が無い時に無理に詰め込むとそれはそれで負担になるのもまた事実である。

 そう言えば萩尾丸先輩。隣の雪羽を見ながら源吾郎は問いかけた。


「雷園寺君は昨夜どうだったんですか?」

「食欲がかなりあったから、彼の好きな物で夕飯にしたんだ。雷園寺君、お肉とか揚げ物とかが好きだからね。雷獣だからあんまりそういう物ばっかり食べていると良くないんだけど、たまには良いかなと思ってね」


 良かったじゃないか……雪羽を見ながら源吾郎は言った。雷獣は一応雑食であるが、妖狐や化け狸よりも草食性が強く、肉類を食べ過ぎると内臓に負担がかかるらしい。雪羽が妖狐やイタチ妖怪並みに肉類を好むのは源吾郎も知っていた。ある時などは「冷えたピザをつまみながらウィスキーを呑むと旨いんだぜ」などと言っていた時もあったくらいだ。雪羽の食い合わせの好みは中々に個性的だ。或いは、アライグマやカマイタチを従えていたから、彼らの嗜好に近いだけなのかもしれないが。

 フワッとしたパンケーキのフルーツソース和えも夕飯として振舞われたという話を雪羽は嬉々として教えてくれた。オシャンティーな物が夕飯だったと聞いた源吾郎であるが、特段羨ましいとは思わない。フルーツソースを和えたパンケーキ位なら自分でも作れるからだ。

 それよりも源吾郎には気になる事があった。


「萩尾丸先輩。先程まで何をなさっていたんでしょう」


 この問いを発するとき、源吾郎はやや緊張していた。夕飯の話をしていた時には、既に萩尾丸の殺気は和らいでいた。しかしそれでも萩尾丸が殺気を放っていた事には変わりない。日頃余裕ぶった態度を見せる萩尾丸が殺気を放つなどという事はかなり珍しい事なのだ。

 とはいえ、既に問いかけてしまったのだから後戻りはできない。


「紅藤様たちと一緒に、地下にいたんだ。いやはや、あの地下が拷問室として機能したのはいつぶりだったかな」


 萩尾丸は相変わらず笑っていたが、その笑みは獰猛な妖怪のそれだった。源吾郎は思わず雪羽の顔を見、勢い二人で顔を見合わせる形になった。

 青松丸に扮した偽者を捕らえた。萩尾丸は買ってきたものを自慢するような気軽さでもって源吾郎たちにそう告げた。


「厳密に言えば地元妖怪や術者にフルボッコにされたのを僕らが引き取った、という事だけどね。まぁ首謀者ではなくて末端の輩ではあるが、それでも無駄なんて何もなかったよ。第一に紅藤様の溜飲は下ったみたいだし」


 相槌を打つのも忘れ、萩尾丸の言葉を聞くのがやっとだった。紅藤たちが地下に籠って何をしたのか。萩尾丸は聞けば教えてくれるだろう。しかしその全容を聞く勇気が源吾郎には無かった。世の中には知らなくても良い事があるのだと思う事にした。


「久しぶりに紅藤様も荒ぶってらっしゃった訳だけど、それでもあのお方はよ。やつを、無闇に苦しめずに葬り去ったんだからさ」

「――――!」


 萩尾丸の言葉に、源吾郎の瞳孔が引き絞られた。紅藤が下手人を殺した。直截的な表現は無いものの、その事に源吾郎は動揺していたのだ。風変わりであるものの優しく穏やかな彼女に、殺しという行為が結びつくはずもない。


「どうしたんだ島崎君。まさか君を陥れた相手を憐れんでいるんじゃないだろうね」


 違います……否定の言葉は驚くほどに弱弱しかった。


「そうじゃないんです。その、僕たちに優しい紅藤様がそんな事をしたって聞いてびっくりしているだけなんです。みんなの事を大切になさっている優しい紅藤様が、そんな、恐ろしい事を……」


 紅藤が殺しをした。その事について源吾郎は罪悪感を抱いていたのだ。死んだ下手人を悼む気持ちは無かった。それよりも紅藤に殺しの罪過を背負わせてしまったという自責の念の方が強かったのである。

 萩尾丸はしかし、そんな源吾郎を見て呆れたように息を吐くだけだった。


「君が紅藤様を慕って信頼している事は僕もよく知ってるよ。しかし、あのお方の事を知りもしないで神聖視し過ぎなんじゃないかな。確かに今の君は紅藤様の直弟子、それも僕たちを差し置いて秘蔵っ子という扱いになっている。

 だけどまさか、君に見せる姿だけが紅藤様の全てだと思っていないよね?」


 呆れつつも笑みを絶やさぬ萩尾丸の言葉に、源吾郎は喉を鳴らすだけだった。萩尾丸はなおも続ける。


「紅藤様は自分の身内には優しいお方である事には違いないよ。だけど、大切な者を護るためにおのれの手を汚す事も厭わぬお方である事もまた事実なんだ。

 君もいずれは解るよ――大切な者を護り抜くために、手を汚さねばならない事もね。ましてや君は野望を抱き、最強の道とやらを進もうとしているんだから。野望の道は血塗られた道でもあるんだよ」


 萩尾丸の言葉を、神妙な面持ちで源吾郎は聞くほかなかった。いつの間にか、源吾郎は妖怪社会が平和だと思い込んでいたのだ。実際には源吾郎の浅はかな幻であり、その幻を護るために紅藤たちが動いているだけに過ぎないのだと。

 それに自分の出自を思えば、力を目指す時点で血塗られた道から逃れられないのだとも思い始めていた。玉藻御前も妲己や華陽夫人と名乗っていた頃は様々な所業でもって人間や妖怪の血肉を貪っていたという。しかし源吾郎が考えていたのは偉大なる曾祖母ではなく、桐谷家の事だった。彼らは玉藻御前と異なり生粋の人間だった。しかし術者として拘泥するあまり、共喰いに近親交配や生贄を用いた外法の術に飽き足らず、玉藻御前の血を取り入れる事すら考え出した輩である。同胞殺しも共喰いも辞さぬ者たちの血が、源吾郎には流れているのだ。

 病み上がりという事もあるが、久々におのれの出自を思うと憂鬱な気分になってしまった。


「ああそうだ。今日は三國君がはる君……いや春嵐しゅんらん君を連れてこっちに来るからね。昨日の事について伝えるつもりなんだ。だから島崎君と雷園寺君――特に島崎君――には協力してもらう所があるから、そのつもりでよろしく」


 三國の来訪について、源吾郎はさほど驚きはしなかった。三國は第八幹部である以前に、雷園寺雪羽の保護者である。甥が負傷したとあれば、心配して駆けつけるのは当然の流れだろう。

 ところが源吾郎のすぐ傍で驚いたような声が上がったのだ。声の主は雪羽だった。だが不可解な事に、彼はやや不満げに萩尾丸を睨んでいたのだ。


「萩尾丸さん、昨日の事は叔父さんに連絡したんですか?」

「もちろんだとも」


 さも当然の事だ、と言わんばかりに萩尾丸は頷く。


「そもそも僕たちは君らを助け蠱毒を制圧するために会議を抜け出したんだからね。緊急事態と言えど、会議を抜け出した理由について他の幹部に説明するのは当然の事だと思わないかい」

「そ、それでも……」


 萩尾丸の言葉は源吾郎から聞いても正論だった。しかし雪羽は納得していないらしく、唇を震わせながら言葉を探っていた。

 叔父貴には連絡しなくても良かったのに。ややあってから出てきた言葉は思いがけぬものだった。


「萩尾丸さんもおわかりでしょうが、僕自身は特に大した事は無いんですよ。怪我も治りましたし毒にやられた訳でもないですし」

「大した事が無い、と敢えて力説する時点で大した事があると思うんだけどなぁ」


 萩尾丸は軽く流すものの、心なしか困り顔だった。


「大丈夫と自分で言う奴ほど大丈夫じゃないって言葉は君らでも知ってるだろう? それに三國君に昨日の事を連絡するのは、大丈夫か大丈夫じゃないかの問題ではないんだ。僕とて三國君と約束して君の面倒を見ているんだからね。何かあったら保護者である三國君に連絡するのは当然の事だろう?」

「ですがそれで、叔父貴に心配をかけさせちゃったじゃないですか」


 雪羽はそう言うとうっすらと唇を噛んだ。

 源吾郎は呆然とそんな雪羽を見つめる他なかった。彼は無邪気に叔父に甘え、叔父に甘やかされていると思っていた。だから先の彼の発言に大いに驚いたのだ。

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