28:世界一の座
琥太郎の再度の弟宣言から、西家に平和が訪れた。
――ように思えた。
「……え。受験生ってこんな大変なの……?」
受験生にとっての冬を、早雪は完全に舐めていた。
美容師にとっても一月は年末年始や成人式のために繁忙期となるが――まだ学生の身だというのに、年末も年始もなく学校と塾に出かけ、朝は誰よりも早く家を出て、夜は誰よりも遅く帰ってくる十七歳男子に、早雪は完全に引いていた。
今更ながらに、琥太郎にとって大事な時期になんてことをしてしまったのだと後悔が募る。
「色々とごめんね……」
「じゃあミカン剥いて」
「かしこまりました……」
なにかしらの試験を終えて帰ってきた琥太郎と入れ替わりに両親が初詣に出かけた年初――ようやく回ってきた休みの日にちゃんちゃんこを着てだらけまくっていた早雪は、唯々諾々と琥太郎の我が儘を聞いていた。
リビングテーブルに置いてある籠に盛られたミカンに手を伸ばし、早雪はわこわことミカンの皮を剥く。
あれから琥太郎は、本当に弟らしく振る舞っている。そもそも琥太郎は、早雪が彼を男子だと意識する前から、早雪に自ら触れてくることはほぼなかったので、琥太郎にとってはさほど難しいことではなかったのだろう。
意味深な目で見つめてくることも、親密な空気に持っていこうとすることもない。何処に出しても恥ずかしくない、立派な弟である。
「……さゆちゃん?」
――というのに、気付けば早雪が、琥太郎に距離を詰めていた。
いつもは早雪がソファーに座り、琥太郎が足下に座っているのだが、今日はミカンを剥くために早雪もラグの上に座っていた。だからだろうか。隣に座っていた琥太郎に、ついしなだれながらミカンを剥いてしまっていた。
ハッとして体を離す。
こんな風に、少しでも気を抜くと、無意識に琥太郎に近付いてしまう。
頭の中のスイッチが、弟から男に切り替わってしまったかのように、恋人のような触れ合いを自然としてしまう。
(まずい、本当にまずい。琥太君に弟として接しろって言いながら……自分がぜんっぜん出来てない)
気付けば触れている。本当に無自覚なので、根本的に解決するには、一緒にいる時間を減らすしかない。
早雪は超高速でパパパパッとミカンを剥き終えると、琥太郎の前に置いた。
「……えっと、じゃあ、さゆちゃんはちょっと用事を思い出したので……」
「さゆちゃん」
そそくさと立ち上がった早雪を、琥太郎が呼び止める。
「……ん?」
「俺、トラウマなんだよね……」
突如、琥太郎が淋しげな声を出す。早雪は「えっ!?」と慌てて琥太郎を見下ろした。
「さゆちゃん。俺、世界一可愛い弟だよね? ね?」
「も、勿論。琥太君は世界一可愛いよ!」
「よかった。ならお願いだから、もう避けないでね」
琥太郎がうるうると潤んだ瞳で早雪を見上げる。
「今度避けられたら、さすがにもう耐えられない……勉強できなくなるかも……」
「ひえっ……」
罪悪感を鈍器でぶん殴られ、早雪は虫の息だ。
早雪を座らせようと、琥太郎が早雪を引っ張った。従順に座った早雪に、琥太郎が先ほどの早雪の真似をして体を寄せた。
「琥太君、重い」
「重くないよ。軽い軽い。さゆちゃんなら頑張れる」
そう言いながら、琥太郎は早雪の肩に体重をかけてくる。百八十センチ越えの男子の体重だ。軽いわけがない。体がどんどんと傾いていく。
先ほど自分がしてしまった行動のため、強く言えない。致し方がない。強く言えないのだが――
「琥太君」
「何?」
「離れて?」
「なんで?」
「離れてほしい……」
「どうしたの? ドキドキしちゃうとか?」
なんてね――と笑いながら、琥太郎が早雪の肩から体を起こす。
そして、真っ赤になっている早雪の顔を見て、琥太郎は固まった。
琥太郎が手を伸ばす。
俊敏な動きで早雪はその手から逃れると、大慌ててリビングを出る。大股を広げて階段を駆け上り、早雪は自室へと逃げ込んだ。
バタンッ――と勢いよくドアを閉める。
そのまま早雪がドアに背を当てるとほぼ同時に、追いかけてきた琥太郎がドアをダンッと叩き付けた。
「さゆちゃん!」
「なし! 今のはなし!」
「さゆちゃん開けて!」
「無理! なしで! お願い!」
お願い、と小さな声で言った早雪は、ドアの前で膝を抱えた。琥太郎もずるずるとしゃがみ込むのを、ドア越しに感じ取る。
「……さゆちゃん、その顔はずるいよ……」
そんなことを言われても、と早雪は抱える膝の力を強め、なんとか顔の熱が落ち着くのを待った。
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