05:だから、こんなのおかしい

 ――悠々と泳ぐ鯉の背の柄を、一二美は何度も何度も思い出す。




「ひーちゃんって名前なんていうの? ひなな? ひとか? ひめり?」


 軽トラックで運び込まれてきた笹を玄関に飾り付ける。七夕の準備だ。


 季節の行事ごとを大事にする廣井家では、毎年のように所有する山から摂ってきた笹が飾られる。

 近所の子ども達が自宅で書いてきた短冊を手に、七月の七日まで何度も「飾ってもいーですかー」と戸を叩きにくる、そんな季節。


 冷やしてあったスイカを切り、七夕の準備を手伝ってくれていた康久と拓海のもとに運んできた一二美は、一瞬動きを止めた。


「ひふみ」


 抑揚のない声で返事をし、瓶ビールのケースを上下逆さまにした台の上にスイカの乗ったお盆を置く。康久は一二美の様子に気付いていないようで、真剣にスマホを覗いている。


「漢字は?」


 どうやら、姓名判断のアプリで遊んでいるらしい。

 一二美も診断してやろうと、ビール瓶のケースに座った康久が、邪気のない笑顔で一二美を見上げる。


「ヤス――」


 笹の調子を見ていた嘉一が、康久を呼び止める。


 ある時から、「一二美」と呼ばれたがらなくなった姉に何かしら思うことでもあるらしく、嘉一は必ず「ひー」と呼ぶ。

 そんな弟の手心に一二美は甘んじ、それ以上に苛立ってもいた。


「数字の一と二に、美しい」


 言いたくないなんて、プライドが許さない。


(こんなことで、私は微塵も傷ついてない)


 遠い昔、母に押された失敗の烙印なんか、気にもしていない。

「ひーちゃんと呼べ」と初対面で告げることは多いが、頑なに呼ばせないわけではない。現に、男友達らは大抵「一二美」と呼ぶ。


 ただ、その音で呼ばれる度に、あの日の母の声音を思い出すだけだ。


(私はそんなことで傷つかないし、弱くない)


 取り立てて、騒ぐほどのことではない。


「……ふっ」


 一二美の耳に、息を吐くような笑い声が聞こえる。

 目を見開いて、一二美は笑った人物――康久を睨み付けた。しかし康久は一二美に睨まれたことなど気にもならないというように、にかっと笑う。


「なぁに、ヤス? どうして笑ったの?」


 一二美は出来るだけ優しく聞こえるよう、猫撫で声を出した。


 そうして自分を装っていなければ、怒りが露出しそうだった。


 演技ではない本当の怒りを見せるなんて、これまた一二美のプライドが許さない。一二美はいつだって全てを――自分自身の感情さえ――コントロールしている自信があった。


「いや……ふっ。ごめん、ただ――」


(なん? 言ってみろ)


 どうせ、古くさいだのなんだのと言うのだろう。散々聞いてきた言葉だ。そしてそのどれもを、一二美は許していなかった。


 冷たい目で一二美が康久を見つめる。


「一も二もなく美しい、って。ひーちゃんそのものだと思って」


 康久が笑いながら、一二美の想像と正反対の言葉を紡ぐ。

 思ってもいなかった康久の言葉に、一二美は思考を止めた。


(――自分さえ、美しくいればいいと思った)


 そうすれば、たかだか名前が多少古くさくても、一二美の価値は損なわれない。


 背を伸ばして耐え抜き、顔を上げて前を見続けていれば。

 美しい自分のまま、堂々と生きていれば――


(お母さんが「失敗した」だなんて……落ち込むこともない――)


 気付けば、泳ぐ鯉の背を月明かりの中見つめながら、そう決心していた幼い自分を思い出していた。


 一二美は、よろりとよろめく。


「ひーちゃん!?」


 倒れかけた一二美を、すぐそばにいた康久が手を伸ばして支える。


「どうしたん?! 日に当たりすぎた??」


 康久が立ち上がり、一二美の顔を覗き込むと、オロオロと狼狽え始めた。

 一二美は目を見開いたまま、何も話すことが出来ない。


 康久がのぼせたのかと心配するほどに―― 一二美の顔は真っ赤に染まりきっていた。


 人生できっと、これほど動揺したことはない。


 たかだかこんな言葉で救われた気持ちになるとも、手足が震えて使い物にならなくなるとも、思わなかった。


(顔が赤い、目眩がする、なにを話していいのか、わかんない)


 こんなこと初めてだった。

 男が何を求めてるのかなんて、手に取るようにわかった。少しの特別感を演出し、与えて欲しい言葉を与え、喜ぶ程度に甘えることなんて楽勝だった。どうせ互いに心を差し出さないのなら、美味しい温度を楽しく味わっていれば十分だった。


(だから、こんなのおかしい)


 一二美は長い髪の毛先を両手で握ると、胸の前でクロスさせるようにして、髪で頬を隠した。康久が心配そうに、拓海が驚いたように、嘉一が目も口もあらん限りに開いてこちらを見ているが、そんなこと、かまっていられなかった。


 一二美は一言も告げることなくその場から立ち去ると、隣家の西家に駆け込んだ。

 土曜日だったため不在なのか、母屋の玄関は閉まっている。一二美は踵を返し、勢いよく店舗の扉を開けた。鏡の前で接客をしていた典子が「あら」とこちらを見る。


「一二美? どうし――」

「なんでもないったら、ないぃいい」


 パーマをあてている客や、箒で床に落ちた髪を掃いているアシスタントの間をすり抜け、バタバタバタと店舗の中を通り抜ける。スタッフルームから西家の母屋へ上がり込むと、そのまま早雪の部屋に向かった。


 無人の早雪の部屋は、夏の日差しを吸収して蒸し暑い。けれど一二美は気にすることなく早雪のベッドに顔を伏せると、そのまま「うあーーー!!」と叫んだ。





「あんたの部屋、一二美いるわよ」

「いつから?」

「さー。ずっと帰ってなければ昼から?」

「は? それからずっと? 今何時やと思ってんの……?」

「ご飯食べるか聞いておいてー」

「はーい」


 階段の下から、聞き慣れた声がする。真っ暗な空間に廊下の光が差し込んだことで、扉が開いたことがわかった。仕事帰りの、この部屋の主が入ってくる。


「ひー? 電気もつけんで何してんの」


 パチン、と壁際のスイッチで明かりを付けた早雪に、一二美は飛びつく。たった今まで眠っていたために、頭が上手く働かない。


「んー? どうした?」


 疲れているだろうに、一二美を甘やかす声がする。一二美は早雪の胸にぐりぐりと無言で顔を押し付けた。


「なんかあった?」

「なんもない!」

「ほう」


 反射で答えた一二美の声の強さに、早雪は素で驚いた声をあげる。常にない一二美の動揺に気付いたのだろう。


 一二美は自分のペースが乱れることが苦手だ。これまで、ほとんど経験をしたことがないからである。先日の早雪との大喧嘩だって、感情がままならないなんてことはなかった。


 しばらく早雪にしがみついて心を落ち着けていると、ドアの隙間からこちらを羨ましそうに見つめる琥太郎と目が合う。


 一二美は早雪のおっぱいに顔を押し付け、琥太郎にふふんと笑ってやる。すると琥太郎は笑みを浮かべたまま、ピシリと固まった。満足して、また早雪の胸にすりすりと頬ずりをする。


「ひー?」


 早雪の声がいつもより優しい。


(大丈夫、ちゃんといつもの自分に、戻れる)


 あんな一言でぐらつかされたなんて、冗談じゃない。

 一二美は早雪の胸から顔を上げると、いつも通りの顔でにっと笑った。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る