19:本妻と初恋


 ――ドンッ


 琥太郎の股の間に、華奢な足がある。足ドンされた琥太郎は、恐る恐る足の主―― 一二美を見上げる。


「琥太、面貸しな」


 有無を言わさない女王様は、顎をしゃくってそう言った。





「誰に許可取ってさゆ口説いてんの」


 腕を組んで仁王立ちする百五十センチちょっとの一二美の前で、百八十センチの琥太郎は正座をして体を縮こまらせていた。

 一二美にその甘く美しい顔立ちで凄まれると、抜群に恐ろしい。


「さゆは誰のもんか言ってみな」


「ひーちゃんです」


 一二美には逆らわない方がいいと、彼女と隣人になって二年を越えた琥太郎は知っていた。

 唯々諾々と従う琥太郎に、一二美は「わかってんじゃねえか」とでも言いたげな、まんざらでもない表情を浮かべる。

 好機を逃してはならないと、琥太郎は畳み掛ける。


「ひーちゃん。さゆちゃんは俺が絶対に幸せにするので、見逃してください」


 手を合わせて拝む琥太郎に、本妻はケッと顔を歪めて吐き捨てる。


「許さん。さゆは嘉一に嫁がせる」

「俺は死んでも嫌だからな」


 ベッドに寝転がり、FPSゲームをしていた嘉一がすかさず突っ込む。ここは嘉一の部屋なので、嘉一がいるのは当然だった。


「あ?」

「さゆちゃんのどこが嫌なわけ?」

「本当めんどくせえな、お前……」


 ギロリと睨む一二美と琥太郎に、嘉一は目線もくれずにため息を吐いた。


「琥太は、んなことであーだこーだ言ってる場合か?」

「どゆこと?」

「こいつの第一志望――」


 いつ知ったのか、琥太郎の第一志望の大学名を嘉一が一二美に伝える。


「は?! うちの学校から? 受験するだけで先生大喜びやん。合格したら屋上から垂れ幕吊るされるんやないの?」

「県外出ればもうちょい楽なとこあんのに、よっぽど家出たくないんだなー。琥太」

「そうだよ」


 琥太郎の受ける大学は多少距離はあるものの、ギリギリ自宅から通える国公立大学だ。琥太郎の成績で言えば、無理ではないがかなり頑張らねばならない。


 おかげで、高校二年生から塾漬けである。夏休みは塾の夏期講習で朝から夜まで、出来たペンだこが潰れて変形するほど勉強している。

 しかし嘉一の言うように、県内から――家から出たくないのだから、仕方がない。


「だから……ひーちゃん!」

「あん?」

「就職もこっちで出来るように頑張るから! さゆちゃんが望まない限り県外にも出ないし、苦労させないから!」


 両手を合わせて一二美に頼み込む琥太郎に、彼女は心底憐れみの眼差しを送った。


「健気通り越して引くわ……付き合える見込みすら全くないのに……」

「全くないとか言わないで」

「限りなくないのに」

「一パーセントを十パーセントにするために日々頑張ってるからいいの」


 一二美は二の腕を組んだまま琥太郎を見下ろし、憐憫の浮かんだ目で「保留!」と告げた。




***




「早雪、あんたそういえば最近彼氏んとこ行かんね?」


 久々に早雪も早く帰宅し、琥太郎の塾もなかった夜。

 家族四人で夕食を囲んでいると、典子が早雪にそう言った。


「いないからね」

「え? そうなの? じゃあ、もう長いんじゃないの?」

 典子の質問に早雪は箸を口に咥えて、「んー」と考え込んだ。


「そうかも。まあ今は余裕もないし、琥太君がいるからいいんだもん。ねー?」

「ねー?」


 早雪が小首を傾げて前に座る琥太郎に同意を求めると、琥太郎も小首を同じ方向に倒した。


「あんたねぇ」

 呆れた顔をする典子に、早雪は「なん?」と尋ねるが、典子はちらりと琥太郎を見るだけで「なんでもない」と首を横に振った。


「琥太君こそ、彼女まだ出来ないの?」


 早雪の質問に、典子と昭平がぐっっと食べ物を喉に詰まらせる。

 何故そんな反応をするのかと、早雪はじっとりとした目で二人をねめつけた。琥太郎ほど素直で可愛くて頭がよくて背が高くて格好いい男子なら、登校三秒で告られても不思議ではないというのに。


「出来ないねえ」

「えり好みしすぎなんじゃない?」

「ほら俺、見る目ないから。きちんと吟味しないと」


 出会った日に早雪が言ったことを琥太郎が口にする。

 あれは誤解だったのだと知っているので、二人とももう笑いのネタにしている。


「不安ならさゆちゃんが見たげるからね。連れておいで」

「うん」

 従順に頷く琥太郎に早雪がにこりと微笑むと、早雪の隣に座る典子がやっぱり物言いたげな目をして早雪を見つめる。


「ちな、琥太君初恋はいつやったん?」

 付け合わせのピクルスをぽりぽりと囓りながら尋ねると、琥太郎に逆に問われた。


「さゆちゃんは?」

「私? 私は四歳」

「ああ、宇津木君ね」


 したり顔で頷く典子に、琥太郎はぎょっと目を見開く。


「え? 誰?」

「うちのてんちょー」

「え!?」

 何故か焦る琥太郎に、早雪はあっけらかんと答えた。


「大昔、私が面倒見てたのよ」

 宇津木は私が育てた。と典子が胸を張る典子の言葉通り、美容学校ではなく通信課程で国試を受けた宇津木店長をしごいたのは、今から二十年近く前の典子だった。

 元々美容師界隈は上下関係が厳しいが、今よりもずっと厳しいと言われているころに世話になっていた典子に、宇津木は今でも頭が上がらない。早雪が彼の店に就職したのは、完全にコネだ。縁故採用万歳である。


「確かに昔はジャ二ーズみたいで、本当に格好いい子だったわー」

「お母さんがうちに連れてくるたびに、ちやほやしてもらってたんよねえ」

「宇津木君があんたを可愛がってたのは、私へのごますりよ」

「今ならわかるって」


 あははと笑う早雪に、琥太郎が呆然としたように聞いた。


「……さゆちゃん今、初恋の人と仕事してんの?」

「なーに言ってんの琥太君。初恋っても、四歳よ?」

「もう今はただただクソウツギとしか思ってないわよねぇ」

「お母さん。絶対、冗談でも、店長に言わないでよ」


 縁故採用された早雪は、ただでさえ美容室で肩身が狭い。採ってくれた店長に迷惑をかけないよう人一倍努力しているつもりだが、そんな噂が冗談でもひとたび耳に入ってしまったらおしまいだ。スタイリストの先輩からの風当たりを想像するだけで死ねる。


「もう尊敬以外なーんにもないよ。んで、琥太君の初恋は?」

「中三」


 琥太郎が答えると、琥太郎の隣に座る昭平が目に見えて落ち込んだ。


(あ、そっか面倒臭がって説明してないんだっけ……)


 自分の息子がクラス中に馬鹿にされて振られたと思い込んでいる昭平の隣で、琥太郎は全く気にする素振りもなく食事を続けている。


 今更説明するのもなーとでも思っているのだろう。もしくは、一山越えた後なので、昭平の反応を楽しんでいるかのどちらかだ。


(ちゃちゃっと、あれは誤解だったんだよって言っちゃえばいいのに……あれ?)


 と、そこまで考えて、早雪ははたと気付いた。


(あの子は――誤解、だったんだよね? なら、中三の初恋の相手は……?)


 違和感に気付いた早雪は、視線を感じて顔を上げた。


 真っ直ぐにこちらを見ていた琥太郎と、眼鏡のレンズ越しに視線がかち合う。


 その瞬間、ぞわりと肌に鳥肌が立ったような、ずくりと胸の奥を刺されたような、異様な感覚が早雪を襲った。


 なぜか、早雪はパッと視線を逸らした。これ以上見ていてはいけないと、本能で感じ取った。


「さゆちゃん? どうかした?」


 しかしとうの琥太郎の声色は完全にいつも通りだ。

 早雪はたった今感じた居心地の悪さを自分の勘違いだと片付けて「ううん」と笑って返事をした。




***




 高校二年生の冬は、琥太郎達にとって慌ただしい季節となった。


 まず、友人の三浦みうら 拓海たくみに恋人が出来た。


 拓海が衝撃の告白予告された場面に居合わせた琥太郎は、秋からのんびりと彼らを見守っていた。不思議な縁は続き、彼らにとって決定的な日となったクリスマスにも、偶然夏帆と遭遇していた。


 琥太郎は人の恋愛に首を突っ込みたくない派だ。面倒なのは言うまでもなく、他人の未来に責任を持ちたくはない。それに誰かがいなくては立ち行かない関係なら、行く末は目に見えている。


 そんな琥太郎がクリスマスにお節介をしたのは、早雪ならきっとそうすると思ったからだ。


 結局その後、拓海と夏帆は別れてしまったので、やはり慣れないお節介をするものではないなと反省したりもするのだが――その日の琥太郎は足早に早雪のもとに帰り、早雪の切り分けたクリスマスケーキを美味しく廣井家で食べたのだった。



 次に、嘉一が恋をした。

 これが、琥太郎的には大問題だった。仰天したし驚愕したし、驚嘆した。


 あの嘉一が、女子に愛想を振りまいているのである。


 早雪と一二美が彼女達なりに嘉一を可愛がった結果、嘉一はかなり女性に対して心の距離があった。

 それが、たちばな こころと知り合ってからの嘉一は、せっせと買い物へ行き、早起きをし、文字通り山ほどの弁当箱を抱えて通学しているのだから――周りはぽかんとするしかない。


 当たり前だが、嘉一の恋は三秒で早雪と一二美にバレた。


「は?! 嘉一に片思い相手!?」

「ちょ、連れて来い。琥太郎。その女子、引きずってでも連れて来い」


 自転車で大量に食材を買ってきた嘉一を見て、一二美が西家に駆け込んできた。その行動で「嘉一が何かおかしい」とピンと来た一二美は、さすが十七年間嘉一の姉をしていただけある。


「駄目駄目。俺が怒られるから」

「嘉一が怒るのの何が怖いのよ!」

「俺は怖いな?」

 目を三角にしたド美女に詰め寄られ、琥太郎は苦笑する。


「琥太君、さゆちゃんが頼んでも駄目?」

「――…………これが嘉一以外の人だったら『真剣な人は応援しろ』って、さゆちゃんなら言うと思うから、ヤダ」


 早雪に失望される行動を取りたくなくて、琥太郎は眉を八の字に下げ、ふるふると首を横に振った。


 最終兵器姉早雪の可愛いお願い攻撃まで効かないと思っていなかったらしい早雪と一二美が、顔を見合わせる。


「え……あいつ、そんなマジなの?」

「あれは多分、下手に突くとよくない気がする」

「えー?」


 なんだかんだと喚きはするものの、嘉一は一二美に従順だ。

 これまで一度も反逆されたことなどない一二美は、琥太郎の意見に懐疑的だ。


「からかってこよ」


 にまーっと笑った一二美は琥太郎の静止もどこ吹く風で、西家を飛び出して行った――が、ものの数分で戻って来た。


 追いかけもせずに西家のリビングでごろりとしていた早雪の腰に、ぐすぐすと泣き真似をした一二美がへばりつく。


「どうだった?」

「あいつ……嘉一のくせに……私に逆らうなんて……」


 一二美をこれほど打ちのめせる切り札を嘉一が持っていたとは。ダイニングテーブルで勉強をしていた琥太郎は、教科書から視線を剥がして一二美を見る。


「なんて言われたの?」

「心って子に手ぇ出したら、私がお母さんとお父さんに内緒でおじいちゃんにお小遣い貰ってるのチクるって!」

「あー……」

「しかもおじいちゃんにも内緒で、おばあちゃんにも貰ってることまで、おじいちゃんに言うって……」

「あー……」


 嘉一のくせに、嘉一のくせにとがめつい一二美が泣いていたが、琥太郎と早雪は慰める言葉を持たなかったため、それぞれスマホと教科書に視線を戻した。




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