29:未成人と成人
「えっ? 十八歳から、成人?」
「びっくりですよねー。成人式とかどうするんだろ」
客の髪をドライヤーで乾かしていた早雪は「本当ですね」と口にしつつ、もの凄く動揺していた。
成人の日の美容師の朝は早い。夜も明けぬ頃から典子と共に起き、互いに無事を祈りつつ職場に向かった。前日に受け取っていた客の着物を確認し、着付けを頼んでいる大先生を迎えると、日の出前に開店する。
それから何人もの着付けを終え、メイクをし、髪をセットし、成人式会場へ向かう客を見送った頃には――午後からの通常業務が始まる。
疲労困憊の中、ブローを任されていた早雪は「そういえば、来年から成人年齢が引き上げられるんですってね」という話題に驚愕していた。
「お酒とか煙草は、二十歳のままって話ですけどねー」
「そうなんですね……」
(十八歳で、成人……)
琥太郎が成人してしまえば、琥太郎を遠ざけるための自分への言い訳が、一つ減ってしまう気がした。
足下が揺らぐような、心許なさを感じた。
***
二日目のセンター試験が終わった琥太郎のスマホに、塾から怒濤のメッセージが届いていた。塾で採点するため、問題用紙を持って真っ直ぐ塾へ来いという指令だった。昨日は無視したものの、今日ばかりはこの指令を無視するわけにもいかない。
――早雪に無視をされた一ヶ月間、琥太郎は無心に勉強をし続けた。
元々、あんなに格好良くて綺麗な早雪が、自分なんかに簡単に靡くとは思っていない。更には、琥太郎には典子との約束もあった。
『それまでは、分別を持って接してちょうだい』
卒業まではは琥太郎の気持ちを押し付けることは出来ない。
せめて、琥太郎の気持ちを知った早雪に意識してほしいと頑張ってもみたが、家族を深く愛し、心根が真面目な早雪には逆効果にしかならなかった。
きちんと
(今のままの俺じゃ、多分駄目だ)
家族としての信頼を裏切っている上、学生の本分すら全うしていない中途半端な自分ではきっと、早雪は振り向いてくれない。
それに、恋にうつつを抜かして琥太郎の成績が下がったりすれば、早雪は己を強く責めるだろう。そうなってしまえばきっと、もう勝ち筋は残されていない。
だから琥太郎は、早雪に無視をされている現実から逃げるために、そしていつかの自分で早雪に振り向いてもらえるよう、勉強に打ち込んだ。
警戒を強める早雪のもとに、誕生日にかこつけて「弟だから」と迎えに行ったのも、彼女を諦めたわけではない。
早雪のそばにいたかったし、家に寄りつかなくなった早雪のことも心配だった。
とりあえず今は引くしかない。そう思ってのことだった。
(――なのに)
最近早雪が、なんだか甘い。
琥太郎に対してガチガチに固めていた壁が、時折崩れるのだ。ふとした瞬間に、防御を緩めている。
琥太郎の抱く好意に気付いてからずっと許されなかった距離を、近頃の早雪はほんの時たま許してくれる時がある。
そしてそんな時の早雪の表情は、声は、温度は――すごく甘い。
(絶対、今が押し時なのに――)
けれど、初志貫徹すべしと己に誓ったばかりである。それに典子との約束もある。琥太郎の心は冬の間、この電車以上にぐらぐらと揺れていた。
――ブブブ ブブブ
あまりにも通知音が途切れないためにバイブにしたスマホが、鞄の中で引っ切りなしに鳴っている。どれだけLINEを送ってこられても、電車の速度は変わらない。
少々辟易しながら、久世先生に返信する。きっと彼も、塾長に急かされて送ってきているのだろう。
他の乗客からの視線が痛くて、琥太郎は電源を切った。
「あの」
最寄り駅で電車を降り、改札口へ向かっていると、声をかけられた気がして、琥太郎は立ち止まった。耳からイヤホンを外し、声のした方を振り返る。
そこには、女生徒が三人いた。見たことがある制服は確か一つ駅が離れている学校のもののはずだ。
「俺ですか?」
「そう。西君だよね?」
「はい」
鞄の中のスマホにちらりと視線を向けた。電源を切るんじゃなかった。つけてさえいれば、バイブの振動音で会話を切り上げられたのに。
琥太郎がスマホを気にした一瞬の隙に、女生徒三人がきゃあきゃあと盛り上がる。
「わーっ! まじやん!」
「まじでコタローと知り合いやったん?? すごっ」
「久しぶり。センター帰り? 学校に寄るの?」
女子に詰め寄られ、琥太郎はたじろいだ。対峙する相手が誰なのか、全くわからなかったからだ。
しかし、口ぶりからして知り合いなのだろう。中学までの琥太郎ならいざしれず、早雪に躾けられた琥太郎は、あからさまな表情は浮かべない。僅かに目元を細めて、笑みを作る。
「ううん。俺は塾に呼ばれてるから」
「どこの塾に行ってるの?」
通っている塾の名前を伝えると「私、一年の頃そこに通ってたよ」と、メインで話しかけてくる女生徒Aの隣にいる女生徒Bが嬉しそうに言った。
心底どうでもよくて、「これ何タイムなんだろう」と現実逃避をしてしまう。マナーモードにするのではなかった。せめてスマホが鳴ってくれれば、この場を切り抜けられるのに。
「久世先生元気?」
「塾までどうやって行くの?」
「久々だし一緒についてっていい?」
女生徒らは話を止めようとしない。どうやって話を打ち切ろうか思案しつつも琥太郎が愛想笑いを浮かべていると、背後から声をかけられた。
「コタロー君?」
次はなんだと、笑顔で振り向いた。するとそこには、同じ塾に通っている
「……先生から、急げってLINEめっちゃきてるんやけど、大丈夫?」
梨央奈は琥太郎と女生徒らを不自然にならないように見比べ、緊張した面持ちで言った。琥太郎はにっこりと微笑んで、梨央奈に近付く。
「吉岡さんも呼ばれてるの?」
「うん。うち迎え来るから、一緒に乗る?」
「お邪魔していい? ありがとう」
じゃあごめんね、と頭を下げて別れようとした琥太郎の鞄を、女生徒Aがひしっと掴んだ。琥太郎と梨央奈は二人でぎょっとする。
「彼女?」
「……違いますけど」
「だよねぇ」
梨央奈を見て、女生徒Aが鼻で笑う。
隣の梨央奈には申し訳ないが、その顔を見て、琥太郎は彼女が誰だか思い出した。
(……あ、白石さんか)
中学の頃、勘違いの末に琥太郎を手ひどく振った女子だった。
(だからこんな、高圧的なのか……)
一度振った琥太郎を、自分より格下だと決めつけて話している。白石は梨央奈を完全に無視して琥太郎に話しかけて来た。
「西君、今付き合ってる人いるの?」
「いないよ」
「じゃあ連絡先交換しよ? 一緒に勉強したいし」
あれほど琥太郎を詰った口が、弧を描いている。微笑んだ白石は美しかったが、醜悪としか感じられなかった。
「ごめんね――ずっと、貴方が誰だか思い出せないんだけど、俺、好きな人いるから」
「え……?」
「誤解されるようなことしたくないんだ。ごめんね」
申し訳なさそうな表情を作って謝ると、ずっと隣にいてくれた梨央奈に微笑みかける。
「――吉岡さん、待たせてごめん」
元々陰キャだった琥太郎にならわかるが、いくら相手が困っていたとはいえ、普段顔を合わせる環境以外で声をかけるのは、かなりの覚悟が必要だ。
だが梨央奈は緊張しながらも、困っていた琥太郎に話しかけてきてくれた。
連絡先を断るのに白石の鼻を明かす必要はなかったが、親切な梨央奈に報いるくらいには、恥をかかせてもいいだろう。
完全な笑顔を向けた琥太郎に、梨央奈はぎこちなく微笑み返してついてきた。白石達は追いかけてくることもなく、人通りの少なくなった駅構内に三人で立ちすくんでいた。
「――吉岡さん、ありがとう」
「……困ってるのかなって声かけたんだけど、全然役に立たんかったね」
申し訳なさそうに言う梨央奈に、琥太郎は首を横に振った。
「そんなことないよ。吉岡さん来てくれないと、あの人が誰か本当にわかんなかったから、話を切り上げられなかったし」
「え?」
その場合、角を立たせるわけにもいかないだろうと、ずっと世間話に付き合っていたはずだ。白石だと自己紹介されても、中学の頃のクラスメイトと同一人物だと察せなかったかもしれない。
梨央奈は不思議そうな顔で琥太郎を見ていたが、琥太郎は笑顔で封殺した。
「迎えって本当に来るの?」
「ごめん。実は来ない」
「そう。大丈夫だよ。歩いて行こうか。LINE、そっちもやばいくらいきてるね」
「コタロー君見つけたら確保しろって……」
「そんなふらふらしてるように見えるかな、俺」
戸惑った表情で改札を抜けると、後ろから来ていた梨央奈が「あ」と言って立ち止まった。
「……オツカレー」
「お、つかれ……様です……」
駅の柱に寄りかかっていたのは、とんでもないイケメンだった。琥太郎のように作られた雰囲気イケメンではなく、持って生まれた顔の良さの恩恵を余すことなく受けてきた天然物のイケメンだ。
姿勢悪くゆるっと立っているのが、また様になる。組んでいた長い足を解き、鬼イケメンはこちらに――梨央奈に近付いてきた。
「まさかセンター帰りに男引っかけてくるとはね」
「清宮さん、そういうこと言うのやめて」
清宮と呼ばれた男は派手で目立つ顔立ちをしている。そのため、琥太郎の記憶にも残っていた。随分前に梨央奈を久世先生と共に車で送った時に、彼女の家の前で一度会ったことがある。
清宮は勝手に梨央奈の通学鞄を取ろうとするが「これくらい自分で持てます」と抵抗される。しかし、にまーと笑った清宮は、有無を言わせず梨央奈から鞄を奪った。
手のひらを上に向け、自分の肩に手の甲を乗せて梨央奈の鞄を持った清宮は、もう片手は梨央奈の腰を抱く。梨央奈は頭の上に、イケメンの顔を生やした。
「帰るやろ? 迎え来た」
「迎えは大変ありがたいです。塾に送ってくれます?」
「は?」
「コタロー君も」
「はあ?」
イケメンが顔を顰めて琥太郎を見た。足先から頭のてっぺんまで見て小さく呟く。
「顔、やっぱめちゃくちゃ普通やな」
(この人と比べれば、誰でもそうだろう)
そうとしか感想が抱けないほど、男の顔は整っているのである。梨央奈が慌てて清宮の顎を下から押し上げ、口を閉じさせようとする。
「いらないこと言うなら、今すぐ帰ってください」
「それは、俺が
「駄目に決まってるじゃないですか……もうしゃべんないでくださいっ」
歩いて行くから。と清宮の腕をペイッと払いのけた梨央奈をケラケラと笑った清宮が、手のひらを開いて車の鍵を見せる。
「はいはい。黙っといてやるから、乗れよ」
「彼氏?」
「違う」
教師らが、額を合わせて問題用紙を覗き込んでいる。
職員室の隅に座った琥太郎が、隣に座った梨央奈に尋ねると勢いよく否定された。
――結局、清宮は約束を守り、塾に辿り着くまで口を開かなかった。塾に着いた後も、梨央奈に「帰りLINEしろよ」と言っただけで、また車を走らせて行ってしまった。
「――夜、先生に送ってもらわなくなったのって」
「先生の迷惑になるからって。それだけやから」
食い気味に梨央奈が言い訳する。
以前は夜遅くなると、梨央奈も久世先生に一緒に車で送ってもらっていたのだが、一時期を境に同乗しなくなった。先生の方に、女生徒を特別扱いする苦情でも入ったのかと思っていたが、どうやら違う原因のようだ。
「大人っぽい人やったね」
「割と子どもっぽいんやけどね」
吐き捨てるように言う梨央奈の口調は、それでもどこか彼に対する親しみを有していた。
「……それは、なんとなくわかるな」
絶対に同じ年にも、年上にもなれるわけがないので、自分と同じようなところや、抜けているところを見かけると、ついつい喜んでしまう。
そんな小さな特別を見つける度に、自分だけに見せてくれているのではないかと、優越感を得てしまう。
「吉岡さん」
「?」
「さっき言ってた、俺の好きな人ってのもね――年上なんだ」
こんなに個人的な話を誰かにするのは、初めてだった。試験が終わって高揚しているのだろうか。
共犯者のような笑みを浮かべ打ち明けた琥太郎に、梨央奈は途方に暮れたような顔をして「同じやね」と呟いた。
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