甘えのコツと旅行の疑惑
おまたせ。数分してから源吾郎は戻ってきた。来客時のお茶出しに使うトレイをちゃっかりと使っている。トレイの上に乗っているのは、薄く湯気を伸ばすマグカップが二つだ。一方が生姜湯である事は匂いで判った。もう一方は紅茶、ミルクティーの類らしい。
「まだ熱いけど大丈夫かな。雷獣は熱さに弱いみたいだけど」
「確かに猫舌だよ。だけどちょっとずつ飲むから大丈夫」
確認がてらに質問すると、源吾郎は雪羽にカップを渡してくれた。淹れたてであるようなのだが、マグカップの表面は思ったよりも熱くない。もしかしたら術で温度を調整したのだろうか。源吾郎がそこまでやったのかは定かではないが、そういう事くらいならば出来そうな何かが源吾郎にはあった。
雪羽に生姜湯を手渡した源吾郎は、さも当然のように隣に腰を下ろしている。トレイは前のテーブルの上に邪魔にならないように置き、両手で自分のカップを抱え持っていた。ご自慢の四尾は邪魔にならないように小さく縮めてあった。
「先輩は何を飲むんです?」
「ミルクティーだよ。妖怪向けのやつだから、俺も安心して飲めるんだ」
雪羽の問いかけに源吾郎はこちらをちらと見やった。その面にはほんのりと笑みが浮かんでいる。雪羽はそれを眺めながら生姜湯を口にした。思っていたよりも熱くはなく、飲みやすい温度になっていた。あと甘みも強いのがありがたい。
隣に座る源吾郎は、既に自分のミルクティーを飲み始めていた。温かい物を飲んでいるためか、普段以上に頬が火照って赤味を増していた。
「俺の事が気になるって、本気で言ってるんですか島崎先輩」
もちろんだとも。即答した源吾郎の声には、やはり迷いはなかった。再びカップを両手で抱えている。源吾郎はしばらく表面から立ち上る湯気を眺めていたが、その視線はすぐに雪羽の顔に移った。
「こんな事を言ったらアレだけど、雷園寺君って結構真面目だし自分で色々抱え込みがちだろう? だからちょっと心配だったんだ。しかも休み明けだし」
「俺が真面目だって。それはいくら何でも買い被り過ぎじゃないか」
むしろ真面目だと言い放つ源吾郎の方が真面目くさった表情を見せているくらいだった。それにそもそも源吾郎は雪羽の事を身勝手だの何だのと言い募っていたし、雪羽が元々ヤンチャである事も知っている。何をもって今、雪羽を真面目だなどと言ったのだろうか。
「ここに来るまでの事は流石に俺も知らないよ。だけどこっちに来てから雷園寺君は色々と頑張ってると思うよ。だってあの萩尾丸先輩に面倒を見て貰ってて、しかもあの妖に逆らわずお行儀よく暮らしているらしいじゃないか。週に一度三國さんの許で静養していると言ってもさ」
萩尾丸の所で大人しく暮らしているから雪羽は真面目にやっている。それこそ大真面目に語る源吾郎に対して、雪羽は思わず笑っていた。源吾郎も萩尾丸を密かに畏れている事は雪羽も知っている。だからと言って、お行儀よく暮らしている事が真面目にやっている事と繋がるのだろうか。
「萩尾丸さんの許でお行儀よく暮らすのは当たり前の事だよ。そもそもヤンチャが過ぎた懲罰として叔父貴から引き離された事は先輩だって知ってるだろう。そうでなくてもあの
雪羽の言葉に、源吾郎はすぐに言い返す事は無かった。図星だと源吾郎は思っているのだろう。実際の所、流石の源吾郎も萩尾丸の前では大人しく振舞っているのだから。
源吾郎にしろ雪羽にしろ、今以上に強くなって他の妖怪たちの上に立つ事を望んでいる。しかし自分より強い者が誰なのか判断し、彼らに従う術も心得ていた。強者である事を見定めるのは雪羽も得意だが、強者に従い取り入る術はむしろ源吾郎の方が長けているようにも思う。
「節度を持ってお行儀よくする事と、遠慮して無理する事は別問題だと思うけどな。そりゃあ萩尾丸先輩がちょっと怖いって言う気持ちは俺もよく解るよ。三國さんや俺の叔父でさえ太刀打ちできない
だけど――あんまり気を張って無理ばっかりしていてもしんどいと思うんだ。少しくらいあの妖に甘えてみても良いんじゃないの?」
「やっぱりその話になるのか……」
萩尾丸に甘えてみる。こだわりなく放たれた源吾郎の言葉に雪羽は軽い呆れを感じてしまった。雪羽と源吾郎は似通った所が往々にしてある。しかしその一方で決定的に異なる所も同じくらいあった。年長者に節操なく甘えるという源吾郎の考えもその一つである。
源吾郎は確かに強者になる事を望み、のみならずいずれは紅藤の座る幹部の座を奪い取る事さえ目論んでいるらしい。プライドが高く恐ろしく我の強い若者である事は言うまでもない。しかしその一方で、事あるごとに年長者に甘える姿を見せる事もまた事実だった。しかも紅藤や萩尾丸といった年長者たちは、源吾郎の甘えるさまを忌避せず、むしろ許容し一層可愛がっていたのだ。
雪羽には源吾郎の甘える姿というのが奇妙なものに見えてならなかった。源吾郎がそれこそ狡猾な性質であったり他力本願なヘタレであればまだ話は解かる。強者に媚を売り追従するだけの手合いはオトモダチの中にも大勢いたからだ。しかし平素の源吾郎は自分で努力する事に余念がないし、何より媚びているような気配が見当たらない。自己を保って活動するさまと、相手に頼って甘える姿。相反するはずの要素が、源吾郎の中では矛盾なく共存していたのだ。
「先輩はびっくりするくらい甘え上手だもんなぁ。俺、ずっとここで働きながら不思議に思ってたんだ。遠慮なく甘えてる割に、紅藤様たちからは嫌がられずにむしろ可愛がられているし……」
雪羽は言葉を切り、それからじっと源吾郎を見やった。のっぺりとした凡庸な面立ちではあるものの、彼もまた玉藻御前の末裔には違いない。
「もしかして、あれだけ甘えまくっているのに変に思われないのは、それこそ籠絡の術でも使ってるんじゃないの? お狐様ってそう言うの得意だし」
「俺には籠絡の術なんて使えないよ。よしんば使えたとしてもそう言う事には使わない」
籠絡の術。源吾郎は雪羽のその言葉に鋭く反応した。気を悪くしたらしく、声も視線もとげとげしい。籠絡術に長けた玉藻御前の血を引きながらも、源吾郎が籠絡術を良く思っていない事を雪羽は今更のように思い出した。とはいえ放った言葉は戻りはしないのだが。
一人気まずさを噛み締めていると、源吾郎が再び口を開く。先程とは異なり穏やかな調子で。
「まぁあれだろ。俺の甘え上手が何処から来ているのか、そのコツとかが知りたいんだろう?」
「…………」
あけすけな源吾郎の質問に雪羽は微妙な表情を浮かべた。源吾郎が節操なく甘えているのに咎められない謎は確かに気になっていた。だがそのコツを知りたいのかどうか、いざ正面切って問われるとよく解らなかったのだ。
「ううむ。本当ならそのコツとかを教えられたら良いんだろうなぁ。だけどそれは難しいんだよな。何と言うか、赤ん坊の頃から兄姉たちに面倒を見られるのが当たり前だったから、意識して甘えてる事って少ないんだよ、実は」
「確かに先輩は末っ子だったもんなぁ。それだったら甘え上手にもなるよな。本家でも妹のミハルとか弟の
源吾郎が甘える行為に作為的なものが無いというのは盲点だった。だが彼の生い立ちを考えると腑に落ちる話でもある。源吾郎は末っ子であり、兄姉たちとの年齢差も大きい。その兄姉らによってたかって面倒を見て貰っていた事は雪羽も知っている。何しろ源吾郎自身、長兄である宗一郎の事を実父以上に父親らしい存在であるなどと言っていたのだから。それに雪羽にも弟妹がいたから、彼らが無邪気に年長者に甘えがちである事は何となく知っている。雪羽は甘えてくる弟妹たちを時にあしらい時に受け止める側だった。
雷園寺君は長男だもんな。源吾郎はもごもごと呟いていたが、やがて何かを思いついたようだった。
「そんなわけで甘えるコツを伝えるのは難しいけれど、年長者の習性を教える事は出来るよ。良いか雷園寺君。年長者というのはだな、年少者が不完全だったり弱みを見せる事を嫌だと思う事はないんだ。年長者は経験を積んでいるからな。年少者が未熟な事や弱みを見せる事は当然の事だと割り切っているんだよ。むしろ、教育熱心な性質だったら弱みとか未熟さに対して可愛げがあると思う位さ。
雷園寺君は多分、不祥事の果てに萩尾丸先輩に引き取られた事に引け目を感じてるんじゃないの? だからその、お行儀良くして弱みを見せないようにと思っているのかもしれない。そう言う考えは一旦脇に置いた方が楽になると思うぜ」
源吾郎はそこまで言うと、ニヤリと妖狐らしい笑みをその面に浮かべた。
「そもそも雷園寺君は今までヤンチャでやりたい放題やってたんだ。だからさ、萩尾丸先輩の許で暮らしている時に多少甘えたくらいでは心証が悪くなる事は無いと思うけど」
源吾郎の思いがけぬ皮肉っぽい言葉に面食らった雪羽だったが、不思議と怒りの念は湧かなかった。品行方正なお坊ちゃんは言う事が違うなぁ。そんな事を言いながら二人でしばし笑っていたのだ。
何がどうという事ではないが、少しだけ気が楽になったのは気のせいでは無かろう。
※
萩尾丸が戻ってきたのはそれから更に一時間後の事だった。やはり転移術を使ったらしく、彼の気配は唐突に出現したのだ。
戻りました、と紅藤に報告していたかと思うと、萩尾丸は迷わず雪羽たちの許に歩を進めた。まるで雪羽がそこで待っているのを知っているかのような足取りである。
「ただ今戻って来たよ雷園寺君。帰っても構わないと言ってたけれど、やっぱり僕が戻ってくるのを待っていたんだね」
休憩スペースで待ち続けていた雪羽の姿を見ても、萩尾丸は驚いた素振りは一切見せなかった。予想していたと言わんばかりの物言いである。ついでに言えば隣に控える源吾郎を見ても、さほど驚いていなかった。
「まぁあんまり遅かったらここで寝泊まりするか、島崎先輩の所に泊めて貰おうかと思っていたんですけどね。ええ、別に僕は大丈夫ですよ。ちょっと勉強とかもしてましたし」
やや口早に雪羽が言い募るが、萩尾丸はそれを黙って聞いているだけだった。萩尾丸はうっすら笑みを浮かべていた。それこそ仔狐や仔猫のじゃれ合う様を見るような眼差しである。
ちなみに源吾郎の許に泊るというのは冗談半分に飛び出してきた言葉だった。源吾郎は即座に拒絶するだろうと思ったのだが、真面目な調子で「一応予備の布団は用意しているんだ。ただ、ホップが怖がらないように大人しくしていて欲しい」と雪羽に告げたのだ。
「それで萩尾丸さん。雷園寺家の話って何だったんでしょうか」
雪羽は身を乗り出し、萩尾丸に質問した。普段通りの姿を見せているが、所々から倦み疲れた気配が漂っている。妙な話で無ければいいのだが、と雪羽は半ば縋るような思いを抱いていた。
「別に大した話じゃあないよ。ほらさ、僕らは雷園寺君を通じて雷園寺家と雉鶏精一派の間にパイプを通そうって話を前にやってただろう。その辺りの段取りがどうなっているのかって、灰高様にせっつかれたんだ」
そこまで言うと、萩尾丸はうんざりしたような表情を浮かべた。
「灰高様は少し焦っているご様子だったけど、別にまだ段取りを進める状況ではないと思うんだけどね。何せ僕が雷園寺君を引き取ってからまだ二か月くらいしか経っていないんだよ。僕ら妖怪は何百年も生きるんだ。一か月二か月なんて、ほとんど一瞬の事だというのに。
いやもう大変な会合だったよ。灰高様はせっつくし、三國君は雷園寺家なんぞ放っておけって言ってはばからないしさ。それこそ僕があの会合のパイプ役になったみたいなものさ」
萩尾丸の言葉に、雪羽も源吾郎も神妙な面持ちを見せるだけだった。もしかしたら萩尾丸は面白い事を言ったつもりだったのかもしれない。しかしそれを笑う程雪羽も図々しくはない。
そんな事を思っていると、萩尾丸が言い添える。
「もっとも、灰高様は縁者や配下が雷園寺家と関わっているから、そういう事もあって焦っているのかもしれないけどね。あのお方もあのお方なりに雉鶏精一派の運営と繁栄のために心を砕いてらっしゃるんだ。それで最近も、部下や眷属を使って雷園寺家の様子も見ているみたいだし」
そう言えば雷園寺君。一呼吸置いたかと思うと、萩尾丸は改めて雪羽に呼びかけた。萩尾丸は注意深く周囲を眺めながら、勿体ぶったように口を開く。
「君は先日、旅行中の雷園寺時雨君と妹の深雪ちゃんに会ったって言ってたよね? 灰高様はずっと部下を使って雷園寺家の動向を探っていたみたいなんだけど、時雨君兄妹が旅行中だって話は出てこなかったよ。それどころか、時雨君たちは今も雷園寺家で当主になるべく勉強中だって部下から報告が入っているらしいんだ」
「ですが萩尾丸さん! 俺が出会ったのは確かに弟妹たちでしたよ!」
雪羽は昨日、旅行中だという弟妹達に遭遇した。しかしその旅行は雷園寺家の公式なものではなく、時雨たちは今も雷園寺家にいると見做されている。一体どういう事であろうか? 思いがけぬ情報を前に、雪羽の脳内で様々な考えや憶測が浮かんでは消える。
やっぱり俺の読み通りだ……隣でそんな呟きが聞こえたが、声の主が誰なのか気にする暇など今の雪羽には無かった。
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