27:ハッピーバースデー 2


「――あれ? 西さんまだやってたの? あー、暖房付けててよかったのに」


 ロット巻きの練習をしていた早雪は、声をかけられてハッとした。パチリ、と電気がついた入り口に、宇津木が立っていたからだ。


「店長……? そのまま帰られたんじゃ」

「ちょっと気になることがあったから戻って来たんだけど……はいはい、今日はおしまい。戸締まりするんで帰ってくださいね」

「え! すみません。片付けます」

「いいよ。俺がゆっくりやっとくから。それより、四十秒で支度しな」

「えええ?」


 パンパンッと手を叩いて、宇津木が急かす。早雪は慌ただしく手元のロットと輪ゴムだけ簡単に片付けると、頭を下げてロッカーへ向かった。薄手のコートと鞄をひっつかみ、頭を下げる。


「お疲れ様でした。お先に失礼致します」

「うん。気ぃまわらんくってごめんね」


 首を傾げつつも、店のドアを押して外に出る。カラロンと軽やかなドアベルが鳴る。冬の訪れを思わせる匂いだ。冷えた秋の夜の空気が、早雪の体を一瞬で包み込んだ。


「さゆちゃん」


 うー。寒っ、とコートを広げようとした早雪は、体を強張らせた。


 店の影に、琥太郎が立っていたのだ。


「え、琥太く、え……?」


 今、一番聞きたいと思っていた声だった。


 まさかこんなところにいるはずがないと思っていたため、脳が追いつかない。目を見開いて固まる早雪に変わり、早雪の腕からコートを取った琥太郎が、早雪の肩にコートを掛ける。


「迎えに来たんだ。一緒に帰ろ」


 鼻と耳を真っ赤にさせた琥太郎が、にこりと微笑む。


 頭の少し上の方から聞こえるその声が優しくて、その距離が懐かしくて、ふるりと唇が震えた。


(琥太君だ……)


 しばらく会っていなかった琥太郎の破壊力は、凄まじかった。今すぐ飛びついて、「撫でるといいと思います!」と叫びそうになる。涙腺が緩みそうで、早雪はぐっと顔面に力を入れた。


「どうしたの? いつからいたの? 声かけてくれたらよかったのに――受験生がこんな寒い日にずっと外にいちゃ駄目だよ」

「ごめんね。邪魔になりたくなかったから」


 邪魔だなんて、とんでもなかった。


「一緒に帰るって、どうやって来たの? 電車?」

「お母さんに乗せてきてもらったよ」

「え?」

「もしかして、携帯見れなかった? 田舎の方でお通夜が入ったから、車借りてくって連絡入れてたんだけど」

「み、見てない!」


 鞄からスマホを取り出すと、確かに家族LINEにメッセージが入っていた。早雪の方の親族に不幸があり、車でしか行けない斎場で通夜が開かれるようだ。

 典子は斎場に泊まるものの、昭平は夜には帰ってくるため、車が二台必要だったらしい。西家の駐車場には車が二台までしか停まらないので、再婚の際に母の車を一台処分していた。


「一人でも帰れたのに」

「勿論わかってるよ。でも俺が、今日はどうしても一緒にいたかったから」


 そう言ってはにかんだ琥太郎の手には、ケーキの箱があった。顔の高さまで持ってきたケーキの箱は、そこそこに大きい。


「帰ったら食べよう。さゆちゃんが好きなケーキ、ちゃんと選んでるよ」


 胸に喜びが広がる。

 真っ直ぐに琥太郎を見つめる頬は熱くて、冬の寒さも感じなかった。ケーキボックスには、早雪の好きなケーキ屋のロゴシールが貼られている。早雪の好きな店で、早雪の好きなケーキを選ぶ琥太郎の姿を想像して、体が痺れそうなほど心がふわふわとした。


「あれ、まだいたの?」


 カラロン――とまたドアベルの音が鳴って、店じまいを終えた店長が外に出て来た。

 シャッターに手を伸ばした店長を、琥太郎が手伝う。


「ありがとね。ええと――」

「早雪ちゃんの弟で、西 琥太郎と言います」

「コタロウ君ね。駐車場に車なかったし、もしかして困ってる? 送ってこうか?」


 宇津木店長が車のキーを見せながら二人に尋ねた。


(……あ。琥太君がいるのを知ってたから、早く帰れって言ったのか……)


 宇津木店長の優しさに早雪は感謝する。

 ありがたい申し出だが、琥太郎は断るだろう。首を横に振ろうとした早雪に、琥太郎が尋ねる。


「そうしてもらう?」


 早雪は驚いて、つい一瞬動きを止めてしまった。


(……譲っちゃうんだ)


 早雪のためなのだとしても、久しぶりの二人きりの時間を簡単に差し出してしまえる琥太郎に、勝手に裏切られたような気持ちになる。


(……ちょっと前は、店長が私の初恋の相手って知って、びびり散らしてたのに……だ、って。言っちゃえるくらいだもんな……)


 空いた沈黙に気付かれないよう、早雪は宇津木に軽く頭を下げた。


「――ありがとうございます。でも大丈夫です。駅まで近いですし」

「そう? じゃあ気をつけてね」


 宇津木は二人に笑みを向けると、スタタッと自分の車に向かった。低い車体のやんちゃな車に乗り込んだ宇津木が、地面伝いに響いてくる爆音のエンジン音を轟かせ、スムーズな動きで駐車場から出て行く。


「よかったの?」

「うん。帰ろう」


 早雪が促すと、琥太郎は迷わずついてきた。早雪に手を出して彼女の鞄を受け取ると、早雪のいない右側の肩にかける。


(……こんな子に彼女がいたことないなんて、きっと誰も信じないだろうな)


 背が高く、清潔感のある見た目。センスのいい服。上品なしゃべり方。余裕のある物腰。堂々とした立ち姿。焦らない、焦らせない柔らかな態度。女性に慣れた振る舞い。


 どれも、早雪には眩しく見える。自分の彼氏が一つでも持っていてほしい要素ばかりだ。


「元気ないね」


 琥太郎の声が柔らかくて、胸が震える。街灯に照らされた暗い視界でもわかるほど明確に、琥太郎は優しい顔をしていた。


 並ぶ琥太郎はうんと背が高くて、首を傾けなければ見上げられない。


(……いつの間にこんなに、大きくなったんだろう)


 背だけではない。早雪を心配する顔も、包み込むような声も、早雪を焦らせないために待ち続ける姿も、何もかもが、大きくて、眩しくて、直視出来ない。


「仕事、きついの?」


 スタイリスト試験に焦ってはいるが――あの、花火をした去年の夏の方が、慣れないことばかりで大変だった。今の方が目標が明確で、頑張ろうと思えている。


(なのに、今の方がずっときつい)


 琥太郎と話せなかったことが。琥太郎と会えなかったことが。琥太郎となんでもない時間を過ごせないことが――彼氏と別れた時と比べものにならないほど、きつかった。


「大丈夫だよ」


 勿論そんなこと、言えるはずもない。

 本音を笑顔に閉じ込めた早雪に、琥太郎は不満げな表情を浮かべた。


「どうせ弱音吐いてくれないなら、俺もさゆちゃんにおまもりあげたい」

「え?」

「おまもりがあるから大丈夫……って言ってたでしょ、去年の夏に」


 早雪は目をぱちくりとさせて、あはっと笑った。あはははと続けて笑うと、先ほどまで「大きくなったな」と思っていた顔が、どんどんと不機嫌に歪んでいく。年相応の琥太郎の表情を見て、喜びが胸を占める。


「……私のおまもりね、初めてのお客さんの笑顔なの」


「――へぇ、そう」


 いつもにこにことしている琥太郎が、面白くなさそうな表情を浮かべているのが、嬉しくて――ただ嬉しくて。早雪はまたふふふと笑った。


「『さゆちゃんって凄いね』って言ってくれたんだよ」


 隠しきれない喜びの浮かぶ笑みでそう教えると、琥太郎はパッとこちらを向いた。


「……俺?」


「うん」


 琥太郎のくるくるもじゃもじゃな髪を、初めて切ったあの夜――琥太郎は早雪を初めて「美容師」にしてくれた。あの日から、どれだけ苦しくても、どれだけ悔しくても、早雪の目標はずっと一つだった。


 美容師になる――その夢を支え続けているのは間違いなく、あの日の琥太郎の笑顔だ。


「琥太君がいたから、私は頑張れてるんだよ」


 勝手におまもりにして、勝手に頼っていて、負担に思われないだろうか。そう心配する早雪を余所に、琥太郎は心底嬉しそうに笑う。


「俺が役に立ててるなんて思ってもなかった。嬉しい。一生、おまもりにしててね」

「おまもりなくても頑張れるようにならなきゃだけどね」


 早雪が笑って言うと、琥太郎も笑った。


「情けない顔ばっか見せてて、ごめんね」


なんだから、いいじゃん。見せてよ」


 ――なんだから。


 強調して言われた言葉に、彼が何故、今日わざわざ迎えに来たのかを知る。


(これが、琥太君からの誕生日プレゼントだ……)


 琥太郎は弟に戻るつもりでいる。

 早雪の望み通り、なんの後ろめたさも持たない家族でいられるように、彼は仲直りに来たのだ。


 先ほどとは比べものにならない衝撃が早雪を襲った。


(いやだ、って)


 反射的に、そう思ってしまったからだ。


 紛れもなく、琥太郎の提案に対して拒絶の意思が湧いた。勢いのまま、いやだと叫んでしまいたかった。そんな自分に、大きなショックを受ける。


(なんで? ずっと私が望んでたのに……)


 受けた衝撃を受け止めきれず、琥太郎の優しい微笑みを見つめ返していると、あまりにも簡単に腑に落ちてしまった。


(ああ、そっか……。いやなんだ)


 わかってしまった。

 何故宇津木の厚意に応じる琥太郎に淋しさを覚えたのか。何故琥太郎を避けないといけなかったのか。何故琥太郎と距離を置かなければと、躍起になったのか。


(もう、私が駄目なんだ)


 ――弟だから。年下だから。未成年だから。

 ずっと、正論なんてなんの意味もないって知ってたのに。


(もし次、またあんな風に触られたら……拒絶する自信が、なかったんだ)


 琥太郎ばかりが変わったと思っていた。

 けれど、そばにいた自分も、当然のように変わっていた。


 琥太郎に、変えられていた。


「――っふ、っ」


 自分の気持ちを自覚した途端、堪えきれない思いが涙となって浮き上がってきた。立ち止まり、口と目に手を当てて涙を隠そうとするも、涙は次から次に溢れてきた。


「……さゆちゃん」


 突然隣で泣き始めた女に戸惑うことなく、琥太郎は体を寄せる。恐る恐る、何処までならば早雪が怒らないかを図るように、優しく頭に触れる。


「――……よしよし」


(上手く出来ると、思ってた)


 琥太郎の手が、遠慮がちに早雪を撫でる。


(私は大人だから、どうにでも出来るって、ちゃんと琥太君を正せるって……自惚れてた)


 恋の前にそんなもの、きっとなんの力にもならない。琥太郎どころか、自分の気持ちさえままならない。


 琥太郎は早雪が泣き止むまでずっと、早雪の頭を遠慮がちな手で撫で続けていた。






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