待ちわびるは戦闘訓練
蠱毒の一件があってから休止状態になっていた戦闘訓練が再開する事となった。単なる技較べではなく、力較べの一騎打ちである。しかも萩尾丸が妙にそわそわしていたと思っていたら、今回は特別に観客が多いとの事だった。萩尾丸の部下たち、小雀の若妖怪たちだけではなく、何と八頭衆の幹部たちも数名見学に来る、という事なのだ。
その話を聞いた源吾郎の心中には緊張が広がっていった。見知った若妖怪たちだけではなく、実力者である八頭衆も見学に来るのだ。緊張するなという方が無理な話であろう。
だがその緊張感はある種の心地よさももたらしていた。しくじれば自分が間抜けに敗北する所を見せてしまうという事である。だが逆に、自分が雪羽を打ち負かす勇姿を見せる事だと思えたのだ。
※
「先輩、久しぶりの戦闘訓練だから、緊張しちゃってるんですか?」
午前の休憩時間。仕事を中断して小休止していると雪羽が声をかけてきた。休み時間の合間に雪羽が源吾郎の許に来るのはもはや恒例行事となっていた。というか、雪羽が近づかなくとも源吾郎の方が近づいてくる事もあるくらいだし。
源吾郎は、自分が雪羽の友達と呼んで良いのかどうか悩むときはある。しかし紅藤たちのような大人妖怪からは、源吾郎たちは仲良くじゃれ合う間柄であると認識されつつあった。
「緊張しているけれど、ちょっとワクワクもしてるかな。何せお偉方に俺のカッコいい所を見せられるかもしれないんだからさ!」
「先輩がそう言っているのを聞くと、俺も嬉しいよ」
源吾郎の発言に、雪羽は素直に喜んでいた。戦闘訓練でカッコいい所を見せる。暗に雪羽を打ち負かしてやると言っているようなものである。しかし雪羽は気を悪くしたそぶりを見せなかった。
源吾郎はだから、少しだけ罪悪感を抱いてしまった。その感情の揺らぎに気付いたらしく雪羽が言葉を続ける。
「そりゃあ俺だって先輩相手にまざまざ負けようなんて思ってないぜ。でもさ、そもそも先輩はあの事件があってから色々と怖がってただろう? 戦闘訓練どころか、俺と話すのも怖いって思ってたみたいだし……その先輩がタイマン勝負にまた関心を持ったって事は元気になったって事かなって俺は思うんだ」
雪羽はそこまで言うと、意地の悪そうな笑みを浮かべて言い添えた。
「ほらさ、俺とのタイマン勝負が始まってすぐの時とかは俺をボコボコにするんだとかって言ってたみたいだし」
おのれの過去の発言を雪羽に持ち出され、源吾郎は軽くうろたえてしまった。無論源吾郎は、自分がかつて雪羽をボコボコにしたいと言っていた事はきちんと覚えている。蠱毒の事件が起きる前の事だ。自分より妖力が少ないとされる雪羽にボロ負けし、悔しさと向上心から放った言葉だった。
だがこれは、面と向かって雪羽に言ったわけではない。二人の性格上口にすれば乱闘に発展する恐れがあったからだ。しかもその頃はまだ雪羽と親しいとも言い難かったからなおさらだ。
「う、ううむ、それは出来心で言った言葉だよ。それにしても何で雷園寺君がその事を知ってるんだ?」
「萩尾丸さんが教えてくれたんだ」
萩尾丸の名を聞いた源吾郎は、一挙に納得し更には安堵さえもしていた。萩尾丸ならばやりかねない事であるし、ボコボコ発言は春嵐が言った事ではないかと若干身構えてもいたのだ。
「まぁ、あの人が言ったって言うのはよく解るよ。萩尾丸先輩は、俺たちをからかったり煽ったりするのが楽しくてしようがない人だからさ。俺らの間で何かが起こるのを、密かに楽しみにしているのかもしれんなぁ」
「それは流石に勘繰り過ぎだと思うぜ」
訝しげに語る源吾郎に対して雪羽がツッコミを入れる。雪羽の口調と物言いは落ち着き払ったものだった。
「先輩の言う通り萩尾丸さんは俺で遊んで愉しんでる所もあるっちゃあるけどさ……だけどあの人は、雷園寺家次期当主である俺をきちんと教育するって叔父貴たちとの約束に縛られてもいるんだ。だからその、無駄に煽ったりするだけとか、そういうことは無いと思うかな。俺に対してはね」
萩尾丸が三國との約束に縛られている。雪羽のやや強い言葉に源吾郎は目を丸くしてしまった。現在、萩尾丸が雪羽の身柄を預かり面倒を見ているのは源吾郎も知っている。強い妖怪の権限として、真の保護者である三國から雪羽を取り上げただけなのだと思っていたが、あれもあれできちんとした約束が成立していたとは。
源吾郎がそんな事をぼんやりと思っていると、雪羽が言葉を続ける。
「前も言ったけど、俺自身は別にボコボコにしたりボコボコにされたりするのは平気だしね。先輩は負けず嫌いだけど無闇に誰かにひどい事をするヒトじゃないって解ってるからさ。負けても別に恨んだりしないよ。だから遠慮せずに立ち向かってくれたまえ」
おかしな語尾で締めくくる雪羽に対し、源吾郎は微苦笑を浮かべるのがやっとだった。雪羽は俺の性格を見誤っているのではないか。そんな考えがどうしても脳裏にちらつく。負けず嫌いで我が強い部分はその通りだ。だが雪羽はどうも無闇に源吾郎を「優しくて良い奴」と思いたがっている節があるのだ。
そう言う部分が雪羽の身勝手な所だ。そう思いつつも、源吾郎自身も相当に身勝手な妖怪である事は自覚している。さもなければ、わざわざ妖怪の世界に飛び込んだ挙句、最強の妖怪になり世界征服を目論むなどという野望を目指しはしないだろう。
源吾郎は自分が礼儀正しく温和な若者に見える事もおおむね知っていた。演劇の才を持つ彼は猫を被るのが上手かったし、何より年長者に従う事は苦ではない。そう言った所が源吾郎が良い子・良い奴に見える要因なのかもしれない。そう思われ続けるのはちとしんどい所もあるにはあるが。
今のところ、源吾郎は師範である紅藤や兄弟子たちに大人しく服従しているように見えるだろう。それもまた、そうする事が源吾郎にメリットがあるからに他ならない。そう思えば源吾郎もかなり身勝手な手合いなのだ。
その一方で、源吾郎を善良だと見做したがる雪羽の性質もあるのだろうと思っていた。かつて従えていた取り巻きの事を話す時、雪羽は彼らの事をオトモダチと称する事が常だった。調子の良い時だけ追従し、雪羽が糾弾されて再教育されるとなると手の平を返して縁を切った連中たちを、である。オトモダチという言葉には皮肉が籠められているのかと思った事もあったのだが、もしかすると素直にそう思っているだけなのかもしれない。源吾郎はそんな事を思った。それならば、源吾郎を善良だと思い込むのも致し方なかろう、と。
雪羽はああ見えて同年代の仲間との関係性の構築が苦手なのかもしれない。同年代の面々との交流に度々苦労した源吾郎はそんな事を思った。但し、雪羽と源吾郎ではそうなった原因は異なっているのだけれど。
源吾郎はそんな事をつらつらと考えていたのだが、見れば雪羽は少し心配そうな表情を見せていた。悩んでいるようにでも見えたのかもしれない。
「大丈夫。今回は三國の叔父貴が来てくれるみたいだけど、もし俺を目の前で打ち負かしても叔父貴は怒ったりしないよ」
そう言うと、雪羽は微妙な表情を浮かべて言い添えた。
「――本当のことを言うとね、三國の叔父貴は先輩の事は悪く思ってなんかないんだ。むしろ、先輩に対して好感を持ってるくらいさ。若いのに見所があるとか、是非とも頑張ってほしいってよく俺たちにも言ってたよ」
三國が源吾郎をよく思っている。その事を伝えた雪羽の顔には苦いものが見え隠れしていた。その翠眼に嫉妬の光が宿っている事を、源吾郎はこの時悟ったのだ。
雪羽が嫉妬するのも無理からぬ話だろうと、源吾郎は密かに思った。親が他の子供を表だって褒めるのを聞いて、気を悪くする子供だって一定数存在する。ましてや雪羽は複雑な家庭環境を経て叔父の三國に引き取られた。彼は三國の事を敬愛し甘える一方で、三國に見捨てられないかと怯えているらしいのだから。
「三國さんが俺の事をよく思ってくださってたのか……」
半ば独り言めいた源吾郎の言葉には、戸惑いの色が多分に含まれていた。雪羽の密かな嫉妬心に戸惑っているのではない。何故三國が自分を気に入っているのか。そこが不思議だった。
思わず問いかけると、意外にも雪羽は応じてくれた。
「俺もよく解らないよ。まぁでも叔父貴も先輩の叔父さんたちの事は一目を置いていたから、そう言う事かもしれないし。
あとさ、叔父貴は元々
「
ハンタイセーハ。やや間延びした声で反芻すると、それはまるで異国の単語のような響きを伴っていた。三國が反体制派である。この雪羽の主張については源吾郎も異存はない。確かに今の三國は雉鶏精一派の第八幹部であり、雷園寺家次期当主を名乗る甥を養育している。一般妖怪とは言い難い地位と権力の持ち主と言えるだろう。
しかし彼の言動の一部からは、権力に対する彼なりの嫌悪が見え隠れしている時があった。三國が雪羽を引き取るきっかけになった話などがその最たるものである。雪羽が雷園寺家の次期当主に返り咲く事を三國は実は望んでいなかったのではないか。あの話を聞いて以来、源吾郎はそんな考えをしばしば抱くようになっていた。
もっとも、反体制派である三國が源吾郎をよく思うのはやはり謎である。半妖であると言えども源吾郎は玉藻御前の末裔であり、いわば貴族妖怪の末裔なのだから。
「まぁ島崎先輩。色々不安がらなくて本当に大丈夫ですよ」
本当に、という部分を強調し、雪羽が声をかけてくる。それから修道服の袖をずらし、右手首の腕飾りを見せびらかしてきた。ミサンガ風のそれには薄紫の小さな珠が一つあしらわれている。紅藤から購入した護符だった。
同じ護符は源吾郎も保持していた。腕時計をする事が多いので、源吾郎は足首に護符を巻き付けているのだが。
「俺も先輩も新しい護符を紅藤様から買い取っただろう。前の蠱毒の事があったから、今までのよりも効果が強い護符になってるんですよ。それこそ、俺たちの攻撃でも弾いて防ぎきるくらいの効果があるらしいんです。
どうっすか先輩。タイマン勝負って言ってもスポーツ感覚で楽しめますぜ」
「何だ。そう言う事なら先に言ってくれよな」
源吾郎は笑いながら雪羽の前で両手を叩いたりしていた。護符で護り切られた状態での戦闘訓練ならば、雪羽を傷つける心配も無かろう。そこで深く安堵し、そのために可笑しさがこみあげてきたのである。
「先輩は紅藤様直属の部下だから、そう言った事は既に知ってるかなと思ったんだよ」
「別にそうとも言い切れないけどな。護符を新調してから一週間経つけれど、特に今までと変わった事も無いし……雷園寺君は何かあったのかい?」
「俺も今まで通りかな」
雪羽がそう言って頬に手を当てた時、彼の修道服の袖の部分に、青黒いまだら模様が出来ているのを発見した。聞けば万年筆のインクを補充している時にうっかりこぼしてしまい、インクの染みが出来たのだという。
インクの染みを付けるとはまたうっかりしているものだ。源吾郎は呑気にそう思っていた。呑気な心地でいれるのは、雪羽の袖を汚すインクが青黒い色味だからだった。いかな嗅覚に優れていると言えども、赤いインクをこぼしていたとなれば一目見てぎょっとしてしまうからだ。
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