清掃係は化鳥の遣い

 予想通り、分厚く垂れこめた雲は再び雨を降らし始めた。降雨は雷獣の心を活性化させる引き金の一つであるが、窓越しに雨を眺める雪羽の心は落ち着いていた。新しい護符を受け取った事も大きな要因なのかもしれない。

 午後からは通常業務に戻るという話だった。監督者は青松丸かサカイ先輩であるが、それも実は特段珍しい事ではない。紅藤や萩尾丸はそれぞれ幹部としての立場がある。そうでなくても研究センターでは高い地位にある。そう言った事もあり、組織を円滑に動かす事に業務を割かねばならない事が多いのだ。


「あー、良く降ってるじゃないか……」


 のんびりした声を出しつつ、源吾郎が近づいてきた。彼は先程部屋に戻ると雪羽たちに言い(わざわざ紅藤にも報告していたのだ)、そっと事務所を後にしていたのだ。僅かに尻尾を揺らし軽い足取りで戻ってきたという事は、彼なりの用事を済ませてきたという事なのだろう。

 さっきの護符をホップの鳥籠に戻していたんだ。聞くまでもなく源吾郎は用事を口にした。


「もちろんあの部屋にも紅藤様の護りが働いている事は俺も知ってるよ。だけどやっぱり、普段通りに護符があった方が良いかなと思ってね。それにホップもあの護符が鳥籠の外側にぶら下がってるのを知ってるし」

「先輩はマメですねぇ」


 雪羽は源吾郎を見ながらそう言った。大仰な野望を公言する源吾郎であるが、その一方でマメで律義な一面を持ち合わせているのも事実である。休憩時間に自室に戻る事を報告する点からもそこは明らかだった。ホップ用の護符の件も、そうしたマメさ故に気にかかってしまったのだろう。もちろん、使い魔であるホップが可愛いという考えも大きいだろうが。

 源吾郎は窓辺に近付いた。雪羽が何を眺めているのか気になっているに違いない。何か見えるの、と案の定彼は雪羽に問いかけてきた。


「鴉の羽を……見たんだ」

「鴉の羽? ここからじゃあ羽どころか鴉そのものも見えないけれど」


 雪羽の返答に、源吾郎は半ば戸惑い怪訝そうな表情を見せた。一応は窓辺に顔を向け、目を凝らして鴉の羽とやらを見つけようとしてもいる。また思った事を組み立てずに口にしてしまったなと、雪羽は軽く反省した。


「あ、ごめん。窓辺から見えたって訳じゃないよ。さっき弁当を買った時に散らばっていたのを見かけたんだ」

「ああ、そういう事だったのか。雷園寺君の事だから、ここからでも見えたのかと思ったぜ」


 先の突発的な発言は、さも窓辺から鴉の羽が散らばっているのが見えたという誤解を招いたのかもしれない。しかし源吾郎は特に気を悪くした様子は見せなかった。むしろ雪羽を前に鷹揚に微笑んでいるくらいだ。雷獣は五感が鋭敏で視力も他の獣妖怪よりも優れている事を知っているためであろう。

 鴉の羽か……源吾郎は雪羽の言葉を反芻していた。遠くのものを探るように目をすがめながら。


「何と言うか物騒な感じだよな。雷園寺君も知ってると思うけど、ここに集まってる鴉って普通の鴉だけじゃないし……」

 

 源吾郎はここで一度言葉を切り、じっと雪羽の顔を見つめた。


「散らばってたって事はやっぱり何かに襲撃されたって事かもしれないしなぁ。雷園寺君。その羽が普通の鴉かそうじゃないか、そこは判ったりするの?」

「いや、俺もそこまでは判らんよ」


 雪羽は源吾郎の問いかけにきっぱりと応じた。灰高の遣いである鴉が襲撃されたのではないか。そう言った意図で放たれた問いである事は雪羽も解っていた。源吾郎が蠱毒にやられた一件以来、灰高の遣いと思しき鴉たちが研究センターを監視しているのだから。

 しかし一方で、あの羽の主が灰高の遣いなのかそうでないのか判らないのもまた事実だった。気持ち悪いと思って素通りしたからだ。戻って確認すれば判るかもしれない。しかしそこまでやる必要があるのかという考えもあるにはあった。それにもうすぐ昼休みも終わるし、散らばった羽も何処かに流されているかもしれない。


「だけど言われてみれば、今日はあんまり鴉を見かけないかも」

「言うて今日は朝から天気が悪いからなぁ。あの散らばった羽はたまたまで、他の鴉たちは何処かに隠れて雨をしのいでいるだけかもしれないし」


 少しの間窓の景色を眺めていた雪羽だったが、背後での空間の揺らぎに気付いてゆっくりと振り返った。上司である萩尾丸たちが戻ってきたのを感じ取ったためだ。まだ昼休みは終わっていない。しかし勤勉な萩尾丸や紅藤が休憩時間をガン無視して仕事を続けるのはそう珍しい事でもない。

 そうした上司たちの姿を見ていると、こちらも仕事を行わなければと思うのだ。



 研究センターに来客があったのは、午後の休憩が終わって三十分後の事だった。雪羽が襲撃された件で緊急に招集があったのかと思った雪羽だったが、その件とは別件らしい。というよりも元々アポも取られており予定も入っていたのだが、昨晩の騒動で皆それを忘れていたようなものだった。

 ひとまずはきちんとした来客という事もあり、雪羽たちが普段働く事務所ではなく会議室に来客たちは通された。来客対応は萩尾丸と青松丸だったのだが、顔合わせという事もあり源吾郎にも声が掛けられていた。

 昨晩の影響で物々しい空気が漂っているが、来客自体は雉鶏精一派内部の妖怪だった。フクロウかミミズクと思しき妖怪と、アオサギらしい妖怪の二人組だった。彼らは第五幹部・山鳥妖怪紫苑の部下に当たるらしい。何となく見覚えのある顔ぶれだったから、紫苑の部下たちの中でも割合高い地位にあるのだろうと雪羽は密かに思っていた。雪羽も元々は第八幹部の重臣として働いていた身分である。幹部たちの会合に三國のお供としてついてきた事も少なくはない。


「紫苑ちゃんの遣いが来てくださる事を忘れていたなんて、私もうっかりしていたわ」

「お師匠様はうっかりしてないと思いますよ。その、雷園寺君があの八頭怪に狙われたって話があったんだから……」


 センター長である紅藤が申し訳なさそうに呟き、それに対してサカイ先輩がフォローを入れていた。山鳥妖怪の紫苑は、雉鶏精一派の幹部としてもそこそこ重要な存在だった。彼女自身は穏和な妖物であり、一見すると大妖怪という事くらいしか特筆すべきところが無いように思われる。しかし実際には頭目である胡琉安の従姉に当たる。頭目の母親である紅藤と同じく、胡琉安の血縁者なのだ。

 紅藤と紫苑は血縁ではないものの、紅藤が姪である紫苑の事を何かと気にかけている事は雪羽もおぼろげながら知っていた。紫苑も紫苑で叔母にあたる紅藤の事を伯母上様と呼んで慕っているらしい。面倒見のいい紅藤の事だから、そうした振る舞いは嬉しくて仕方ないのだろう。


「紅藤様!」


 ややあってから事務所に源吾郎が駆け込んできた。彼らしくもなくどたどたとした足取りで歩を進めている。その面は火照り、うっすらと汗ばんでもいた。秋のやや肌寒い雨の日だから暑がっている訳では無かろう。


「どうしたの島崎君。妙に慌てちゃっているけれど」


 すぐ傍に近付いてきた源吾郎を、紅藤はおっとりとした様子で受け入れている。来客者への挨拶にしくじったから慌てているのかしら。半ば冗談めかした問いかけに、源吾郎は表情も変えずに首を振った。


「あの、ちょっと紅藤様も会議室に来ていただけますか。萩尾丸先輩が困ってらっしゃるんですよ」

「そうなの……解ったわ」


 紅藤は短い声で応じると、白衣の裾が翻るのも気にせずに立ち上がった。そしてそのままの勢いでもって事務所を後にしたのである。鳥妖怪だから素早い動きが出来るんだろうなと雪羽はぼんやりと思っていた。

 源吾郎はしばしぼんやりと紅藤が立ち去った方向を眺めていたが、すぐに雪羽の方に向き直る。


「雷園寺君。そう言えばさっき鴉の羽が散らばっているって教えてくれたよな」


 雪羽が頷くと、源吾郎は渋い表情で言い添えた。


「あれは彼らの仕業だったんだ。何でも、紫苑様から研究センターのを命じられたとかそういう事らしいぜ」

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