07:約束のネイル 1
「さっきのどう見えたか知らんけど、同情してんなよ」
小堀と福澤がマイクを持って熱唱している中、嘉一が康久に言った。嘉一はカラオケルームのソファーにもたれかかり、タッチの反応が悪いデンモクにイライラしている。
カルビスに入っていた氷をガリガリと噛みながら、康久は嘉一を見た。
「さっきのって?」
「ひー。男と揉めてただろ。本当は純情とか、んなこと絶対ねえからな」
先ほど、カラオケ店の入り口で偶然にも遭遇した一二美は、いつも康久らに見せる顔と違う顔をしていた。
康久の知る一二美は、天上天下唯我独尊というような女王様的存在だ。なのに、先ほどの男には強く逆らえないようだった。
いやもしかしたら、康久には見せないだけで、男といる時の一二美はいつもああなのかもしれない。
その態度に、看過出来ない胸のもやつきが生まれたのは事実で、康久は受付で一二美と別れてからずっともやもやとしていた。
「夢見んなよ。お前の理想押し付けんな」
「かいっちゃん?」
嘉一が、濡らしたまま三日間放置した雑巾を見るような目つきでデンモクを睨んでいる。その口からは延々と、一二美への呪詛が漏れた。
「どうしようもないクソだからな」
「え、じゃあ――それでも好きなら俺、『付き合って』ってひーちゃんに言ってもいいってこと?」
するりと自分の口から出た言葉に、康久自身が驚いた。
一二美と付き合いたいなんて不相応なこと、これまで考えたこともなかった。美しく気高い一二美と自分なんかが釣り合うはずもなく、また彼女の恋愛対象に含まれるはずもないからだ。
(俺、ひーちゃんのこと好きなの?)
綺麗な人だとは、出会ってからずっと思っていた。
嘉一の親友だからと、自分を気にかけてくれるのも嬉しかったが、ただそれだけだけだと思っていたのに――
「……お前まじであんな女好きなの? どこが? 顔?」
心底理解出来ないという風に、頬に鳥肌まで立てて嘉一が康久に尋ねた。
「顔、めっちゃ可愛いよな」
「おい。まじで騙されんな」
「んー、これが
カルビスを飲む康久を、嘉一は唖然とした顔で見る。
「嘘だろ……てか、は? そんな程度で付き合うとか言うわけ……?」
「え、駄目? あ、ひーちゃんが心配?」
「そうじゃ――てかなんで俺がひーのことこんな話さなきゃなんねえんだよ。きもっ……もう好きにしろよ……」
嘉一が脱力する頃、小堀の歌っていた曲が終わる。次の歌は康久が入れていた曲だ。
「好きにしていいん?!」
「いいって」
「やったー! 中田 康久、今度好きな人に告りまーっす!」
いけいけー! と、友人らがかけ声を上げる。
康久は笑顔でマイクを受け取った。
***
「ひーちゃん、ネイルして」
石けんで洗ってきました! と廣井家に上がるやいなや、康久が一二美の部屋に駆け込む。
康久への恋心を自覚してしまった一二美は、初めての恋に戸惑っていた。
――具体的に言えば、康久への対応の仕方が完璧にわからなくなっていた。
「……お座り」
「ワン」
挨拶も出来ず、嫌味の一つも言えず、一二美は康久を部屋に招き入れる。かろうじで命令するかたちをとってはいたが、その響きは弱々しかった。出会った当初の上下関係は、完全に逆転している。
一二美の前に座った康久が指を差し出す。
マニキュアを収納しているアクリルケースを持ってくると、一二美は康久の爪を見た。
「何色がいいの?」
「ひーちゃんの好きな色で――って言いたいけど、目立ちにくい色で!」
「ふーん」
目立ちにくさで言えば、クリアに勝る色はないだろう。特に最近買ったばかりのマット系は、乾くと光沢が消え、磨りガラスみたいになる。
康久の手を掴むのさえ、緊張する。これまで全く意識していなかったが、康久の手は硬く、指が太い。爪が丸くて、潰れたおにぎりのようになっているのが可愛かった。
(撫でたい。絡ませたい)
ぬりぬり。
不純な気持ちを無表情で隠し、無言で塗っていく。
インクが乾いていくに連れ、質感が変わる様子を見て「おお……」と康久が感嘆の声をあげる。頭上に吐かれるその息さえ意識してしまって、顔ひとつ上げられない。
真剣にネイルを塗るふりをして、言葉一つ交わさなかった。
両手足、あわせて二十本。
全ての爪が色づくと康久は立ち上がった。緊張のせいでびっしょりと服の中に汗を掻いた一二美に、彼がネイルを見せつける。
康久の目は、らんらんと輝いている。その輝きは、強敵を前にした野球少年の面影を覗かせる。
「ひーちゃん。約束覚えてる?」
「?」
何か約束なんてしていただろうか。一二美は首を傾げた。
「俺がこれ一週間落とさなかったら、付き合ってください!」
両手の甲を突き出したまま、康久が頭を下げた。
一二美はぽかーんと口と目を開く。
「絶対守り切るから!」
勢いに押され、一二美は頷いた。
「が、がんばれ」
「うん!!!」
ビュンッと康久が走って一二美の部屋――廣井家から出て行く。
一二美はしばらく今起こったことの理解が出来ず、自室で呆然としていた。
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