08:約束のネイル 2
「見てひーちゃん」
一週間後――ドヤッ、と今世紀最大のどや顔を披露して、康久が廣井家にやってきた。
「……あ、んた。何やってたの!?」
あんぐりと見つめたあと、一二美は大きな声で怒鳴った。
両手足の指全て、欠けもなく美しく保持されたままのネイルの代償に、康久の手足の指は真っ赤にかぶれていた。
「どうしたらいいのかわかんなかったからさー。クラスの女子とかに聞いて、ビニ手つけたり、なんかのオイル塗ったり、綿もらってくっつけたりしてた」
夏休みに入ってからも自宅でやっていたと康久が言う。
(この真夏に……? 大馬鹿ちゃんなの……?)
どのくらい長い間ビニール手袋を付けていれば、こんなに真っ赤になるというのか。
「何やってんの……」
唖然とする一二美に、康久が「だって」と唇を尖らせた。
「どうしてもひーちゃんと付き合いたかったから」
一二美はあまりの衝撃に固まる。
固まった一二美の思考を、本能がカバーするように口が自然と動いた。
「そ、そんなに童貞きりたかったの?」
(無理死にたい)
恋する相手に向けるには最低な言葉に、一二美は心の中で自分を罵倒していた。
(もう少しどうにか、上手く出来んの? こないだだって――頑張れって、もっと余裕ありげに言えたはずなんに。それか、落とさんでねって、可愛く甘えたり、さあ!)
誰にだって簡単に出来てたことが、全く出来ない。
表情だって余裕なく、真っ赤になって汗をだらだら流している。口も性格も感じも悪い。たった一つの一二美のいいところ――顔も、全く活かせていない。
「勿論、そりゃ大変嬉しいですけど……」
康久が頬をほんのり染めながら、ぽりぽりと頬をかいた。
「普通にひーちゃんが好きだからだよ」
真っ直ぐな言葉に、一二美は一歩後じさった。
「へ、へえ」
そして―― 一二美は勢いよく居間から飛び出す。
玄関土間に、康久の大きな赤いスニーカーがある。その隣にあった祖母のサンダルを乱暴に履くと、一二美は外へ駆け出す。
「ひーちゃん!?」
康久が名前を呼ぶが、止まらなかった。足を止めない一二美の背中に、康久が笑いながら叫ぶ。
「いーよ! ちゃんと逃げてね。俺、百メートル十一秒だかんね!」
康久が廣井家の土間で両足を捻ってストレッチをしながら叫んだ。一二美は脱げそうなつっかけで、よろめきながら走る。
「つーかまえたっ!」
いくらも掛からないうちに、息の上がった一二美は康久に背中から掴まえられた。また西家に逃げ込もうとしていた一二美は、道路の路肩で康久に背中から抱き上げられて、身動きが取れない。
「はははは離す!」
「離さなーっい」
こっち行こーねー。と、一二美のお腹に両腕を回して抱き上げた康久が、廣井家の敷地に戻っていく。上手く日本語すら話せなくなってしまっていた一二美は、黙って康久の腕にぶらんとぶら下がっている。
「約束だもんね? 付き合ってくれるんだもんね?」
外から通ずる一二美の部屋の窓をカラカラと開けながら、康久が言う。一二美を畳の上に座らせ、せっせと靴も脱がせる。
返事も出来ずにいる一二美を足下から見上げた康久は、八重歯を見せて笑った。
「あはっ、ひーちゃんなんそれ。俺より照れてるやん」
両手を畳につけて、肩を縮こまらせている一二美の顔は真っ赤だ。張る虚勢もなく、ただ真っ赤になってしおれている一二美を、康久がニコニコと見ている。
「や、ヤスなんて」
「うん?」
「わ、私の顔が好きなだけのくせにぃ」
だからそんなに簡単に、好きだなんて言えるんだ。
一二美はこみ上げそうになる涙を必死に堪えた。
(だって、顔以外にいいところがないことくらい、私が一番よく知ってる)
康久にだって、親切にしたことも、優しく振る舞ったこともなかった。ただ、康久の反応が楽しいから。ただ一緒にいるのが楽しいから、嘉一に煙たがられてもかまっていただけだ。そんなの、好かれるはずがない。
「顔も勿論好きだけど……えー? そりゃあ、ひーちゃんみたいに可愛い人にこんなこと言ってほんと、俺ダセエし意味わかんねえだろうけど」
(そんなことない)
惚れた欲目とはよくいったもので、一二美は康久の全てが格好良く見えて参っている。ちょこんとあるまん丸な目も、高すぎない身長も、太い首も、大きな口も、まん丸い爪も、全てが一二美にとって魅力的だ。
「俺が一週間、どんなに死に物狂いで爪守ってたか、知りたい?」
もの凄く知りたかった。
――ガシッ、っと。一二美は康久の手を勢いよく掴んだ。
「ひーちゃん?」
「ベッド行こ」
「え?!?!」
一二美が愛情を一番伝えられる場所に連れて行くべく、ぐいぐいと腕を引っ張る。
畳に手をつき、体を半分だけ一二美の部屋に乗り上げている康久は、まだ靴も脱いでいない。そんな康久が、目玉が飛び出らんばかりに目を見開いている。
「ままままじか――じゃない! 付き合ってくれんの!?」
「いいよ」
「やったー! ひーちゃん!」
片膝に重心を傾け、部屋に乗り上げてきた康久から抱きつかれる。
一二美は身を固くした。
たかだかこんなことで、指先一つ動かせなくなる。
「俺のこと好き?!」
キラキラとした顔で、同意を求めるための言葉を吐く。一二美は顔を歪めた。
(くそ。わかれよ。馬鹿じゃないの。この流れで好きじゃないわけないでしょ。だから童貞っていやなんだよ。なのに……)
一二美は口をへの字にしたり3の字にしたりと、ぐにぐに動かした後、首を伸ばして康久の唇に自分のそれを重ねた。
「ひーちゃ……!」
(喜ばせてやりたいなんて。くそ。信じらんない)
顔を真っ赤にした一二美に、康久が震える。
「ひーちゃん可愛い……!! 好きっ……!!」
一二美への好意を隠しもしない笑顔が心底眩しかった。
康久を喜ばせたくて、何か特別をあげたくて―― 一二美は気付けば口を開いていた。
「――……『一二美』って、呼ぶ?」
自分から許した男は、一人もいない。
返事を待っている間、ドクドクと激しく心臓が鳴る。
そんな一二美の心中など一つも知らないのんきな顔をして、康久が「んー」と言う。
何故か緊張し、真顔で待つ一二美に、にぱっと康久が笑いかける。
「『一二美』って綺麗だけど、『ひーちゃん』も可愛いから、俺『ひーちゃん』のままがいい!」
――子どもの頃に母の声で聞いた、「失敗した」という言葉を気にしていた。
――そして、この名前が母の耳に届く度に「失敗した」と落ち込まれたくなかった。
だが音を聞く度に母を思い出すのは、「一二美」でも「ひーちゃん」でも同じだった。意識して人に「ひーちゃん」と呼ばせているのだ。当然である。
「ひーちゃん!」
けれど今一二美は、初めて「ひーちゃん」と呼ぶ音を、愛しく感じた。
池の中で泳いでいた鯉の背中を、一二美は何度も何度も思い出した。
鮮やかな色の鯉が、するりと思考の波から泳いで逃げていく。
もしかしたら明日にはもう、この柄を思い出すこともないかもしれない。そうして、きっといつしか、どんな鯉が泳いでいたかすら、思い出せなくなっていくのだろう。
一二美を抱き締めていた康久が、「あっ!」と言って固まる。
釣られた一二美が康久の視線を追うと、一二美の部屋に面した庭で、顔を片手で覆っている嘉一がいた。
外が騒がしいからと、見回っていたのだろう。
「……最悪……姉とダチとか……ほんと最悪……まじで嫌だ……」
抱き合う一二美と康久を見て、嘉一が究極まで真っ青な顔を歪めた。
「絶対に家ん中で盛んなよ」
それだけは何があっても約束させるとばかりの嘉一の気迫に、一二美は少しばかり自分を取り戻す。
「聞かせてやろうか」
「ひ、ひーちゃ――」
「やめろ!! まじでやめろ!!! んなことしたらもう一生飯作らねえからな!!!」
にやりと笑った一二美に、康久は顔を赤らめ、嘉一は更に顔を青くさせて絶叫した。
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