06:恋
あんなの気のせいだ。
(名前を褒められただけで好きになるとか、ないわ。ありえん。そんな簡単に、この私が? あたおかおつ)
これまで、何があってもこの足がよろけることなんてなかった。
母の落ち込んだ声を聞いても、学校中の女子に嫌われても、男からは軽薄な女としか見られなくても、父に長男を立てろと叱られても、女が大学なんて行ってどうすると近所のおっさんの酒の肴にされても――どんなことがあっても、二本の足で立ち続けて来た。
味方が少なく、敵の多い人生だった。
手放しで味方だと思えるのは早雪くらいなものだ。
嘉一なんかは、人生で一番嫌いな女だろうに血縁者というだけで、姉を切り捨てられない。甘い男である。
一二美がいつもぶれずに強くいられるのは、真っ直ぐに前を見ているからだ。決して横も後ろも見ないからだ。
自分が前に進むために必要なものだけを抱え、それ以外は捨てていく。
そういう生き方をしていかなければ、一二美のように美しさも賢さも、それなりに親の財力もある女は、すぐに引きずり下ろされる。
自分は強いと思っていた。
母の落胆にも負けない自分でいられると思っていた。
『一も二もなく美しい、って。ひーちゃんそのものだと思って』
だから、あんな一言で―― 弱くなるだなんて、あってはならないのだ。
***
{終了のお時間五分前ですが、延長なさいますか?}
歌なんかほとんど歌わなかったカラオケの、終わりを告げる電話が鳴る。
「そろそろ俺んち行くか」
一緒にカラオケに入っていた男の言葉に従い、一二美が受話器に向かって口を開く。
「いえ、終わります」
{それでは、ロビーでお待ちしております}
聞き覚えのある声だったな、なんて思いながら、一二美は壁に固定されている受け口に、受話器を戻した。
ぴったりと一二美の腰に回された男の腕は太い。アランロドンの香水に混ざる電子煙草の香りに、普段なら何の感情も抱かないのに――近頃は気持ち悪くて仕方がなかった。
――恋愛の醍醐味は、セックスするまで。
お互いに気があるのを確認し合う触れ合いや、仲間内でのちょっとした特別感。そういうのが好き。そういうのが楽しい。
誰かのものになって、「可愛い彼女」「自慢の恋人」でいるのも悪くはないけど、楽しみがどこかと問われると、確実にここだ。
セックスは一回目が一番盛り上がって、あとは溜めてた盛り上がりメーターを消費していくだけ。熱量を無くした最後の方など、ほぼ作業。
大抵一二美にちょっかいをかけてくる男は、相手も似たようなものだから、お互いを釣り上げた後は簡単に熱が冷め、自然消滅ばかり。
それでもまたその頃には次の恋愛が始まってるから、それでよかった。
一番可愛い自分、恋愛の醍醐味だけを齧る自分、前を見ていられる自分。
一二美にとって恋愛は、そういうものだった。
そういう恋愛しか知らないし、必要としていない。
だから、自分の感情も行動もコントロール出来なくなるような、駆け引きのいろはも知らない馬鹿な女に成り下がるような、こんな感情は必要ない。
「今日泊まるやろ?」
「うん」
男の問いに頷く。
いつもの自分でいるために、一二美は出来る限り夕方以降は家に寄りつかなかった。
――家に帰らなければ、会うことはない。
――会わなければ、揺さぶられることもない。
あの後一言すら発することが出来なかった弱い自分を認めたくないくせに、一二美は何が自分を揺さぶっている原因かははっきりと認めていた。
(ヤスにさえ会わなければ、私は私のままでいられる――)
顔を寄せて話すためにかかる吐息も、男の肌の温もりも、口を開いた時に鳴るリップノイズも、ふとしたイントネーションも、吐き気がしそうなほどに不愉快だが、自分を見失うことに比べれば、なんてことはなかった。
(私は、耐えられる)
「お会計お願いします」
「――っ、はい。ありがとうございます」
男を腰に巻き付けたまま一二美がレジの前に立つと、受付の男が一瞬、息を飲んだ。
何? とまじまじとレジの中の男を見ると、そこにいたのは拓海だった。
「タクやん。何してんのよ、受験生が」
「普通にバイトっす。俺そんなギリギリ狙ってないし、今はもうヘルプだけなんで」
一二美から伝票を受け取ると、拓海はレジを操作する。その隙間に、「誰?」と男に尋ねられた。
「弟の友達」
「へえ」
「今、嘉一達も来てますよ」
拓海の言葉に、一二美は密かに息を吸い込んだ。そんな一二美に気付かなかったように、男がまた「へえー」と言う。
「さっき入ったばっかなんで、もしかしたらそこのドリンクコーナーに――」
拓海の説明を聞きながら、一二美は目線だけで廊下にあるドリンクコーナーを確認した。フリードリンク制のこの店は、廊下の一角にドリンクサーバーを設置している。
そこに確かに、嘉一がいた。一二美の方を見て嫌そうに顔を顰めている。友達と遊んでいる時に身内を見かけた思春期の、代表的な表情だ。
そして、嘉一の隣には――
「ちょっと、離れて」
「は?」
「弟がいた。恥ずかしいから離れて」
「マジ? どれ? つかお前、んなこと言うんや。かーわい」
男がより一層一二美を抱き寄せる。今までは耐えられていたのに――康久が見ているとわかった途端に、耐えられなくなった。
康久がどんな顔をしてこちらを見ているのか知りたくなくて、一二美は視線をすっと逸らす。
一二美はレジのカウンターを睨むように凝視する。拓海が困惑したようにこちらを見ていることから、もしかしたら金額を既に伝えているのかもしれない。
けれど、レジの表示を見ようと顔を上げれば、康久が見えてしまうかもしれない。一二美は顔を上げられなかった。
「どうしたよ、一二美。ん?」
隣の男が、俯く一二美の顎を片手で掴み、顔を上げさせようとする。一二美は腕を振り払った。
「弟見てるってば」
「見せてやれば?」
「嫌なんだって」
止めてほしい。男に触れられている自分を、一瞬だって康久に見られたくなかった。
「は?」
一二美の頑なな態度に、最初は笑っていた男が不機嫌になる。野太い声に、反射的にびくりと震えてしまう。
「――れ、いやがってない?」
「は? おいっ――」
「おーい! ひーちゃーーん!」
ドリンクコーナーにいた康久が、嘉一と何かを話した後に、こちらに向けて手を振る。
「何やってんの? カラオケ来たん? 俺らと歌わん?」
「おいこら弟。姉ちゃんが誰とおるかちゃんと見ろよ。気ぃ利かねえな」
男が腕に抱く一二美を戦利品のように見せつけながら、弟と勘違いしているらしい康久を鼻で笑う。
(……馬鹿だな。あんたなんか百年一緒にいたって、ヤスの十分の一も私の心を動かせんくせに……)
一番馬鹿なのは自分のくせに。一二美は俯きながら唇を噛む。
「ごめんなさーい。でもどーっしてもひーちゃんに歌ってもらいたいんで、連れてっていいですか?」
「……はあ?」
「ねっ、お願いします!」
パンッ、と両手を叩いて康久が男に頭を下げる。
「おい、一二美――」
「お客様、申し訳ございません……他のお客様のご迷惑になりますので……」
男が不機嫌に一二美を見下ろすと、レジの中から拓海が声をかけた。レジの前で立ち往生してしまったせいで、他の客が精算できなくなっていたようだ。
「ごめん。お金払っとくから、今日は別れよ」
レジから一旦離れ、一二美は男に切り出した。男は怒りを滲ませた声を出す。
「お前何言ってんの? 頭おかしくなったんか?」
「――なったんだよっ。悔しいことに」
一二美が言い返すと、男は怯んだように言葉を止めた。俯いていた顔を上げ、涙を滲ませた目を細める。
「ごめん」
男は「っんなんだよ」と舌打ちして、康久と拓海を睨むと、カラオケから出て行った。一二美は客の精算が終わるのを待ち、もう一度精算してもらった。
「迷惑かけてごめん」
「絡まれてたんすか?」
拓海の声が僅かな緊張感を伴っていたため、一二美はふっと笑った。
「違うよ――ごめん、心配させたね」
「いえ……」
拓海が少しばかり仏頂面で精算を行う。なるほど、先ほど割り込んだのは一二美を救おうともしていたらしい。
精算を終えると、ロビーで待っていた康久がこちらへやってくる。
「ひーちゃん駄目だよー。あんま悪い男と付き合っちゃ。かいっちゃんが心配するやろ」
「してねーよ」
「立ち止まって様子見てたじゃん」
「俺だけじゃねえだろ」
嘉一と康久がやいのやいのと言い合う。一二美はふーとため息を吐いた。
「あいつも、悪い男やないんよ」
「――ごめんなさい。仲いい人の悪口言って」
しょんぼりとした康久に手を伸ばせば、康久が身をかがめる。よしよしと頭を撫でた。
(悪い男なんじゃない)
悪い悪くないで言えば、一二美が一番悪い。自分の気持ちを認めようとせずに逃げ回ったせいで、ただ巻き込んでしまった。
(悪いんじゃない――ただ、私と同じで、きっとまだ知らないだけ)
恋というものを、知らなかっただけ。
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